あの日見た空の色も青かった

木立 花音

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第二章:彼女と別れるまでの十数日間

高崎美奈子

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「何? もしかして知り合い?」

 旦那であろう男性の問いかけに、美奈子は笑って頷いた。「少しだけ時間良いかな?」と彼に承諾を取ると、娘と目線を合わせてから、こう伝える。「ママちょっとだけ用事ができたから、パパと一緒に、民宿のお部屋に行って待っててね」
 うん、と娘が肯いたのを確認した後に立ち上がると、彼女は、逢坂部の方に向き直った。

「久しぶりね、賢悟君。これから少しだけ話せるかしら?」
「ああ、別に構わないよ」

 彼はただそんな風に、殊勝に頷くことしか出来なかった。一方で帆夏は、張り詰めた緊張感でも感じ取ったのだろうか、「私、先に宿行ってるね」と告げると、擦れ違いざまに美奈子に会釈を送り、そのまま民宿の中に入って行った。

「レストハウスにでも行こうか?」逢坂部はバイクに視線を送りながら提案してみたが、「ううん、歩きながらで良いよ」と美奈子は遠慮がちに答えた。

 そうして二人、肩を並べるようにして海岸沿いの道を歩き始める。眼前には防波堤がそびえ立ち、壁一つ隔てた向こう側に広がっているのは、幾つもの漁船が停泊している港。海まで距離のないこの場所は、時折強い海風が吹きすさぶ。気まぐれに吹く風は二人の髪をかき乱し、同時に磯の香りを運んできた。

「どうして、あの後、手紙出してくれなかったの?」

 会話の口火を切ったのは美奈子だった。腹の探り合いなしのド真ん中直球に思わず苦い顔になる。だが元々は口下手な彼女の事、まあこんなものだろう、と彼も思い直した。

「返事を出さなかったこと、本当に申し訳ないと思っている。君から届いた最後の手紙も、しばらくの間怖くて開封出来なかったんだ。読んだのも、つい最近のことだ」

 数日前とは流石に言えず、最近などという、曖昧な表現に留めておいた。

「冗談でしょ?」と美奈子は目を見開いた。冗談だとしたら、どんなにいいことか。「残念ながら、本当のことだ」
「どうして……」と言った後で、彼女は自嘲気味に笑った。「ゴメンね。さっきからどうして、どうしてって、一方的に私が質問責めをしてるみたい。質問だけじゃアンフェアだから、私が抱えていた本音も、話しておくね」

 ああ、と緊張気味に彼は頷くと、美奈子の方に体を向け聞く体勢になった。

「最後の手紙にも書いた通り、私はどうしようもない人生を送っていたの。きっと文通を続けている間だけでも、自分の本当の姿を隠して、美しい思い出の女の子を演じたかったのかも。それでも結局自分の姿を曝け出したのは、やっぱり弱かったから。弱みを見せることで、賢悟君が救いの手を差し伸べてくれるかも、と甘えてたんでしょうね」
「俺も、君と似たようなものだった」
「え……?」
 振り向いた彼女の瞳が揺れる。
「君と同じさ。俺も手紙の中で、虚構の姿を作り上げていたんだ」
 美奈子がひとつ、息を呑んだ。
「本当の俺は、もう少しつまらなくて、もう少し暗くて、親友と呼べる存在が居ないような男だった。だが、そんな自分の姿を曝け出す勇気がなかった。真実の姿を知られてしまうのが恐ろしくなって、君に返事を出すことができなくなったんだ。辛いのはむしろ美奈子の方だったはずなのに。……本当に申し訳なく今は思うよ」

 謝罪の意を示すため、深く頭を下げる。すると彼女は「そうなんだ……」と呟きながら、一度立ち止まった。
 くるっと踵を回して海の方に身体を向けると、独白するように話し始めた。

「自分のせいで私が傷ついた……なんて、勘違いしないでよね?」
「美奈子……?」
「私は勝手にあなたに恋をして、勝手に告白し、勝手に失恋した気持ちになっていただけ。本当にあなたの心が欲しいと願うのならば、もっと早くから行動するべきだった。何時もそう。私は臆病だから、気が付くと売れ残ってて、何時の間にか孤立してる。高校時代の三年間は本当に悲惨だったけれど、運命に抗う勇気も無かったから、賢悟君の事を思い出して、縋りたくなったのかもね」

 ふう、とひとつ息を吐き、もう一度踵を回すと、今度は逢坂部と正面から向き合った。

「本当は、私のこと好きだった……?」

 彼女が向けてくる問質すような瞳に、その想いに、思わず俯いてしまう。自分に『好きだった』と告げる資格など、本当にあるんだろうか?
 だがここで、『嘘をつくべきでは無い』とも彼は同時に思った。もしかするとこれは、美奈子と交わす最後の会話になってしまうかもしれない。例えそれが俺達の思い出の中だけであろうとも、二人の恋愛は成就するべきだ。

「ああ、好きだった。今更どの面を下げてこんな事を言って良いのか分からないけれど、恐らくは中学一年の頃、写真部に入った当時から君に惹かれていたと思う」

 その言葉を受け取ると、美奈子は「やっぱりな」と呟いた。おもむろに手のひらを広げると、指折り数えながらこう言った。

「最後の手紙を出したあの日から、もう八年にもなるのか……」

 実に皮肉な結果だ、と逢坂部は思った。二人がこうして再び顔を合わせ、真実を伝え合い互いの気持ちを確かめ合うまで、八年も掛かってしまったのだ。本当にどうして、こうなってしまったのだろう。

「私、賢悟君の気持ちに、薄々と感づいてたのになあ……。あ~あ、なんだか拍子抜けしちゃった。『好きだった?』と問いかけて、直ぐに『そうだね』って返ってくるのか……。そんなに簡単な事だったなら、もっと早く告白すれば良かったな。ねえ、そう思わない?」
「そうだね、本当にそう思うよ。もしあの時、君の手紙に返事を出していれば。もっと早く、自分の気持ちと向き合っていれば。何度もそんな事を考えては、後悔を繰り返していた。結局は何事にもタイミングが重要、なのかもしれないね」

 ……タイミングか。自分で言いながら、心の中に重石が一つ増える感覚を彼は味わっていた。
 俺と帆夏の現状になぞらえるならば、今は最も悪いタイミングだ。彼女を好きだと想う気持ちだけで、今の関係を続けても良いのだろうか?

「どうして相思相愛だったのに、私たちって結ばれなかったのかな? なんだかオカしな話だね」

 美奈子は傷ついたような笑みを浮かべると、堪えきれずに零れ落ちた涙を指先でそっと拭った。
 本当に美奈子の言うとおりだ、と彼も思う。実際に俺達は、結ばれるべき運命の下に居たのかもしれない。そして美奈子は、そうなるべく最低限の努力をした。一方で俺は現実から目を背け、ただ逃げ回っていたが故に、最悪の結果を招いたのだろう。元凶はやはり、俺の弱い心なのだ。
 だが逆に、こうも考えられないだろうか?
 仮に俺達二人が結ばれていたとするならば、今現在、美奈子には多大な心配と気苦労を掛けていた事だろう。彼女の視点で見るならば、むしろ今の方が良いとすら言えた。自分は何もしていないのだから情けない話だが、怪我の功名だ。

「でも、美奈子が幸せな生活を手に入れていた事に、俺は安堵してもいるんだ。旦那も子供も、大切にしてやりな」
「うん、ありがとう。私ね、今、凄く幸せなんだ。賢悟君は……誰か恋人とか大切な人は居ないの?」

 彼女の問い掛けに逡巡した。
 居る……と宣言したいのだが、自身の後ろめたい境遇を考えると、帆夏の事を恋人だと胸を張って言えない自分がもどかしい。情けないものだと辟易し、頭の中で言葉を選び熟考した後に、ようやく口を開いた。

「一応……居る。俺なんかには勿体無いような素敵な女性だ。恋人と呼んで良いのか、居るなどと宣言しても良いのか、戸惑いを感じてるくらいだ……」

 美奈子は口元に薄く笑みを浮かべると、何処か呆れたような口調で言った。

「相変わらず、自分に自信を持っていないのね。彼女は賢悟君のこと、愛してると言ってくれるんでしょ?」
「それは……まあ、その通りだ」
「事故のこと、ニュースで見たよ。大変だったみたいね。でも、『頑張ってね』とは私の口からは言わない。頑張るのなんて当たり前の事だし、賢悟君の傍らにも居られない私が言っても、偽善者めいた台詞でしかないもの。でもね。その女性は賢悟君の側に居てくれるんでしょ? 賢悟君のことを受け入れて、好きだと囁いてくれるんでしょ? だったら、彼女の気持ちに応えてあげなくちゃ。私の時みたいに、”行動しないで”後悔しちゃダメだよ?」

 彼女はそこで、一度言葉を切った。「後悔するのは……私一人だけで十分だよ」

 美奈子の言葉に、胸が詰まる思いだった。彼はただ一言「ああ、君の言う通りだ」と強く肯くことしか出来なかった。
 あらためて彼は思う。白木沢帆夏を、愛してると。
 本当に、帆夏と出会えて良かった。
 本当に今日、美奈子とも出会えて良かった。

 それから二人は、十年間にお互いが感じていた孤独を訴えあった。こうして会ってみると、話したいことはお互いに尽きぬほどあった。楽しかったことも。悲しかったことも。辛かったことも。直接的な表現は避けながらも、お互いの不在がどれだけ辛かったか、今までどれほど逢いたいと願い続けていたのかを、言外に相手に伝え続けた。

 別れ際、逢坂部が美奈子に連絡先の交換を申し出ると、彼女も笑顔で応じた。
 この先美奈子と出会うことは無いだろうと思った先ほどの予測を、早速窓から放り捨てる。今後彼女とは良い友人になれそうだと、彼は予感した。

 そして、同時に気が付いた。
 俺は、帆夏のことを幸せにしてやりたい。そのために、一番最初に自分が何をするべきかを。
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