あの日見た空の色も青かった

木立 花音

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第三章:彼女の真実に触れる十数日間

彼女が見る夢

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 白木沢帆夏は、夢を見ていた。
 季節は晩秋。場所は、さいたま市にある賃貸アパートの一室。
 部屋中に響き渡っているのは、耳障りなほどに甲高いアラームの音だ。眠りの淵から強引に叩き出されて、微睡みと覚醒の中間辺りをたゆたう意識のなか、耳元で騒音を奏で続けている携帯電話に彼女は手を伸ばした。
 アラームを止め、毛布から顔だけを出してみる。窓に設置されたブラインドの隙間から柔らかな朝陽が射しこんでいるのが見えた。
 寝不足……というわけでもないが、瞼も身体も物凄く重い。んー、あと五分。眠そうに声をあげ、毛布を引っ張り上げて朝陽に目を眇めた。携帯電話の画面をじっと注視し、なんだ、まだこんな早い時間……と一旦安堵しかけたところで、慌てたように跳ね起きる。

「――忘れてた。今日から三十分早く起きると決めたんだった」

 誰に言うともなく呟き布団から這い出すと、パジャマを着たまま洗面所に向かう。急いで歯を磨き、水の冷たさに辟易しながらタオルに顔を押しあてた。
 朝食用のトーストをレンジに突っ込んでから、クローゼットを開け放つ。これで、いいかな。白いブラウスと膝上丈のスカートを取り出して、パジャマから着替えていった。
 姿見の前に立ち、角度を変えながら身だしなみをチェックすると、ヘアアイロンの電源を入れた。
 鏡台に座って、問題は、ここからなのだ、と帆夏は鏡の中の自分を凝視する。
 化粧をする習慣が殆どなかったため、苦手意識が正直強い。でも「頑張らなくちゃ」、と帆夏は決意を口にしてみる。『元がいいんだから、ちゃんと化粧しなよ』と友達にも散々からかわれてきたし、今日からちゃんとすると決めたのだから。早起きしたのも、メイクに人一倍時間がかかるからだ。
 髪の毛を丹念にブラッシングする。ヘアアイロンの温度が十分上がっているのを確かめたあと、毛先を内巻きにしっかりカールする。
 メイク道具を広げて唸っていると、レンジから加熱終了の音が聞こえた。けど、構っている余裕なんてない。トーストが冷めてしまうのも厭わず放置して、鏡だけを見つめて悪戦苦闘し続けた。化粧下地を肌に馴染ませ、ファンデーションを塗り重ねる。派手なメイクにするつもりはない。……というか、そこまで器用なスキルはない。背伸びなんてせず、ナチュラルな仕上がりを目指した。
 アイシャドウを塗るとき、緊張から手が震えた。ピンク色の紅を指し、上下の唇を合わせて口紅を馴染ませたらようやく完成。
 化粧するときよく見えないから、やっぱりコンタクトにしようかな? 馴染みの黒ぶち眼鏡をかけつつ、そんなことをぼんやりと思う。
 でもなあ……コンタクトに変えちゃったら、私だって気付いて貰えないかも。折角顔を覚えて貰った頃合なのに、それもなんだか寂しいな。どうしようかな……なんて、考えてる場合じゃなかった! 時間!
 気持ちだけが急いていくなか時計を確認すると、時刻は七時前だった。良かった、まだ大丈夫。最後にもう一度だけ、鏡でチェックしてから立ち上がる。

 すっかり冷めてしなしなになったトーストを咥えると、アパートの鍵を握って部屋を飛び出した。ローファーを履いて爪先をとんとんと床に叩くと、自然と心も弾んでくる。
 顔が火照っている。たぶん、口元も緩んでいるだろうな。同じアパートの住人に見られたら、気持ち悪いって思われるかな?
 玄関を開けて空を見上げた。雲は厚くないけれど、鈍色の雲で空一面が薄く覆われ、青みはまったく見えない。吹き抜ける風も心なしか肌寒い。あんまり天気良くないな、と帆夏はそう判断すると、一旦アパートの中に引っ込んだ。厚手のパーカーを羽織ってマフラーを首に巻く。もう十月なのだ、風邪には気をつけなくちゃだ。
 錆の浮いた手すりに触れながら、アパートの階段を駆け下りる。息を弾ませて、バス停までの道をひた走る。走りながら腕時計に目を落とし、まだ十分じゅっぷんあるな、と時間を確認する。
 ここでようやく一息ついて、帆夏は歩調を緩めた。緩やかな坂道を下って行くと、大きめな交差点に差し掛かる。交差点を超えて、更に真っ直ぐ進むと、小さな商店街が見えてくる。その丁度真ん中辺りに、毎日通学に利用してるバス停があるのだ。
 手鏡をポーチから取り出して、最後にもう一回だけ身だしなみをチェックしよう。
 緊張から走り出した鼓動を宥めるみたいに胸に手を当て、彼女はバス停に並ぶ列の最後尾についた。落ち着きなく待つこと数分。毎日乗っている路線バスがやって来る。
 緑と白。二色に塗り分けられた、路線バス。改札券を取ってバスに乗り込むと、即座に運転手さんの後ろ姿を確認する。

 ──やった! 逢坂部さんだった。

 心の中で、小さくガッツポーズを作った。
 折角宥めたはずの鼓動も、また直ぐに加速してしまう。なんだか恥ずかしくなる程に荒い息遣いをしながら、運転席の左斜め後ろに帆夏は座る。この場所が彼女の特等席。良かった、今日も空いていた。

 今日から早起きを始めたのも、慣れない化粧に力を入れているのも、コンタクトに変えようかと日々悩んでいるのも、何度も鏡を覗いて身だしなみに気を遣うのも。全部、全部彼のため。
 彼の名前は──逢坂部賢悟。帆夏が毎日通学で利用している路線バスの中で出会う運転手。名前だけならば、バスの前方に表示してあるプレートで直ぐに分かった。
 髪を下ろした、ちょっと大人しそうな印象の男性。年齢はたぶん、二十代の半ばから後半位なのかな? 実年齢よりちょっとだけ、老けて見えるかも、と帆夏は思う。でもね、瞳が凄く綺麗で、優しそうなんだよ。これは私だけが知っていれば良い情報。だからみんなには内緒。
 最初に出会ったのは、帆夏が短大生になって入学式開けの初日。
 彼女の母親は気難しい人で。裏を返すと、ちょっとだけ心配性で。帆夏が岩手を出て埼玉の短大に進学したいと言った時、猛反対された。双子の妹が地元の大学進学だったから、余計にそうだったのかもしれない。
 今はまだ、将来の夢も曖昧で。夢を探している途中、といえば聞こえは良いが、単に、都会に出てみたいだけでしょ? と突っ込まれると帆夏も真向から否定はできない。それだけに、一人でもちゃんとできるんだ。規則正しく生活するんだと心に誓った。
 それなのに……都会の空気にあてられ舞い上がっていた彼女は、興奮して深夜まで寝付けず早速寝坊してしまう。
 息せき切って必死に走り、ようやくバス停と路線バスの姿を視界に捉えた瞬間、無慈悲にもバスは発車した。『ああ……いきなり遅刻か。初日くらいは遅刻したくなかった』と肩を落とし、膝に手を付いたその時、止まってくれたのが彼だった。
 発車したはずのバスが路肩に止まって、扉が開いた。帆夏が驚いて駆け寄ると、『君、乗るんだよね?』と運転手さんが声を掛けてくる。
 帆夏は大きく口を開いたまま、ただ無心で頷いた。
『そう? じゃあやっぱり止まって良かった』
 運転手さんはそう言って、あどけない顔で笑った。
 瞬間、風が吹いた。
 見た目の印象と違った彼の笑顔が、優しい声の響きが、帆夏は今でも忘れられない。
 次の日から、毎日通う通学路は彩りが鮮やかになった。朝のバスでしか出会えないけれど。彼の住所はおろか、趣味も性格も全然知らないけれど。運転手さんが逢坂部さんだった日は、ちょっとだけ弾んだ気持ちで一日が始まる。
 ああそうか。これが一目惚れなんだと帆夏が気付くまで、大して時間は掛からなかった。

 季節は移ろい数ヶ月が過ぎたころ、彼女はちょっとだけ勇気を出してみる。
 定期券を見せてバスを降りる時、「御勤め、ご苦労様です」と恐る恐る声を掛けてみた。彼は何も言わなかったけれど、帽子の鍔に手を当て、小さく会釈を返してくれた。
 頑張った自分にエールを贈る。
 その日は一日中、心が弾んでハッピーだった。
 翌日からバスを降りるときの声掛けは、帆夏の日課に変わる。
 帆夏が彼の事を友人に相談すると、いつも笑われてしまう。『なんでそんなオッサンが良いの? もっと若くてカッコいい男が、同じ大学に幾らでもいるでしょ!?』って。
 けど、帆夏には良く分からなかった。年齢とかカッコいいとか、そういうのも好きになる一要素っていうのは頷ける。でも一目惚れって、ちょっと違うと思う。
 好きになる理由、なんて要るのかな? 要るような気もするし、要らないような気もする。それでも、とにかく私は、自分の気持ちを大切にしたいから。
 だから今は、と彼女は思う。こうして彼の背中を見ているだけで幸せ──と、ここまで考えたところで、『早く告白しちゃいなよ』と妹に言われたことを思い出す。
 でも、告白なんてどうしたらいいんだろう? 直接口で……なんて言えるはずないし、メールアドレスだって知らないし、手紙で気持ちを伝えたら、センスが古臭い女って思われちゃうかな……なんて妄想を巡らしているうちに大学の校舎が見えてくる。
 ずっと彼の横顔ばかり眺めてるから、なんだか早く着いちゃうな。
 名残惜しいけどしょうがない、と彼女は拳を握る。よし、今日も頑張らなくちゃ。マフラーを巻きなおして席から立つと、早鐘を打ち続ける心臓に左手を添え宥めた。
 震える右手で定期券を差し出すと、今日も帆夏は勇気を出して声を張る。

「御勤め、ご苦労様です……!」

 もどかしくて寂しくて、そんな一日が、また始まる。
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