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第一章「三嶋蓮」
【失恋の記憶】
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「なあ、お前」
乱れた呼吸を整えながら、セーラー服の女子学生に話しかけた。
「あ……はい。こんにちは」
「こんにちは、じゃないだろ。どうして今日も、傘を差してないんだよ」
「傘?」
なんだよ、そのリアクション。お前は、雨が降っているのを認識できない病気か何かなのか?
今日もくっきりと下着が透けていることに気がつくと、反射的に視線を逸らした。推定中学生相手になにをドキドキしてんだよ、と内心で軽く毒づきながら。
「だからさ……雨降ってるだろ。なんで……」
「ああ、そうだ。この間は傘を貸して頂いて有難うございました」
そう言って差し出された傘を受け取って広げると、無理やりに押し戻した。
「ありがとうございました、じゃねーよ……。その様子じゃ返してもらう訳にいかないだろう。というかさ、持ってたんなら差せよ」
呆れている俺を他所に、「ああ、そうですね」と呟きながら彼女は傘を受け取った。雨に濡れた向日葵のように笑んで、傘を差した。
やっぱり変な女、と思う傍らで、彼女の横顔をしげしげと眺めた。こうしてまじまじ観察すると、まあだいぶ可愛いほうだ。
モテなさそうとか、モテそうとかいう曖昧なカテゴリーではなく、確実にモテる容姿。
綺麗な瞳に長い睫毛がかかっている。透き通るような色素薄目の肌は、ちょっと病的なほどに白い。
「そういえばさ。この間学校のこと訊いたとき櫻野って答えてたけど、もちろん中学の方だよな?」
櫻野学園は中高一貫校なので、『櫻野』だけでは中学生か高校生かわからない。中等部と高等部で制服が違うはずなのだが、俺の記憶の中には、制服に関する情報がない。
女の体を包む衣服には頓着がない。興味があるのは中身だけ。冷静に自己分析を進め、今の俺ってやっぱサイテーだなって思う。
「中学二年生ですよ。十四歳」
「中学生か。だよな」
そのあどけなさで、さすがに高校生は無いよな、と妙に安堵する。
櫻野学園は、この辺りでも偏差値高めの私立高。進学校としても有名なので、通学している生徒には比較的お嬢様が多い。そのため櫻野の女子生徒は、他校の男子生徒から羨望の眼差しで見られる。
まあいくら可愛くても、中学生に手を出そうとまでは考えないが。それ程、女に困っているわけでもないしな。
そう、これは自分に対する戒め。
「それで? 今日はこんな時間からどこに行くつもりなのさ?」
「西公園です」
「西公園……?」
西公園とは、明治八年に開園した仙台市内で最も古い都市公園。当初は桜ヶ岡公園と称していたが、町の西側にあることから西公園と呼ばれるようになり現在の西公園に名称が変わった。
広瀬川の左岸沿いにあり、四月になると多くの人が花見に訪れる市内屈指の桜の名所として有名だ。
春は新緑のトンネルの中を歩き、夏は緑陰に憩い、秋は落ち葉をさくさくと踏みしめながら散歩し、冬には木々に積もった雪の下を静かに歩く……。この場所からバスに乗って、何度かおかんに連れていってもらった記憶がある。
そう、昔よくな。
でも、お前はなんのために?
「家に、帰るところじゃないのか?」
「帰りますよ。但し、公園に寄ってからですが」
あくまでも、公園には行くんだな。
「こんな時間から、何しに行くんだよ。もう夕方になるんだぞ?」
その通りだ。先日は昼前後だったから気にも留めなかったが、今日は日没間際の時間帯。こんなに薄暗くなってから、女の子が一人で公園になんて行くもんじゃない。
ずぶ濡れの女の子がバス停で一人、というのも危なっかしいが、もはやそれの比ではない。
「人と待ち合わせをしているんです」
「待ち合わせ?」
「はい」
「家族か?」
すると少女は下を向いた。拍子に、耳にかかっていた髪の毛が頬に流れた。
「いえ、大事な人なんです」
緊張しているのだろうか。それは酷いかすれ声で。少女の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
そうか、恋人なんだろうな、と彼女の反応から得心する。そりゃあ、こんだけ可愛い女の子だ。彼氏の一人や二人居ても不思議じゃない。急に気持ちがささくれ立って、子ども染みた嫉妬の感情が浮かんだ。
なんなんだ俺、と思う。たぶん彼女が、森川に似ているせいだ。
「大事な人、ねえ。まあいいや。もう暗くなるんだし、気をつけて行けよ」
じゃあ、と手を振って、やさぐれた気持ちでバス停を離れた。
「……はい」
彼女が放った声が、ざーざーという雨音のなかに溶け込んで消える。
どこからか、蛙の鳴き声が聞こえてきた。通りすがりに民家の庭先を見ると、枯れ始めた紫陽花の花が、雨に濡れていた。
その光景に、嫌な記憶が蘇ってくる。俺が十四歳だったあの夏の日。あの日も、こんな感じの雨が降っていた。
※
「急に雨、降り出したよね」と、土砂降りの雨を見つめて、森川菫がそう言った。
それはもう十年以上も前のことで、俺たちはまだ、小学校の四年生だった。授業がすべて終わったあと、俺は昇降口に佇んで、侵入を拒むように広がる雨のカーテンを茫然と見つめていた。
季節は初夏で、梅雨入りが発表された直後あたりだったように思う。
色とりどりの傘が咲く。下校していく生徒の背中を見送りながら、俺は途方に暮れていた。
昼まで見えていたお天道様はいったい何処へ。空は重苦しい鉛色に染まり、一筋の光も差し込まない。
「傘、持ってくれば良かったなー」
弱り果てて呟いた俺に、「ねえ」と彼女が声をかけてきたのが、ちょうどその時のこと。
驚いて、声がした方に顔を向けると、そこには森川菫が立っていた。握ってる傘をコチラに差し出して、にっこりと笑んでこう言った。「良かったら、一緒に帰る?」と。
小学生時代。俺は決して友達の多い人間じゃなかった。
無口で内向的で、休み時間になると絵を描いている人間は、誰の目からも、社交的なタイプには見えなかったんだろう。
とはいえ、そんな評価も強ち間違いじゃない。男友達も少なかったし、ましてや女の子の友達なんているはずも無かった。いや、幼馴染は友達のうちに入るのかな? そんな、寂しい小学生時代だった。
だからその日、俺は目を白黒させてこう問い返したんだ。――僕に言ってるの?
すると森川は、トレードマークである丸い瞳をさらに見開いて、ぷぷ、とふき出した。
「だって、三嶋君しかいないでしょ?」
手元の青い傘をパっと広げると、昇降口を潜って森川が一歩踏み出した。
雨のカーテンが、森川の周辺だけ傘で遮られて、丸い空間を作り出した。スポットライトが当たったように見えるその場所から、笑顔で彼女が手を差し伸べてくる。
「行こう」
俺をいざなう森川が、なんだか女神みたいに見えて、二人の周辺に暖かい陽の光が降ってきたようだった。
「ごめん……」
控え目に頭を下げて、傘の下にもぐりこんだ。
「ううん。困っている時は、お互い様だから、ね」
「でも……森川の家って、僕の家とは逆方向になるけど、本当にいいの?」
彼女がぴたっと立ち止まる。こちらを向いて、口元に手を当てた。
「心配してくれてるんだ? 三嶋君、やっぱり優しいね」
優しい?
僕が?
生まれて初めて女の子に褒められた気がして、無性に恥ずかしくなってしまう。上手く言葉を返せずに、俯いてしまう。
ああ、貧相な語彙力よ。
そのまま、二人の会話は途切れた。傘を叩き続ける雨音だけが響くなか、肩を並べて歩き続けた。
雨の匂いだろうか? ほんのりと、甘い香りが漂ってくる。ちらっと視線を飛ばすと、隣を歩いてる森川の、長い睫毛と白いうなじが鮮明に目に焼きついた。
二人の間に会話はなく、沈黙が横たわっていたけれど、息苦しさは感じなかった。そのまま十分ほど歩き続けて、俺の自宅の前に着いた。
小さな傘の下、二人で身を寄せ合っていたことで、森川の左肩がすっかり濡れてしまっている。
「森川はその、優しいんだな」
「そんなことないよ。私はただ、自分がやりたいようにしただけだもん。優しいというんだったら、よっぽど三嶋くんの方が」
「さっきもそれ聞いたけど、たぶん、勘違いだよ」
「そんなことないよ。三嶋くんは暗い奴だって言うひともいるけれど、ほんとうは気が利くしすごく優しいってこと、私は知ってる」
そこまでを吐き出すように言ったあと、慌てたように森川が口元に手を添える。
「あ。ごめん、なんでもない。じゃあ私、行くね」
去っていく森川の背中に、俺はただ「うん」としか言えなくて。別れ際に見せた彼女の笑顔に、不覚にも俺はどぎまぎしてた。
これは──まだガキでしかなかった俺が、初めて女の子に対して異性を感じた瞬間だった。
それから、森川の姿を、なんとなく目で追うようになった。
授業中。休み時間、廊下ですれ違ったとき。朝夕など、昇降口で靴を履き替えているとき。
森川の背中を見ていると、彼女も気づいて振り返る。目が合うと、お互い一度逸らしてから、また合わす。二度目に目が合った後、彼女は恥ずかしそうに笑いながら、また逸らした。
相変わらず俺は、休み時間になると一人で校庭に出てスケッチブックを抱えている孤独な生徒だったが、いつしか傍らに、森川が並んで座るようになった。
スケッチブックの上に色鉛筆を走らせていると興味深そうに覗き込んできて、「上手だね」と彼女は何度も俺を褒めた。
次第に森川も、俺の真似をしてスケッチブックを広げるようになる。色鉛筆やクレヨンの使い方を、懇切丁寧に教えていった。彼女は笑顔で、俺の言葉にうんうんと耳を傾けた。
この頃にはもう、自分の気持ちを偽ることはできなくなっていた。いつしか、彼女のことを好きだとはっきり自覚するようになる。
恋愛と呼ぶには、きっとまだ幼すぎる感情だったが、俺はこの女の子──森川菫のことが好きだったし、彼女も同じような感情を抱いてくれている。そう信じていた。
これから先、森川のことを守っていける強さが欲しい、と俺は切に願った。
彼女を好きだという思いは、小学校を卒業するまでの二年間、褪せることなく強固なものとなり続けていったのだ。
今はまだ、気持ちを伝えることはできないけれど、もっと二人が大人になって、それこそ、中学生か高校生にでもなれば、俺たちの間に存在しているこの淡い感情も、明確な輪郭線を伴い、姿を現してくるだろうという確信があった。
いつの日か、森川の事を『好きだ』とハッキリ伝えられる日がくるんだと、信じて疑わなかった。
だが結果的に、俺たちは中学進学をきっかけとして離れ離れとなってしまう。
俺は地元の公立中学に進学したのだが、気難しい家庭で育った森川は、私立櫻野学園に進学したのだ。
森川の家は市内とはいえそこそこ距離が離れていたし、特に用事もないのにわざわざ自宅に電話をかける勇気もなかった。
これといった理由もなく二人の関係は疎遠となり、伝えられなかった気持ちは、強い後悔にいつの日か姿を変えた。
そんななか、一筋の光明が差し込んだ。
中学に入ってから、防犯の面でメリットがあるからという理由で、俺は携帯を持つことを親に許されていた。
森川も携帯電話を持っていたこと。二人の共通の友人でもある霧島七瀬──彼女の家が、お隣さんだった──の存在が追い風となる。
霧島を経由して森川のメールアドレスを獲得したことで、完全に切れていた関係の糸が、再び繋がった。
何度かメールによるやり取りを交わした末に、俺は森川とデートの約束を取り付けたのだ。
そうして迎えた運命の日。中学二年生の、夏。
行き先は、夏休み明けに行われた花火大会の会場。
待ち合わせをした場所は、西公園の案内板の前。
一年半ぶりとなる森川との再会に、俺の心は弾んでいた。緊張で高鳴る胸を必死に宥め、告白の台詞を何度も頭の中で確認した。
ところがこの日──。
静かに雨が降り続くなかどれだけ待とうとも、森川菫は待ち合わせの場所に現れなかった。三十分過ぎても、一時間過ぎても、森川は現れなかった。
浮かれていた自分が、バカみたいに思えた。あの約束は、夢か幻だったのだろうか。すっかり意気消沈した俺は傘も差さずに自宅に戻ると、何一つ手につかないまま布団に包まった。
そして翌日。意を決して森川にメールをするも、返信はなかった。何度送っても電話をかけても、森川は沈黙していた。どうなってんだよ? と憤慨すること数日。ようやく返信がある。
From:Mail Delivery Status Notification
アドレスが見つからなかったため、メールは送信されませんでした。入力ミスや不要なスペースがないことを確認してから、もう一度送信してみてください。
これだけでも致命傷だったのに、季節が、秋の深まりを感じるようになった頃まいこんで来たのは、森川が引っ越したという噂だった。
この日俺は、人生で初めてとなる失恋を……経験した。
森川の電話番号とメールアドレスを、そっと消去した。
※
乱れた呼吸を整えながら、セーラー服の女子学生に話しかけた。
「あ……はい。こんにちは」
「こんにちは、じゃないだろ。どうして今日も、傘を差してないんだよ」
「傘?」
なんだよ、そのリアクション。お前は、雨が降っているのを認識できない病気か何かなのか?
今日もくっきりと下着が透けていることに気がつくと、反射的に視線を逸らした。推定中学生相手になにをドキドキしてんだよ、と内心で軽く毒づきながら。
「だからさ……雨降ってるだろ。なんで……」
「ああ、そうだ。この間は傘を貸して頂いて有難うございました」
そう言って差し出された傘を受け取って広げると、無理やりに押し戻した。
「ありがとうございました、じゃねーよ……。その様子じゃ返してもらう訳にいかないだろう。というかさ、持ってたんなら差せよ」
呆れている俺を他所に、「ああ、そうですね」と呟きながら彼女は傘を受け取った。雨に濡れた向日葵のように笑んで、傘を差した。
やっぱり変な女、と思う傍らで、彼女の横顔をしげしげと眺めた。こうしてまじまじ観察すると、まあだいぶ可愛いほうだ。
モテなさそうとか、モテそうとかいう曖昧なカテゴリーではなく、確実にモテる容姿。
綺麗な瞳に長い睫毛がかかっている。透き通るような色素薄目の肌は、ちょっと病的なほどに白い。
「そういえばさ。この間学校のこと訊いたとき櫻野って答えてたけど、もちろん中学の方だよな?」
櫻野学園は中高一貫校なので、『櫻野』だけでは中学生か高校生かわからない。中等部と高等部で制服が違うはずなのだが、俺の記憶の中には、制服に関する情報がない。
女の体を包む衣服には頓着がない。興味があるのは中身だけ。冷静に自己分析を進め、今の俺ってやっぱサイテーだなって思う。
「中学二年生ですよ。十四歳」
「中学生か。だよな」
そのあどけなさで、さすがに高校生は無いよな、と妙に安堵する。
櫻野学園は、この辺りでも偏差値高めの私立高。進学校としても有名なので、通学している生徒には比較的お嬢様が多い。そのため櫻野の女子生徒は、他校の男子生徒から羨望の眼差しで見られる。
まあいくら可愛くても、中学生に手を出そうとまでは考えないが。それ程、女に困っているわけでもないしな。
そう、これは自分に対する戒め。
「それで? 今日はこんな時間からどこに行くつもりなのさ?」
「西公園です」
「西公園……?」
西公園とは、明治八年に開園した仙台市内で最も古い都市公園。当初は桜ヶ岡公園と称していたが、町の西側にあることから西公園と呼ばれるようになり現在の西公園に名称が変わった。
広瀬川の左岸沿いにあり、四月になると多くの人が花見に訪れる市内屈指の桜の名所として有名だ。
春は新緑のトンネルの中を歩き、夏は緑陰に憩い、秋は落ち葉をさくさくと踏みしめながら散歩し、冬には木々に積もった雪の下を静かに歩く……。この場所からバスに乗って、何度かおかんに連れていってもらった記憶がある。
そう、昔よくな。
でも、お前はなんのために?
「家に、帰るところじゃないのか?」
「帰りますよ。但し、公園に寄ってからですが」
あくまでも、公園には行くんだな。
「こんな時間から、何しに行くんだよ。もう夕方になるんだぞ?」
その通りだ。先日は昼前後だったから気にも留めなかったが、今日は日没間際の時間帯。こんなに薄暗くなってから、女の子が一人で公園になんて行くもんじゃない。
ずぶ濡れの女の子がバス停で一人、というのも危なっかしいが、もはやそれの比ではない。
「人と待ち合わせをしているんです」
「待ち合わせ?」
「はい」
「家族か?」
すると少女は下を向いた。拍子に、耳にかかっていた髪の毛が頬に流れた。
「いえ、大事な人なんです」
緊張しているのだろうか。それは酷いかすれ声で。少女の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
そうか、恋人なんだろうな、と彼女の反応から得心する。そりゃあ、こんだけ可愛い女の子だ。彼氏の一人や二人居ても不思議じゃない。急に気持ちがささくれ立って、子ども染みた嫉妬の感情が浮かんだ。
なんなんだ俺、と思う。たぶん彼女が、森川に似ているせいだ。
「大事な人、ねえ。まあいいや。もう暗くなるんだし、気をつけて行けよ」
じゃあ、と手を振って、やさぐれた気持ちでバス停を離れた。
「……はい」
彼女が放った声が、ざーざーという雨音のなかに溶け込んで消える。
どこからか、蛙の鳴き声が聞こえてきた。通りすがりに民家の庭先を見ると、枯れ始めた紫陽花の花が、雨に濡れていた。
その光景に、嫌な記憶が蘇ってくる。俺が十四歳だったあの夏の日。あの日も、こんな感じの雨が降っていた。
※
「急に雨、降り出したよね」と、土砂降りの雨を見つめて、森川菫がそう言った。
それはもう十年以上も前のことで、俺たちはまだ、小学校の四年生だった。授業がすべて終わったあと、俺は昇降口に佇んで、侵入を拒むように広がる雨のカーテンを茫然と見つめていた。
季節は初夏で、梅雨入りが発表された直後あたりだったように思う。
色とりどりの傘が咲く。下校していく生徒の背中を見送りながら、俺は途方に暮れていた。
昼まで見えていたお天道様はいったい何処へ。空は重苦しい鉛色に染まり、一筋の光も差し込まない。
「傘、持ってくれば良かったなー」
弱り果てて呟いた俺に、「ねえ」と彼女が声をかけてきたのが、ちょうどその時のこと。
驚いて、声がした方に顔を向けると、そこには森川菫が立っていた。握ってる傘をコチラに差し出して、にっこりと笑んでこう言った。「良かったら、一緒に帰る?」と。
小学生時代。俺は決して友達の多い人間じゃなかった。
無口で内向的で、休み時間になると絵を描いている人間は、誰の目からも、社交的なタイプには見えなかったんだろう。
とはいえ、そんな評価も強ち間違いじゃない。男友達も少なかったし、ましてや女の子の友達なんているはずも無かった。いや、幼馴染は友達のうちに入るのかな? そんな、寂しい小学生時代だった。
だからその日、俺は目を白黒させてこう問い返したんだ。――僕に言ってるの?
すると森川は、トレードマークである丸い瞳をさらに見開いて、ぷぷ、とふき出した。
「だって、三嶋君しかいないでしょ?」
手元の青い傘をパっと広げると、昇降口を潜って森川が一歩踏み出した。
雨のカーテンが、森川の周辺だけ傘で遮られて、丸い空間を作り出した。スポットライトが当たったように見えるその場所から、笑顔で彼女が手を差し伸べてくる。
「行こう」
俺をいざなう森川が、なんだか女神みたいに見えて、二人の周辺に暖かい陽の光が降ってきたようだった。
「ごめん……」
控え目に頭を下げて、傘の下にもぐりこんだ。
「ううん。困っている時は、お互い様だから、ね」
「でも……森川の家って、僕の家とは逆方向になるけど、本当にいいの?」
彼女がぴたっと立ち止まる。こちらを向いて、口元に手を当てた。
「心配してくれてるんだ? 三嶋君、やっぱり優しいね」
優しい?
僕が?
生まれて初めて女の子に褒められた気がして、無性に恥ずかしくなってしまう。上手く言葉を返せずに、俯いてしまう。
ああ、貧相な語彙力よ。
そのまま、二人の会話は途切れた。傘を叩き続ける雨音だけが響くなか、肩を並べて歩き続けた。
雨の匂いだろうか? ほんのりと、甘い香りが漂ってくる。ちらっと視線を飛ばすと、隣を歩いてる森川の、長い睫毛と白いうなじが鮮明に目に焼きついた。
二人の間に会話はなく、沈黙が横たわっていたけれど、息苦しさは感じなかった。そのまま十分ほど歩き続けて、俺の自宅の前に着いた。
小さな傘の下、二人で身を寄せ合っていたことで、森川の左肩がすっかり濡れてしまっている。
「森川はその、優しいんだな」
「そんなことないよ。私はただ、自分がやりたいようにしただけだもん。優しいというんだったら、よっぽど三嶋くんの方が」
「さっきもそれ聞いたけど、たぶん、勘違いだよ」
「そんなことないよ。三嶋くんは暗い奴だって言うひともいるけれど、ほんとうは気が利くしすごく優しいってこと、私は知ってる」
そこまでを吐き出すように言ったあと、慌てたように森川が口元に手を添える。
「あ。ごめん、なんでもない。じゃあ私、行くね」
去っていく森川の背中に、俺はただ「うん」としか言えなくて。別れ際に見せた彼女の笑顔に、不覚にも俺はどぎまぎしてた。
これは──まだガキでしかなかった俺が、初めて女の子に対して異性を感じた瞬間だった。
それから、森川の姿を、なんとなく目で追うようになった。
授業中。休み時間、廊下ですれ違ったとき。朝夕など、昇降口で靴を履き替えているとき。
森川の背中を見ていると、彼女も気づいて振り返る。目が合うと、お互い一度逸らしてから、また合わす。二度目に目が合った後、彼女は恥ずかしそうに笑いながら、また逸らした。
相変わらず俺は、休み時間になると一人で校庭に出てスケッチブックを抱えている孤独な生徒だったが、いつしか傍らに、森川が並んで座るようになった。
スケッチブックの上に色鉛筆を走らせていると興味深そうに覗き込んできて、「上手だね」と彼女は何度も俺を褒めた。
次第に森川も、俺の真似をしてスケッチブックを広げるようになる。色鉛筆やクレヨンの使い方を、懇切丁寧に教えていった。彼女は笑顔で、俺の言葉にうんうんと耳を傾けた。
この頃にはもう、自分の気持ちを偽ることはできなくなっていた。いつしか、彼女のことを好きだとはっきり自覚するようになる。
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これから先、森川のことを守っていける強さが欲しい、と俺は切に願った。
彼女を好きだという思いは、小学校を卒業するまでの二年間、褪せることなく強固なものとなり続けていったのだ。
今はまだ、気持ちを伝えることはできないけれど、もっと二人が大人になって、それこそ、中学生か高校生にでもなれば、俺たちの間に存在しているこの淡い感情も、明確な輪郭線を伴い、姿を現してくるだろうという確信があった。
いつの日か、森川の事を『好きだ』とハッキリ伝えられる日がくるんだと、信じて疑わなかった。
だが結果的に、俺たちは中学進学をきっかけとして離れ離れとなってしまう。
俺は地元の公立中学に進学したのだが、気難しい家庭で育った森川は、私立櫻野学園に進学したのだ。
森川の家は市内とはいえそこそこ距離が離れていたし、特に用事もないのにわざわざ自宅に電話をかける勇気もなかった。
これといった理由もなく二人の関係は疎遠となり、伝えられなかった気持ちは、強い後悔にいつの日か姿を変えた。
そんななか、一筋の光明が差し込んだ。
中学に入ってから、防犯の面でメリットがあるからという理由で、俺は携帯を持つことを親に許されていた。
森川も携帯電話を持っていたこと。二人の共通の友人でもある霧島七瀬──彼女の家が、お隣さんだった──の存在が追い風となる。
霧島を経由して森川のメールアドレスを獲得したことで、完全に切れていた関係の糸が、再び繋がった。
何度かメールによるやり取りを交わした末に、俺は森川とデートの約束を取り付けたのだ。
そうして迎えた運命の日。中学二年生の、夏。
行き先は、夏休み明けに行われた花火大会の会場。
待ち合わせをした場所は、西公園の案内板の前。
一年半ぶりとなる森川との再会に、俺の心は弾んでいた。緊張で高鳴る胸を必死に宥め、告白の台詞を何度も頭の中で確認した。
ところがこの日──。
静かに雨が降り続くなかどれだけ待とうとも、森川菫は待ち合わせの場所に現れなかった。三十分過ぎても、一時間過ぎても、森川は現れなかった。
浮かれていた自分が、バカみたいに思えた。あの約束は、夢か幻だったのだろうか。すっかり意気消沈した俺は傘も差さずに自宅に戻ると、何一つ手につかないまま布団に包まった。
そして翌日。意を決して森川にメールをするも、返信はなかった。何度送っても電話をかけても、森川は沈黙していた。どうなってんだよ? と憤慨すること数日。ようやく返信がある。
From:Mail Delivery Status Notification
アドレスが見つからなかったため、メールは送信されませんでした。入力ミスや不要なスペースがないことを確認してから、もう一度送信してみてください。
これだけでも致命傷だったのに、季節が、秋の深まりを感じるようになった頃まいこんで来たのは、森川が引っ越したという噂だった。
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