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第一章:楠恭子の日記(サイドA)

20**/05/13(火)言えない気持ち

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 あたしが、自分の気持ちを上手く伝えられなくなったのはいつからなのか。思い出そうと頭の中の抽斗ひきだしを探ってみても、その時期を特定するのは難しい。中学二年のときなのか、それとも、もっと以前からのことなのか。
 ひとつだけハッキリいえることは、この欠点を、今現在の自分も変わることなく抱え続けているということ。

 あの時、ああしていれば。

 あの時、こう言えていれば。

 自身の言動に端を発した後悔は、数えきれないほどにある。

 だからあたしは、日記を捲る手を止められない。この先に待ち受けている、辛い結末を知っていようとも。もう一度目を通して、同じ後悔を繰り返すことがないよう、戒めとしなくてはならないのだから。
 自分のために、そして──彼女のために。


◆20**年5月13日 (火曜日)

 体育祭が終わってから二日後。代休明けとなる火曜日の朝。
 普段通りに家を出たあたしは、いつもと同じ坂道を登り、いつもと同じ時間に昇降口を潜ると、自分の下駄箱の蓋を開けた。
 ところが──いつもそこに鎮座しているはずの上履きが、無くなっていた。

「あ、れ……」

 開ける場所を間違えたのだろうかと下駄箱の名前を確認したが、確かに自分の名前が書かれてる。落としたのだろうかと疑って、足元と周辺にも目を配るが、やはりそんな事はない。
 止む無く先週の記憶を辿っていくが、家に持ち帰ったわけでも、下駄箱に戻し忘れたわけでもなさそうだった。
 状況を飲み込めた私は、諦めにも似た溜め息を落とした。遂に、この時がきてしまったのかと。
 高校に入学してからは無くなっていたが、中学の時はたびたび似たような出来事に遭遇していたのだから。上履きに限らず、自分の持ち物が紛失する、という出来事に。

 上履きがなくなった理由に分かり易い言葉を与えるならば──嫌がらせイジメだ。

 困ったなあ……と溜め息混じりに思考を巡らせる。流石に上履きが無くては、今日の生活にも差し支えがある。やたらと重く感じる身体に鞭を打って、先ずは職員室を目指した。
 担任の小園先生に上履きを失くしたことを告げ、取り敢えずスリッパを借りた。ほんと、朝から最悪な気分。
 教室の前に着いたところで、緊張から足が竦んだ。
 引き戸に伸ばしかけた指先を一度引っ込めたのち、深呼吸を挟んだ上で一息に開け放つ。
 気まずさから閉じていた目をゆっくり開いて教室の中を窺うと、早百合と瑠衣の二人が一瞬こちらを見て、また視線を戻し、元の会話に興じるのが見えた。

 ──なんか、ヤな感じ。

 この瞬間、あたしはなんとなく悟る。きっと瑠衣が、上履きを隠した犯人なんだろう、と。あたしが自分の席に向かう間、あたしは視線を向けてもいないのに、ずっと射貫くような眼差しを向けてくるのがその証左。
 彼女の視線から逃れるように自分の席にたどり着くと、鞄を置いてそのまま突っ伏した。
 随分とつまらない嫌がらせをするもんだ。けど、なにも証拠がないのだから、問質すことすらできない。

 そもそも、悪いのはあたしじゃないのに。
 どうして、こんなことするの?

 都合の悪い否定の言葉は、胸中で渦を巻くばかりで喉元をすんなり通らない。あたしは、昔からいつもそうだった。物怖じするこの性格が原因で、幼少期から友達の数だって多くない。
 溜め息をひとつ落としそうになった時、教室の扉がガラガラと盛大に音を立て開くと、耳に馴染んだ快活な声が聞こえてくる。

「恭子いる~。あ、いたいた。お前さあ、上履きゴミ箱に捨てた?」

 地獄に仏とは、まさにこの事か。顔を上げると、上履きを二つ片手にぶら下げながらやって来る上田律の姿が見えた。

「ありがとう律、見つけてくれたんだ。無くして困っていたところ」
「そっか、やっぱお前のか。何があったか知らないけどさ、大事な上履きをゴミ箱に捨てちゃいけないねえ」

 わざとらしい口調で呟いた後、律が辺りに牽制の目を走らせる。
 ごめんね、と受け取ろうとして上履きを見ると、名前のところが黒く塗りつぶされていた。この瞬間、憶測でしかなかった嫌がらせの存在が、確信へと変わる。

「これでよく、あたしのだって分かったね?」
「そりゃ、恭子とは付き合い長いしね。特徴的な踵の汚れ方で、なんとなく分かるっていうか?」
「あたしのだって分かる理由が汚れ方なの? ……なんか酷くない?」

 茶化すように言うと、薄く笑みを湛えてみせた。
 もちろん笑いたい気分じゃないので、場を上手に取り繕うためだけの引きつった笑みだ。今も周囲に視線を配ると、遠巻きにこちらを眺める視線を感じた。囁くような、ひそひそ話も聞こえてくる。それら全てが悪意をもって、あたしを責め立ててくるようだった。

「気にすんな、恭子」

 気遣うような口調で、律が耳元で囁いた。

「うん」

 と頷いてみせたものの、自分でも滑稽に思えるほど声は掠れていた。
 ──そもそもの話。あたしが他人の噂話や視線を過剰に気にするようになったのは、中学の時に体験した、虐めが主たる要因。

 あれは、中学二年になった春のこと。
 当時同じクラスに、重度の聴覚障害を抱えている女生徒が居た。彼女は耳が殆ど聞こえないというハンディキャップを抱えているにも関わらず成績は常に上位という、実に模範的な生徒だった。必然的に、色々と悪目立ちする存在でもあった。障害のせいか性格は控えめを通り越してやや暗く、同じように消極的なあたしとの交流は、まったくと言ってよい程なかった。
 ところがある日のこと。彼女は髪の毛を明るい色に染めて登校してくる。ただでさえ、成績優秀、容姿端麗と非の打ち所がなかった彼女は、とたんに一部の女子生徒から疎ましがられる結果を生んだ。
 渦をまく嫉妬の感情が虐めの理由に変わるまで、さほど時間は要さなかった。
 毎日のように続く陰湿な嫌がらせ。机や黒板に落書きをされたり、持ち物を隠されたり。教師や周囲の目を盗んでは、小突かれたり髪の毛を引っ張られたり。虐めの内容は多岐にわたったが、中でも一番彼女が堪えたのは、きっと、有りもしない罵詈雑言。

 それでも彼女は一言も言い返さずに、じっと耐え続けた。
 意味がわからない。嫌だ、とはっきり言えばいいのに。せめて髪の色だけでも、元に戻せば妬まれないのに。正義心を振りかざしているつもりもなかったが、その時のあたしは、そう不満に思っていた。
 だからある日、彼女を庇ったんだ。

「もう、いい加減にしなさいよ」と。

 次の日から、彼女が虐められることはなくなった。
 代わりに虐めの矛先は、あたしの方に向き始めた。なる程、とあたしもようやく悟る。彼女が何も言い返さずにじっと耐えていたのは、抵抗することの不毛さを、知っていたからなのか──と。
 それまで友人だと思っていた子たちは、いつの間にか、あたしとの交流を避ける他人へと変貌を遂げていた。触らぬ神に祟りなし、なのだろう。みんな遠巻きに見守るだけで、救いの手を差し伸べてくれるクラスメイトなど誰もいない。

 ただ二人の例外、上田律と、それまで虐めに遭っていた彼女を除けば、だが。
 もし同じクラスに律が居てくれなかったらと思うとぞっとする。あたしは今より更に酷いトラウマを抱える事になっていただろう。

 だから律は、今もいらぬ波風を立てぬよう努めて笑顔で対応してくれている。中学の時あたしが遭った虐めの顛末を、全て知っているからこそ。
 スリッパから上履きに履き替えながらあたしは思う。彼女の気遣いが嬉しい反面、結局、何も言えない自分のことが情けない、と。
 その時のことだった。斜め前の席から『ガタン!』という大きな音が聞こえてくる。突然のことに驚いて顔を上げると、晃君が険しい顔つきで立ち上がっていた。

「楠の上履き隠したの誰だよ! 恥ずかしいと思わないのか!!」

 彼は教室中に届くよう、大きな声で叫んだ。

『誰だよ……お前、なんか知ってる?』
『私、関係ないよ』
『晃~お前、なにマジになってんの?』

 様々な声が口々にあがる。ちらりと瑠衣の方に視線を向けると、鋭くあたしを睨んだのち、素知らぬ顔で横を向いた。 

「この中に居るんじゃないのか? ……楠に謝れよ!」
「ちょっと──! 少し落ち着きなさいよ、晃」

 律が晃君を宥めようと声を掛けるが、彼の興奮はまったく収まる気配をみせない。
 こういう時、義侠心ぎきょうしんや同情心から他人が口を挟むと、かえって話がややこしくなる場合がある。おそらくは、それを理解したうえで、彼は叫んでくれたに違いない。
 そんな事は分かっているはずなのに、あたしの口から漏れ出た言葉は、まるで真逆のものだった。

「大きい声を出すとみんな驚くから、もういいよ」
「何がいいんだよ、全然よくないでしょ。俺はさ、楠を心配して言ってるんだよ?」
「うん、わかってるありがとう。でも本当にいいの。あたしがでしゃばったことばかりしてたから、目について反感を買ったんだと思う」
「でしゃばったって……楠がなんかしたのかよ?」
「ほら、体育祭実行委員を決めるときのことだよ。あの時、あたしの他にも立候補しようとしてた人がいたんだよ。それが原因みたい。だから……ね。もう、いいから」

 瑠衣や早百合に聞かれたくない一心で、極限までひそめた声になる。だがこんな説明では納得できなかったようで、なおも晃君は不満の声を上げた。

「たとえその話が本当だったとしても、別に楠が悪いわけじゃないだろ。それに、そんな風に思われたままで、悔しくないの?」
「そりゃ悔しいけど……。あたしが我慢していれば、全て丸く収まるんだから」
「そこなんだよ」

 晃君の声が、次第に怒気を帯び始める。

「なんで楠は悪くないのに我慢すんの? それこそ、全然意味がわかんないよ!」

 声の大きさに驚いた律が、「ちょっと、やめなさいよ」と再び晃君を説得しようと試みるが、一方であたしもすっかり冷静さを欠いていた。
 本当は分かっていた。こんなこと、言うべきじゃないってことも。それでも、相手が晃君だったからこそ心に緩みが入ってしまったのか。気がつけば、口汚い言葉が澱んだ心から溢れ出すのを止められなくなっていた。
 ともするとそれは、幼い子供のような感情の爆発であり、若しくは──逆切れのようなもの。

「別に晃君にはわかんなくてもいいよ! どうせあたしの気持ちなんて、誰にもわかんないんだよ!!」

 失言だということに気が付いたのは、大声で叫んだ後だった。押し留めていたはずの暗い感情を、強い言葉にして叩きつけてしまってた。
 本当の気持ちは言えないのに、本能に赴くまま、醜い言葉は漏れてしまう。
 なんなんだろう、あたし。自己嫌悪が頭の中で渦を巻く。

 恐る恐る視線を巡らせると、気まずそうな顔をしているクラスメイトたちと目が合った。泣きそうな顔をしてる律と、おろおろしている早百合と、値踏みするような目で睨んでいる瑠衣。
 そして、不機嫌そうな表情の――晃君。
 心底呆れた顔で彼は溜め息を落とすと、椅子を引いて自分の席に座った。

「分かったよ。楠がいいんだったら、別にそれでいいよ」

 それっきり、こちらに顔を向けることはなかった。そのとき、担任の小園先生が教室の中に入ってくると、律が大慌てで飛び出して行った。

「何を騒いでいるんだ、早く席に着け」

 先生の声を合図に騒然としていた場は収まり、何事も無かったように朝のホームルームが始まった。
 日直の男子が掛けた号令の声を聞きながら、心中でそっと思う。
 すべて、晃君の指摘通りだった。あたしは誰かに嫌われることばかり恐れて、顔色をうかがってばかりで、場を取り繕うことしか考えてない。今日だって。そして、これまでも。

 ──……ごめんなさい。

 喉元を通らなかった謝罪の言葉が、いまさらのように心中で虚しく弾けた。
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