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第一章:楠恭子の日記(サイドA)

20**/06/22(日)夏のオワリ

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◆20**年6月22日 (日曜日)

 甲子園大会の栃木県予選会が始まっていた。
 突き抜けるような青空に、立ち昇る入道雲。球場の人波と、まだ六月とは思えない熱気に当てられ、額に滲む汗を手の甲で拭う。
 照葉学園の応援席は一塁側スタンドだ。吹奏楽部と学校の応援団以外は、内野席でも観客はまばら。対する三塁側スタンドの応援席は超満員。内野席から外野席に掛けても、そこそこ一般客で埋まってる。
 唯一勝っているのは、吹奏楽部の質だと信じて、応援でだけは負けられないと、勝負事とは無関係な部分で対抗心を燃やす。戦っている全ての選手と晃君に、あたしの思いが届きますように……。無心で譜面を追い、サクソフォンを吹いた。
 強い日射しを手のひらで遮りつつ、スコアボードを振り仰ぐ。
 現在、七回の表。スコアは0─3。案の定、劣勢。
 けれどそれもそのはずで、対戦校は春の大会でもベスト八に入っている強豪、地元宇都宮の宇都宮第一高校なのだ。

 ──……くそ、さすがは甲子園出場経験を持ってるだけのことはある。

 しかしこの回、照葉学園も反撃の狼煙を上げる。
 先頭の四番打者が四球を選び出塁。送りバントでランナーを進めた後、六番打者のセンター前安打で一塁と三塁に走者を進め、初めてのチャンスを迎えていた。
 一発長打が出れば、一気に同点だ! ここでバッターボックスに向かうのは――

『七番ライト、福浦君』

 キタキタキター。
 譜面を彼の応援歌に差し替えながら、気合を入れなおす。彼が大会前の練習でも快音を響かせていた事を、あたしは知っている。大丈夫、いけるよ!
 小園先生の指揮と、打席でバッドを構える彼の姿を同時に視界に納めつつ、必死で音を響かせ続けた。
 その時、一際大きな歓声が上がった。

「あっ」

 思わず手が止まり、空を見上げる。強い日射しが目に眩しい。
 晃君の放った打球は青空をバックに高く……高く舞い上がり、右翼への大きな犠牲フライとなった。
 三塁走者がタッチアップして一点を返す。

「……やった! やった!!」

 完全に手が止まって、声が漏れでた。隣の律が、「ちゃんとやれ」と小突いてくる。
「ごめん」あたしはそっと、舌を出した。

 でも、照葉学園の反撃もそこまでだった。次の八番打者が三振に倒れてチャンスを潰すと、目立った得点機もないまま回は進行していく。
 九回の表、最後の打者が代打で打席に入る。
 初級はど真ん中のボールを見逃してストライク。
 二球目、高めの真っ直ぐを振りぬくも、ライト線へのファール。
 そして……三球目。外角低めのスライダーにバットは空を切り三振。

 この瞬間に、晃君の三年間の部活動は終わった。

 試合終了を告げるサイレンが、物悲しく鳴り響く。どんなに泣いても嘆いても、これで終わりなんだと告げる、無慈悲な音色。
 スタンドに向かって一礼をする選手たちは、みんな一様に泣いていた。
 晃君は……必死に涙を堪えているように見える。しかしそんな彼を嘲笑うかのように、何時の間にか暗褐色に変わってた空が、大粒の涙を流し始めた。

「うわ、やっぱり雨降ってきたよ。ほら、濡れちゃうから片付け急ぐよ恭子!」 
「撤収するよ、片付け急いで」

 律と広瀬君に促されるが、しばらくの間立ち上がることが出来ずにいた。
 突然の雨に急かされるように、楽器の片付けを行う部員たちの中、ずっと……グラウンドを見下ろしていた。静かに頬を伝い落ちた涙は、雨が上手く誤魔化してくれただろうか?

 ──でも、こうしてもいられない。

 気を取り直したように立ち上がると、自分と同じようにグラウンドを見つめ続ける女生徒の姿に気が付いた。艶のある長い髪が、雨に濡れて重そうに垂れている。彼女の名前は――立花玲。玲の頬には、雨なのか涙なのか分からないが、無数の雫が伝っていた。
 瞬間、あたしは確信する。
 玲は確かに泣いているんだと。
 彼女が流している涙は、自分が流す涙と、なんだと。

* * *

 今でも心に残っている光景。
 ずっと忘れられない、玲の顔。
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