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最四章「三田姉妹の事件録」

Part.33『違和感』

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 翌朝、学校に向かう途中の道で、私は昨日の話を明日香ちゃんに伝えた。空には健康的な青空が広がっていた。
 すると彼女は、少し大げさに驚いてみせた。
「え? 三田財閥の令嬢!?」と。
「そうなんだよー。優香さんの方はね、物腰の柔らかい人だったからそれも納得できるんだけど、妹の芳香さんは、あの通りフランクな人だったでしょ? だから、私もいまだに信じられないっていうか」
「へー……。でもさ、先輩もよく気づいたよね。三田という名字はそんなに珍しくもないのに」
 三田という姓は神奈川ではよく見られるものだ。私のクラスにも複数いるし。なので、明日香ちゃんが不思議がるのはもっともだ。
「なんでも、先輩のお父さんが経営している工場と、三田グループの関連企業とで昔取引の話があったんだってさ。それで、なんとなくピンときて、カマをかけたって先輩は言ってた」
 先輩の父親が経営している電子部品会社、今泉電装【いまいずみでんそう】に多額の借金を背負わせた元凶こそが、三田グループの関連企業である、三田電気工業【みたでんきこうぎょう】だった。そして、三田電気工業の代表取締役社長のご息女が、他ならぬ三田姉妹だったのである。
 ボイスレコーダーを借りに行ったあ日、優香さんの名前を聞いて、店長が顔色を変えたのも頷けるというもの。
 取引契約を破棄したのは三田電機工業のほうからであり、破棄の理由は、三田電気工業と、さらに別の取引先との間で発生した諸問題にあった。だから、今泉電装の側に落ち度はまったくない。
 三田電気工業だけの問題ではなかった。それでも、最大の責任があったことも確かなのだ。
 そのことについて、三田電機工業からの謝罪はあった。契約不履行【けいやくふりこう】による賠償金だって支払われた。だが、それで済まされる問題なのか?
 私に、大人の世界の話はわからない。けれど、どうしても釈然とできずにいた。
 本音を言えば、三田姉妹と関わるのは、金輪際【こんりんざい】やめにしようかと思ったほどだ。
 だが、先輩は私にこう言ったんだ。
『もちろん、いろいろと思うところはあるさ。でも、それはすべて会社間で起きたこと。娘である優香さんと芳香さんに罪はないから』と。
 私以上に、先輩の胸中は複雑だったはずだ。それでも、過去のしがらみをすべて水に流して、三田姉妹を助けたい、というのが彼が導き出した結論なのだ。であれば、私は喉元まで出かかっていた不満はすべて飲み干して、彼の意思を尊重するのみだ。
 憎しみの連鎖が行き着く先に、得られるものなど何もないから。
 先輩の家の話は、明日香ちゃんには伝えずにおこうと思う。これからやろうとしていることに、水を差す要因にしかならないから。
「ほんと、驚きだよね」
 曖昧な言葉で会話を切ると、明日香ちゃんが神妙な面持ちで空を見上げた。
「そっか。なるほどね」
 複雑な表情だった。色の違う絵の具を混ぜ合わせたときのような、判然としない顔だった。彼女は鋭いから、私が隠し事をしている事実に勘づいているのかもしれない。取りつくろうように、愛想笑いを浮かべてみた。
 その後も彼女は、中空を見つめたまま、「そっか、そっかぁ」とうわ言のように呟いた。
 どこか沈んで聞こえる声音。なんだろう――。
「あ、やばい。遅刻する」
 そのとき明日香ちゃんが、スマホを見て叫んだ。
「え、うわぁ!」
 現実に引き戻された私と彼女は、大慌てで学校を目指して走り始める。
 本日の天気予報、晴れのち曇り。気温はやや低め。

   * * *

 三田姉妹と顔合わせをした日から、十日ほどが過ぎていた。
 季節はすでに本格的な夏である。窓ガラスを隔てていても、アブラゼミの鳴き声が部室の中に木霊していた。ノイズみたいなその音が、より一層暑さを際立たせる。
「あーつーいー」
 スカートの裾をパタパタと扇ぎながら愚痴ると、即座に部長の突っ込みが飛んできた。
「はしたないな加護君。君は一応女の子なのだからつつしみたまえ。僕が男だという事実を、忘れているんじゃないのかね?」
「なんか今、失礼な装飾語がくっついていませんでしたか? まあ、別にどーでもいーんですけどね。部長が男であることは忘れていませんよ。恋愛対象として、意識はしていませんが」
「それはそれで傷つく」
 部長の顔が苦み走った。
「だが、白はわりと好みだ。清涼感があって季節柄いいね」
「う、嘘でしょう!?」
 慌ててスカートの裾を押さえると、部長は素知らぬ顔で横を向いた。
「……冗談だよ」

 あれから優香さんと連絡を取り合って、状況の変化や進展のあるなしに関わらず、毎日一回、決まった時間に報告を入れてもらうことしていた。
 この定時連絡が途切れた時点で、何か不測の事態が起きたとこちらでは判断する。みんなで対策を協議し、独自に動く。そう、手はずを立てていた。
 今のところ、特に目立った動きはない。
 これは先輩の提案によるものだったが、この取り決めをしたおかげで、余計なことを考える必要がなくなって部活動に集中できていた。文化祭当日まであと一ヶ月強という状況下だ。あれこれ気をもまずに済むのはありがたい。
 さて、と心のスイッチを部活動側に切り替える。
 暑いからと愚痴を言うのは程々にして、パソコンの画面と向き合う。ポケットから紙片を取り出し目を落とした。授業中に思い浮かんだ文章を、こっそりメモしておいたものだ。相変わらず勉強に身が入っていなくて、すみませんね、先生。

 メモを見ながら、思案する。  
 私は先輩とは違う。
 一行書くだけでも、語彙の意味がどうとか、文法がどうとかあれこれ悩んでしまい、とかく筆が遅い。それでも最近は、少しずつ取っかかりができてきた。
 ふっとイメージがわいてくる瞬間がある。そのときを逃してはならない。すぐにメモをするよう心がけ、メモを見ながらあとで文章を再構成していく。頭の中に描いていた物語と、導き出された文章が合致したときの喜びは――それこそ、筆舌【ひつぜつ】に尽くしがたいのだ。
 結末までのプロットはすでに完成しているので、手が動き始めるとあとは順調だった。こうしてついに、私の処女作品は完成する。
「うわ~、できた~!」
 安堵した。両手を天に掲げて目いっぱいの伸びをした。肩の荷が一気に下りて、心地よさが全身を駆け巡る。そんな高揚感が落ち着いてくると、手を下ろして机に突っ伏した。
「あー……疲れた。マジで」
「なに? 本当にできたのか?」
 部長が疑いの目を向けている。失礼ですね。
「当たり前じゃないですか。自分の利益にならない嘘はつかないのが、私のモットーです」
「偉そうに口上を述べているけど、それだと、自分のための嘘はつくって話になるんだぞ」
 額を机にくっつけていると、ひんやりして心地よい。顔だけを横に向けてみると、どこか残念そうな顔でこっちを見ている明日香ちゃんと目が合った。
「ずいぶんと信用がないんですね。ちゃんとできましたよ。ここのところ、結構真面目に書いていたでしょう? では、さっそくですが確認をお願いします」
 原稿データをメモリースティックにコピーして、部長の席に持って行く。受け取ったそれを自分のパソコンに差し込んで、部長が内容の確認を始めた。
 ちょっと緊張しながら、部長の様子を見守った。
 確認が終わったのか、部長は満足げに頬をゆるめると、深く首肯した。
「特に問題はなさそうだ。思っていたより早かったじゃないか、お疲れ様。あとは夢乃君の原稿が上がってくれば、いよいよ製本作業に入れるな」
「えっ。あと残っているのって、私だけなんですか? そんなぁ~」
 机の向こう側から、明日香ちゃんの悲鳴が高々と上がる。
「えへへ、ごめんね」
 ちろりと舌を出す。さーて戻ろうっと、と立ち去りかけた私の手を、部長ががしっと握った。
「なんですか、この手は? 離してくださいよ」
 機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく正面に向き直る。部長が、ぽん、と一枚の紙を机の上に置いた。
 紙面の中央には『横浜市短編小説コンクール』という文字が、色鮮やかに踊っていた。
「次はこいつに挑戦してみてほしい。募集要項は、青春や人間ドラマを主題とした、学生らしい短編小説。枚数は、四百字詰め原稿用紙で、二十から三十枚程度。そうだなあ……たぶん、一万文字くらいになるだろうか? 締め切りは、十月の末日ね」
「強制なんですか?」
「いや? 違うけど? でも、何もせずにあとずっと休んでいるつもりじゃないだろう?」
「それは、まあ。そうですけど」
 ようやく肩の荷が下りたと思っていたのに、また考えなくちゃならないんですか。こう、しょうがないとはいえ、釈然としないというか。
「聞いてないんですけど。もっと早く言っておいてくれたら良かったのに」
「だってさ。書き終える前に言われたら負担になるでしょ?」
「まあ……。ええ」
「じゃあ、よろしく頼む」
 会社の上司と部下みたいな事務的なやり取りののち、朗らかな顔で部長が立ち上がる。待ってください。どうしてこのタイミングで退席するんですか?
 背を向けた部長の肩をわしづかみにした。
「な、なにかな、加護君」
 ひきつった顔で部長が振り返った。
「これは、みんなで応募するんですよね」
「まあ、その予定だけど」
「そうですか……そうですよね。もちろん、部長も応募するんですよね?」
 笑顔でそう詰問すると、とたんに部長の顔がサッと青ざめた。ぶつぶつと何かを呟くが、声が小さくて聞こえない。いつもの勢いはどこにいったんですか。
「いや……僕はほら、詩が専門なものでね。それじゃあ」
 屁理屈をこねて部長が身をよじるが、逃がすもんですか、と肩をつかんでいる手にさらなる力をこめる。
「みんな仲間じゃないですか。仲間たる者、辛いときも、苦しいときも、それをみんなで分かち合うものです。いつだって、私たちは一心同体。そうですよね、部長? ですから……」
 爽やかな声で朗々と話し、そこから一転、声のトーンを落とした。
「一人だけ楽になろうなんて、絶対に許しませんからね」
 次の瞬間、部長の顔が完全にこわばった。
「やめたまえ! 離したまえ! これからちょっとした用事があるんだよ!」
「どうせ大した用事じゃないんでしょう!? 逃げようとしても無駄ですよ! こういうのは一蓮托生でしょう!」
 私を振り払うために、部長が頭に手をかけてくる。「痛いじゃないですか!」と手を握り返して抗議すると、「いや、加護君が食い下がるからだろう」と部長は負けじと応戦する。
「用事があるんだってば」
「そんなの口実でしょう!」
「いい加減にしなさい!」
 あまりの醜態に見かねたのか、未来さんが凄んだ。二人の背筋が同時に伸びた。「はい、すみません」と声までそろう。
「だから、私からも言っていたでしょう? 部長のあなたが応募しなくちゃ、示しがつかないでしょう、と」
 未来さんが、こめかみを押さえて嘆息する。常日頃から副部長に頭の上がらない部長は、すっかり縮こまってしまう。「わかりました。僕も頑張りますので」と棒読み気味に告げ、そそくさと部室の外に退散していった。
「ごめんなさいね、しょうもない部長で」
「いえ、私もついムキになってしまって。お恥ずかしい限りです」
 さすがにちょっと熱くなりすぎた。気持ちをクールダウンさせて椅子に座ると、コンクールの要項に目を通していく。
 このくらいの文字数なら、先輩だと数日くらいで書けてしまうのだろうか。
「そういえば、今泉先輩って、どうして今日学校を休んでいるんですか?」
 珍しく、主のいない席に目を向ける。
「え? いや……知らないわよ。というか、加護さんが知らないのに、私が知っているわけないじゃない」
 未来さんが、瞳を白黒させた。まあ、それもそうか。
 今日、今泉先輩は学校を休んでいた。一日休んだからといって特別心配しているわけではないのだが、せっかく小説を書き終えたのに、喜んでくれる人がいないと思うと、寂しくなってしまうものだ。
「学生らしい短編小説か……。つまり学園モノってことだよね。主人公は何歳でもいいのかな? はてさて、どんなものを書けば良いのか……」
 一難去ってまた一難、か。
 ボヤきながら椅子の背もたれに体重を預けたとき、チャットアプリの着信音が鳴る。画面を見ると優香さんからだった。それは、思いもよらぬ長文メッセージで、心が大きくざわついた。
【(三田優香)少し進展がありましたので、報告しておきます。先日、警察署に行って、ストーカー被害についてもう一度相談をしてきました。ですが、引き続き様子を見ていきましょう、という結論になりました。なるべく丁寧に現状を伝えたつもりだったのですが……。前回と同じですね】
 やはり重い腰は上がらなかったか、とこれには落胆を禁じ得ない。証拠がなければ動いてくれないだろう、と覚悟はしていたし。しょうがない。
【(三田優香)尾行、無言電話といった迷惑行為は次第にエスカレートしていたのですが、昨日、彼が私への接触を試みてきました】
 もっとも恐れていた事態に発展していた。震える指先で、続きを読んでいく。
【(三田優香)帰宅した私を彼が家の前で待ち伏せていて、執拗に復縁を迫ってきたのです。私がキッパリと拒絶すると、彼は激昂し、「三田グループが隠し続けている不祥事のネタを持っている。俺の言うことを聞けないなら、このネタを週刊誌に売り込むぞ」と脅してきました】
 そんなネタ、本当にあるのだろうか? それはともかくとして、なりふり構わなくなっている彼の様子に、底冷えする思いがした。
【(三田優香)押し問答となっているうちに、怒鳴り声を聞きつけた家の者が駆け付けてくれました。何をしているんだと一喝されると、彼はすぐに退散していきました。このときのやり取りをボイスレコーダーで録音できたので、明日にでも証拠として警察に提出する予定です。たぶん、これで動いてくれるのではないかと】
 良かった、と胸を撫で下ろす。
 逆上することで、和也さんが自暴自棄になるのを一番恐れていたので、早い段階でストーカー被害が『ある』という証拠を得られたことに安堵していた。
 これでようやく、警察も本腰を入れて対応してくれるだろう。まだ全部終わったわけじゃないので油断は禁物だが、まずは一安心か。
 優香さんからのメッセージを、明日香ちゃんと先輩にも転送しておいた。「良かったね」と明日香ちゃんがすぐ声をかけてきたので、机越しに二人で拳を合わせた。
 直後、スマホに着信があった。画面を確認すると、噂の優香さんだった。
『もしもし。今、お電話大丈夫でしょうか?』
「はい、大丈夫ですよ」
『送信したメッセージは読んでいただけましたか?』
「はい。さきほど読み終えたところです。なかなか大変だったようですね。でも、警察に動いてもらうための材料になると思うので、不幸中の幸いと言いますか、まずは安堵しているところです」
『そうですね。おかげ様で、なんとか解決の糸口が見えてきました。それで……なのですが』
「はい?」
『これから、少しお時間ありますでしょうか? 今後について、相談したいことがいくつかあるのですが』
「相談、ですか。むしろ、相談する相手、私なんかでいいのでしょうか?」
 正直、私にできることはもはやほとんどない。あとは、警察がすべて解決してくれるだろうとすら思う。
『ええ、もちろんです。今回のお礼を含めて少しお話したいことがありますし、音声データのコピーは終わりましたので、ついでにボイスレコーダーをお返しできれば、とも考えているのですが』
 なるほどね、と納得しながら同時に閃いた。どうせ会うのであれば、ついでに優香さんの寿命を確認しておくのはひとつの手。事件がこのまま収束に向かうのであれば、彼女の寿命は本来あるべき年数に戻っているはずなのだから。
 わかりました、と言いかけて口を噤んだ。まだ部活中だった。
 どうしようかな、と悩んでいると、「問題ないよ」と未来さんが口パクで了承を伝えてくる。
 申し訳ないです、という念を込めて未来さんに頭を下げて、「はい。大丈夫ですよ」と優香さんに返事をした。
『そうですか? 良かったです。お話をするお店はあとで探すとして、そうですね……待ち合わせ場所は、山手【やまて】の駅前でどうでしょうか?』
 彼女が指定してきたのは、普段先輩が使っている最寄駅のコンコースだった。
「わかりました」
 私の返事と一緒に電話は切れた。今の話の内容を明日香ちゃんに伝えると、「私は自分の分の執筆が残っているからなあ」と難色を示した。
「わかった。じゃあ、私だけ行ってくるね」
 この話は、一応先輩にも伝えておいたほうがいいだろう。そう考えてスマホのチャットアプリを開くと、さっき送信したメッセージに、まだ既読が付いていなかった。
「あれ?」
 体調が悪くて寝ているのだろうか。もしそうなら、今日の放課後にでもお見舞いに行ったほうがいい。でも、違う理由だとしたら?
 腹の底で、黒い雲が生まれた。いても立ってもいられなくなって、直接電話をかけてみる。だが、返ってきたのは、『おかけになった電話番号は、現在電源が入っていないか、電波の届かないところにあります』という自動音声だった。
 充電が切れているだけかもしれない。そうだったらいい。けれど、そうじゃなかったとしたら……?
「なに、これ……」
 不安な気持ちが片付かない。震え始めた指先でもう一度チャットアプリのメッセージを確認したが、やはり既読は付いていなかった。
『これから駅前に向かいます』と追加でメッセージを打って、アプリを終了した。
 鞄を両手で抱くと、ガタンと音が立つほど乱暴に椅子を引いて立ち上がる。喉の奥が、カラカラに乾いてしまっている。
「すみません、未来さん。少し早いのですが、このまま上がらせてもらいます」
「最近、誘拐事件が起きたばかりだから、帰り道には気をつけてね?」
 先日、そういった事件が県内であって、テレビで報道されていた。
「私をさらうような物好きなんて、いるわけないですよ?」
 軽口を叩いてみせたが、文字通りのカラ元気だった。覚束ない足取りで部室を出ると、昇降口を目指して走り始めた。

   * * *
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