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最終章「少女たちの懺悔」

Part.45『死神』

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 遠くから聞こえてくる目覚まし時計の音で、深い眠りの底からたたき出された。
 ぱち、と瞼を開けて最初に見えたのは、明日香ちゃんの豊満な乳房。鼻先で感じたマシュマロのような柔らかさに驚いてのけ反ると、彼女はまだ眠っていた。無垢な少女のような、穏やかな寝顔で。
 昨晩の行為を思い出して、顔が熱くなってくる。
 全身にうまく力が入らない。自分でも驚くほど不器用に、ベッドに腕をついて体を起こす。赤いカーテン越しに朝日が差し込んでいて、薄暗闇が漂っている室内に光の筋が伸びていた。
 光はちょうど明日香ちゃんの寝顔を照らしていて、その天使のような美しさに息が止まった。
 どうして彼女はこんなに綺麗で、こんなに可愛いのだろう。私とは全然違う。整った顔と完璧なスタイルは見ていて飽きない。私たちは、性格も容姿も正反対。だからこそ、不足しているピースを補い合うみたいにぴたりと嵌って、相性が良いのだろうか。
「朝、朝だよ。早く起きないと、遅刻するよ」
 そっと頬を撫でてみると、ん……と彼女が小さく声をもらした。ゆったりとした所作で寝返りを打つが、起きる気配はない。
 このままじゃ本当に遅刻だ。もう一度、強く体をゆり動かすと、ようやく彼女の瞼が開いた。
「う……ん?」
「おはよう、寝坊助さん」
 今度はバッチリ目が合って、彼女は恥ずかしそうに布団を引っ張って顔を隠した。
「だって、私、朝弱いんだもん」
「そうなんだ。知らなかった」
 撫でていた手を離した。
 本当にそうかもしれないね。
 私たちは幼い頃からずっと一緒だったのに、いまだに知らないことだらけだった。でも、お互いの気持ちを打ち明けて、足りないところを補完しあったのだから、二人の関係はより一層強固になったはず。
 二人で制服に着替えていく。
 ブラウスに袖を通しながら、隣の彼女を盗み見た。
 明日香ちゃんが着けていたのは、黒色のレースがあしらわれたピンク色の下着。寄せて上げる必要のない胸と丸いヒップは、私にはないものだ。出るべきところがちゃんと出ていて、それでいて線は細い。まるで下着モデルのようだ。
 見惚れていると、不意に目が合った。慌てて視線をそらす。
 自分の体を見下ろして、がっかりした。身長に対して胸もお尻も小さい。スカートを拾い上げて履こうとしたところを、「待って」と明日香ちゃんに制された。
「咲夜の体。もっとちゃんと見たい」
「ん……いいけど」
 履きかけのスカートから足を抜き、直立して下着姿を晒した。
 彼女は正面にきてしゃがむと、私の体をじっと見た。
 真剣な目だ。視線をはわされている場所のすべてが熱を帯びていく。昨日は、下着姿どころかもっと恥ずかしい格好を見られたはずなのに、どうしてこんなに顔が火照ってしまうのだろう。
「うん。咲夜はやっぱり、白い下着のほうが似合ってるよ」
「子供っぽくないかな?」
「大丈夫。可愛いよ」
 恥ずかしそうに、彼女が頬を染め囁いた。
「そ、そうかな。ありがとう、嬉しいよ」
 先輩は白が好きだから、なんて、もちろん言えるはずもない。
 そのあとも、お互いの身体の違いを確かめるように、見つめ合ったまま着替えた。昨夜のように、背を向け合うことはなかった。
 朝食を二人で食べて、身だしなみを整えて玄関口を出たのは、おおよそいつも通りの時間になった。
 マンションの外部廊下から見上げた空は、どんよりとした鉛色だ。
「天気、悪いね」と私が呟くと、「うん、そうだね」と彼女が小声で返す。
 こいつは一雨きそうだと判断し、傘を二本持ってマンションを出た。どちらからともなく手をつないで、学校を目指して歩き始めた。
 足取り軽く歩いていく。スニーカーとローファーと、対照的な二つの靴音が、大地にコツコツと響き渡った。
 学校のほうに向かって歩いて、ふたつ目になる交差点に着くと、辺りに視線を走らせている今泉先輩の姿が見えた。
 離したくない。
 離れたくない。
 でも……。
 絡めていた指先を、私たちは静かに解いた。先輩がこちらに気がついて、顔を向けたのを合図にするように。
 離れていった彼女の体温が名残惜しくて、少しの間、指先をさまよわせる。この瞬間、私たちの一夜限りの恋は燃え尽きた。
「朝から二人が一緒なのは、珍しいな」
 アーモンド形の瞳が私たちをとらえる。
 雨雲を吹き飛ばす勢いで笑い、彼が右手を上げた。
「うん。昨日は明日香ちゃんが、うちにお泊りだったからね」
「え、マジで!?」
 どこかショックを受けた顔で、先輩がこっちを見た。
「なんだか女子会みたいでいいね。今度は俺のことも交えてよ」
「先輩は、涼しい顔しているようでいて、裏ではエロいことばっかり考えているような人だからダメです」
「な・ん・で! エロがなければ、世界は滅びるんだよ。どうやって種【しゅ】を未来に残すんだよ」
「理屈っぽく言っても、ダメなもんはダメです」
 なんでどうして、となおもしつこく食い下がってくる先輩を無視して歩き始める。
「つまらないことでいつまでも油を売ってたら、遅刻しますよ」
 納得できない顔をしていたが、やがて諦めたように先輩が私の隣に並ぶ。 ここまで傍観していた明日香ちゃんは、「おはようございます」と挨拶だけを控え目に先輩に送って、私の後ろについてきた。
「冗談ですよ」
 笑いながらそう言った。あんまりいじめたら拗ねてしまう。
 彼の指先を握ろうとして手を伸ばしかけて、やっぱりやめておいた。
 昨夜のことは、一時の気の迷い。一夜限りの恋。そう割り切っていたつもりではあったが、何も知らず、普段通りに接してくる先輩を見ていると罪悪感に苛【さいな】まれる。
 だから、つなぐことはできなかった。行き先を失った指先が虚しくさまよう。
「わかってるよ。ところで、夏休みの予定なんだけどさ」
「あ、はい」
 笑顔を浮かべてみたけれど、私の顔、引きつっていないだろうか。親友と交わした不貞行為が、心中で重苦しい呵責【かしゃく】となっていた。
 きっと、先輩はいい人だから許してくれる。
 でも、それに甘えて有耶無耶【うやむや】にするのはやっぱりダメだと思うから、時期を見てちゃんと謝りますね。
 問題を先送りしようとしてる自分を意識して、ジクジクと痛む胸。それでも、ほろ苦くも甘い先輩への恋心を再認識できた気もして、私の心は少しだけ弾んでいた。

 そう――少なくとも私は【・/2】、そう思っていたんだ。

 他愛もない話をしながら歩いていく。本格的な夏を迎え、日々暑さは増していくばかりだ。
 ブレザーの制服を脱ぎ捨てて、夏服に衣替えをした同級生の姿が、次第に増えてくる。遠くから、けたたましい蝉の声が響いていた。雲間から、気がつけば太陽が顔を出していた。
 いつもと同じ通学路。でも、今日は不思議とわくわくしていた。何か楽しいことが始まる予感がしていた。先輩の寿命はまだ一年のままだけれど、澱のようにこびりついていた厄介事はひとつずつ剥がれ落ちて、一応の整理がついたのだから。
 雨雲は吹く風に散らされて、木の葉が青々としていて、胸の奥に残っていた最後の不安も、今だけは忘れることができた。
「リレー小説、もうできました?」
「いや、もうちょっとかなあ。全体を少しだけ改稿しても良いかって、部長に問い合わせているところ。部長の確認が済んでオーケーがでれば、一気に終わらせるつもりだけどね」
「先輩の改稿が入るなら、期待できますね」
 私はニヤリと笑った。
「だと、いいけど」
「だって、何かたくらんでいるんでしょう?」
「そうだよ。よくわかったね」
 そう言って彼は、鼻の下を指でこすった。
「まあ、改稿前の原稿はすでに美術部に回してあるし、絵のほうも同時進行で仕上げてもらっているから、十分【じゅうぶん】に間に合うとは思うよ」
「そうですか。楽しみですね」
 そのとき、直進側の歩行者用信号が赤に変わる。
 私たちも、人の流れも、一斉に立ち止まる。
 一拍置いて、交差している道の側の歩行者用信号が青に変わった。

 ――かごめ、かごめ。籠の中の鳥は。

 耳に馴染んでいるメロディーが流れだす。
 賑やかな朝の喧騒に包まれていた街角が沈黙すると、唐突に、昨夜の情熱的な出来事を思いだした。体の芯が疼いて、顔が火を当てられたように熱くなって。手のひらも、唇も、明日香ちゃんが触れた場所のすべてが熱い。
 タイミングを見計らったかのように吹いた涼風が、火照った頬に心地よかった。

 ――いついつ出やる。夜明けの晩に。

「そういえばさ、ここの交差点、人身事故が多いんだって」
 前後の脈絡もなく先輩が言った。
「まあ、車通りの多い場所ですからね。事故が多いのは頷けます。でも、聞いたことないですよ、そんな噂」
「そう? 一説によるとこの場所には地縛霊が住み着いていて、自身の寂しさを紛らわすため、通りがかった人たちを引っ張りこんでいるとかなんとか……」
 おどろおどろしい声音。
「事故から話を飛躍させすぎじゃないですか? やめてください、縁起でもない」
 それにしても、交差点に居座る地縛霊だなんて、また突拍子もない話だ。お化けの話が苦手な明日香ちゃんには堪える話題だったろうか。先ほどから彼女は沈黙している。得体の知れない存在を恐れるあたりが、なんとも彼女らしい。
 地縛霊なんて。ふふ、いるわけないのに。
「そうだな。そんなこと、あるわけないか……って……あ……れ……?」
 偶然にも、私と先輩の考えが一致したそのとき、

 ──鶴と亀が滑った。

 バランスを崩したように先輩はつんのめると、間の抜けた声を上げながら、横断歩道の上まで飛び出してしまう。当然、信号はまだ赤だ。何やってんですかと慌てながらも、振り返った彼の視線につられて私は後ろを見た。その瞬間――体中の熱はいっぺんに引き、全身が総毛だった。

 ──後ろの正面だあれ。

 明日香ちゃんが右手を水平に持ち上げている。憔悴しきったように虚ろな表情だ。
 濁った瞳。
 乾いた唇。
 土気色の肌。
 ただ正面だけを見据える顔はこちらに向いてはいない。彼女の濁った瞳の中心に、ぞくりとしてしまうほどの狂気を感じ取って、同時に理解する。
 先輩の背中を押したのは――彼女だと。

『死ねばいいのに』

 明日香ちゃんの囁く声が、聞こえたような気がした。

 ──後ろの正面だ・あ・れ?

 直後、激しいクラクションの音と、横断歩道に接近していた中型トラックが急ブレーキを掛けるスキール音とが、一緒に鳴り響いた。
 とても間に合うようなタイミングではない。先輩の足はぬい留められたように動かない。接近してくる車の姿を、ただ、驚いた顔で見つめている。彼の寿命を示す数字は限界まで色味を失い、点滅をしていた。
 即座に状況を理解する。そうか、これが先輩の死の瞬間なんだと。
 いつから点滅していた? 私は、先輩と明日香ちゃんと、二人から向けられる好意に舞い上がり、彼の寿命の変化を見逃した。彼女が、どれだけ嫉妬の念を抱いて、日々辛い思いをしてきたのか、理解したつもりになっていた。母親の寿命の変化に気づいていたことを、見過ごしていたことを告白し、許されたとばかり考えていた。本当にそうだったのか? なぜ。どうして。気持ちは弛緩していた私は、現状に甘え、自分のことばかりを考えて、本来やるべきことを見失っていた。何のために、私は先輩の傍らにいたの? 視野が狭い。気遣いがない。覚悟が足りない。ここにきて浮き彫りになる私の浅慮【せんりょ】。そうだよ、全部、私のせいじゃないか!
 そうか、思った通りだ。やっぱり私が先輩の――。

 ……死神だったんだ。

 気がつけば私は飛び出していた。どうしたら先輩を救えるか? とか、どうやって助けようか? などと冷静に考えている暇はなかった。こちらに顔を向けて、何か言いたそうに唇を震わせている彼の体を、構うことなく両手で抱きしめた。
 耳をつんざくような音を背に、胸に抱いた愛しい人と過ごした日々を思い出す。
 夕日が差し込む部室で、私に微笑んでくれたこと。寿命の話を告げたとき、真面目に耳を傾けてくれたこと。その日、とても風が強かったこと。背の低い私を気遣い、傘を高く掲げてくれたこと。小説の書き方について、いろいろ教えてくれたこと。雨に濡れた私のブラウスを見て、恥ずかしそうに顔をそらしたこと。自分から、初めてのキスをせがんだ日のこと。彼の指先が触れたとき、すごく心地よかったこと。私が拗ねてみせると、必死になって頭を下げてくれたこと。
 ……ねえ、先輩。私は、良い彼女でしたか?
 そっか、私と先輩の寿命は同時に尽きるのかな。自分の寿命が見えないのって不便だな、と考えた直後に全身を強い痛みが襲う。体がふわっと浮き上がる、嫌な感覚を覚えた。
「咲夜ァァァァァーーーーーーーーーーー!!」
 明日香ちゃんの悲鳴じみた叫びが聞こえる。

 ──ごめんね。明日香ちゃん。

 そしてこれが、私の最後の記憶となった。体中の骨が砕けてしまいそうな激痛の中、自分の意識を手放した。
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