痴漢を捕まえたら女の子だったので、好きに触らせてみた結果、私が百合にハマった話。

木立 花音

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第四章「試練と崩壊と」

【虐待者の影(1)】

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 金曜日の夕方、夕飯の支度をしているときスマホが鳴った。画面に表示されていたのは『赤嶺りの』の名前だ。
 姉が赤嶺家を訪問するのは明日だ。動きがあるとしたらそれ以降だと思っていたのに、突然の電話に虚をつかれる。
 私に会いたくなったのだろうか。それならまだいいが、何か不測の事態が起きたのだとしたら――。
 電話に出るのが怖い、でも、と萎縮する心を奮い立たせた。
 私は、なんのために職を辞したのだ。ここで二の足を踏んでどうする一ノ瀬詩。

「りの?」とスマホを耳に当て応答する。
『詩さん……助けて……怖い』

 りのの声。しかしそれは、声と呼ぶのをためらうような、細い糸が震えるような音だった。途切れ途切れの言葉の合間に、怒鳴り声が差し込まれてくる。
 誰と話しているのか、と問いただすような声。どん、と何かが落ちた重苦しい音。私の心臓が、跳ねた。
 奈緒の最期の言葉がフラッシュバックする。あのときは間に合わなかった。でも、今は違う。未来はまだ確定していない。

「今すぐ行く! 待ってて!」

 電話を切る瞬間、りのの泣き声がした。時間の猶予がない。
 コートを羽織り、靴の踵を潰したままでアパートを飛び出した。往来に視線を走らせて、最初にやって来たタクシーを捕まえて飛び乗る。
 自分の車は使わなかった。現地に着くまでに、やらなくてはならないことがいくつかあったので、こっちのほうが都合がいい。

「江戸川区小岩、急いで!」

 運転手に目的地を告げ、シートに沈む。スマホを取り出してタップした。
 車窓に広がっている闇に、りのの震える瞳を思い描いた。りのの姿と「助けて」の声が、あの日の奈緒のそれと重なる。もう、誰も失いたくない。

 日没の時刻は過ぎ、夜の帳が下りていた。
 アパートの周辺は、静寂に包まれている。あまりにも静かすぎる気がして、逆に胸騒ぎがした。りのの部屋の窓にオレンジ色の明かりが灯っていた。他に明かりのついた部屋は三軒ある。怒声を響かせていたら通報される恐れがあるので、いったん大人しくしたのだろうか。それとも――?
 最悪の想像は頭の隅に追いやって、外部階段を上っていく。りのの部屋の扉は少し開いており、隙間から光が漏れていた。怒声どころか、物音一つしない。
 静かすぎる。りの、どうか無事でいて。
 インターホンを押してみるが応答はない。音を立てないように慎重に扉を開けてみた。
 玄関は靴が散乱している。雑誌の束やダンボール箱が、廊下に無造作に置いてある。お世辞にも片付いてはいなかった。
 誰もいない? 突き当りにある扉の向こうがリビングだろうか。

「赤嶺さん!」

 呼びかけてみたが返事はない。足音を忍ばせて廊下を進み、突き当りにある扉を開けてみた。

「りの!」

 そこは予想通りリビングで、八畳ほどの部屋の真ん中にりのが座っていた。
 怪我はなさそうだが、彼女はずっと虚空を見つめていて、私と目が合わない。
 駆け寄って、彼女の前で膝をつき肩を揺すった。

「大丈夫? 何があったの?」

 部屋を見回す。部屋の隅にある戸棚の引き出しはすべて開けられ、書類や小物が床に散乱していた。夕食時なのに、テーブルには食器一つなく、キッチンにも料理をしていた痕跡はない。まるで、誰かが急いで部屋を漁り、そのまま立ち去ったかのようだ。
 とにもかくにも、何があったのか確かめなくては。場合によっては、警察に通報しなければならない――と思っていると、りのがうめくような声を上げ、しがみついてきた。

「さっき、お父さんが帰ってきたの」
「お父さんが?」

 りのの両親は離婚している。だから、これまで家庭内の問題はすべて母親が元凶だと信じてきた。まさか、いまだに父親が出入りしていたなんて。赤嶺家に男が出入りしているとの噂は耳にしていたが、それが父親のことだったのか?
 事態は、思っていた以上に複雑なのかもしれない。

「りの、お父さんに暴力を振るわれたの?」
「ううん、違う。そうじゃない。今日は急にやってきて、お金を出せって言われたの。でも、今日はお母さんがいないから……」
「お金を渡せなかったんだね?」
「うん」
「お父さんは、よくこうやって来るの?」

 りのの話を聞きながら、部屋を隅々まで観察する。キッチン、茶棚、リビング、テーブルの上――探し物は見つからない。
 おかしい。ならば、あのりのの痣は――。

「半年くらい前から、かな。時々帰ってきて、お母さんに『やり直そう』って言うの。でも、お母さんがそれを拒むと、ものすごく怒って……。結局、お金だけ持って帰っていくの」
「お金をせびりに来てるんだね」
「うん」

 頷き、りのは私の胸に顔をうずめた。彼女の肩が小刻みに震えている。りのをぎゅっと抱きしめた。

「それで、お父さんは今どこに?」
「さっき部屋を出ていった。タンスを探って、キャッシュカードを見つけて、それを持ってったの」
「暗証番号を聞かれた?」
「聞かれていないし、教えてもいないよ」

 私の胸元で、りのが首を左右に振る。
 暗証番号を知らないなら、銀行に行っても無駄足だ。もしかすると、暗証番号を書いたメモか何かを見つけて、それを一緒に持ち出したのかもしれない。  

「わかった。お母さんに連絡して、口座を止めてもらおう」
「私が……悪いから……」
「りのは何も悪くないよ」
「……私が、生まれてきたこと自体が……いけないことだから」

 存在自体が罪だなんて、そんなことあるわけない。どんな人間にも生きる権利はあるんだ。
 どうして彼女がこんな残酷な言葉を自分に浴びせなくてはならないのか。まだ高校生である彼女が、なんの理由もなくこんな目に遭うなんて。
 怒りで視界がひっくり返るようだった。込み上げてくる怒りを宥めつつ、りのの頭を撫で続けた。
 どのくらいそうしていただろう。りのは少し落ち着きを取り戻してきたようだ。

「……今のうちに逃げよう」
「どこへ? 警察?」
「ううん、私の家。このままりのを誘拐しちゃうよ」

 少しおどけた口調で言うと、りのがようやく少し笑った。
 母親に無断で連れ出すのは良心が咎めるが、事態は一刻を争う。いつ戻ってくるかわからない母親を待ってはいられないし、もたもたしている間に父親が戻ってきたら最悪だ。

「お母さんには、後で謝ろう」

 りのの手を取って立ち上がろうとしたとき、玄関で物音がした。誰か家に戻ってきたようだ。母親ならいい。だけど、もしそうじゃなかったら――。
 りのの表情がこわばる。彼女を庇うように抱きしめ、振り返った。
 リビングに現れたのは、四十路くらいのスーツ姿の男だ。白髪交じりの短髪に銀縁のメガネ。顔はりのと似ていないが、おそらく彼が父親だろう。
 男は荒々しい息遣いでこちらを睨み、ずかずかと歩み寄ってきた。

「……誰、お前?」

 低い声で誰何すいかされた。私は半歩前に出て答えた。

「夜分遅くに恐れ入ります。私は――」
「そうか。お前が一ノ瀬詩だな?」

 発言の途中で遮られる。そうか、こういうタイプの人か、と内心で燻った苛立ちを抑える。

「そうですけれども」

 なぜ私の名前を知っているのだろう、と思うがすぐ気付いた。
 赤嶺真由美だ。思わず舌打ちしかける。この間学校に告訴状が届いたばかりなのだから、そりゃ話を聞いていてもおかしくない。
 恐ろしい形相だったが目は逸らさない。私は間違っていないと訴えるために。

「お前がうちの娘をたぶらかしたんだな?」
「……違う。そうじゃないのお父さん」
「お前は黙っていなさい!」

 りのが口を挟んだが、父親が遮るように叫んだ。
 床を踏みしめる激しい音に、りのの肩がびくっと震える。怯える彼女を背中に庇った。

「私は、今彼女と話をしているんだ。お前の話なら後で聞くから」
「なんのことでしょうか?」
「とぼけるんじゃない! ……高校の養護教諭という身でありながら、うちの娘とふしだらな行為に及んだそうじゃないか? 未成年の、しかも女同士でとか、はっ、気持ち悪い」

 小馬鹿にするように父親が鼻で笑う。未成年が相手であることを非難されるのはまだわかる。だが、女同士なのを馬鹿にされて角が立った。
 女同士で何が悪いの?
 そういうのが嫌だから、私は肩書きを捨てたんだ。
 これまで何度も立ちはだかってきた偏見の目に憤るが、せり上がってきた怒りをなんとか咀嚼する。ここで感情的になってしまっては、相手の思う壺だ。

「お言葉を返すようですが、私はすでに教育者ではありません」
「生徒に手を出しておいて、よくもまあ抜け抜けと。ではなんと呼ぶのかね? 犯罪者とでも?」
「呼びたいならご自由にどうぞ。ただ、私は教育者だったときも彼女と適切な距離を持って接していましたし、今だってそんな関係ではありません」
「……どうだかな? 私がちょっと不在にした隙に押しかけてきて、娘を連れ出そうとしているような人間の言うことが、信じられるかな」

 父親が、くぐもった声で笑う。私はできるだけ毅然とした態度で続けた。

「私は、りのさんから助けてほしいと電話で呼び出され、ここにやって来ました。それだけです。他意はありません。着信の履歴だってあります」
「そうなのか? りの?」

 父親がりのに凄むが、りのは何も答えない。ここで首を縦に振れば、後でどういった仕打ちを受けるか彼女は心得ているのだ。

「それで? あなたは今日なんのためにここに来たのですか?」

 りのが私の手に触れた。後ろ手に彼女の手を握り返す。冷たくなっている彼女の手を温めるように。
 大丈夫だよ、と。

「俺は、りののことを心配しているんだよ」
「心配、ですか?」
「そうだ。真由美の奴が不甲斐ないから、この家の生活は困窮している。さもしい生活をしているせいもあるのだろう。りのは、母親に虐待をされているんだ。君だって、それを知っているんじゃないのか? だから、心配になって足を運んだんだろう?」

 困窮しているのはあなたの生活では? 喉の奥で笑う。
 あくまでも、自分の行動は善意だと言いたいらしい。
 キャッシュカードを持ち出したことを問い詰めたいが、もし、車かどこかに置いてきていたら証拠がない。

「ええ、知っていました。だから、私も心配になって来たんです」

 だから、今は否定せずにおく。効果的な反撃のカードが見付かるまでは。

「なら、私たちの利害は一致しているわけだ」
「そうなりますかね?」
「お父さん。今日のところはもう帰ったほうがいいよ。……私なら大丈夫だから」

 健在ぶりをアピールするように、りのが薄く笑って見せた。
 いったん仕切り直そうという彼女の試みは、しかし父親によって破られた。

「そういうわけにはいかないよ。父親である俺が家にいるとわかったのだから、帰るのはむしろ一ノ瀬さんのほうだろう? 私は、りのに話しがあるのだから」

 そんな、とりのが歯がみする。
 まるで私が不法侵入者であるみたいに扱うんですね。でも、不法侵入しているのはあなたもじゃないですか?

「なら、すぐにでも警察に行きましょう。虐待がある証拠とりのさんの証言があれば、母親を追及できます。そうすれば、あなただって納得するでしょう」
「証言できるか? りの?」
「……」

 父親の声に、しかしりのは答えない。
 だんまりか。本当に、なぜりのは虐待がある事実を認めないのだろう。〝このなりゆき〟で、認めない理由はないのだけど。
 やはりか。理由として考えられるとしたら、〝これだ〟。

「娘は少々気が動転しているようだ。すまないが、やはり一度帰ってもらえないだろうか? これは、私たちの家庭の問題だからね」

 家庭、ですか。あなたは確かに父親ですが、すでに赤嶺家とは無関係な人物でしょう。

「わかりました、と言いたいところですがお断りします」
「なぜだ? 君は思いの外強情なんだな」
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