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第四章「試練と崩壊と」
【りのの初恋の話(1)】
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赤嶺真由美の半生を知り、思わず同情の念を抱いた。
彼女は二十代前半で娘、りのを産み、その後父親の失踪によりシングルマザーとなった。真由美自身も幼少期に父親が失踪していたため、十分な愛情を受けられずに育った。その影響か、情緒不安定な性格に育ち、アルコールで現実逃避する癖がついた。
りのは真由美にとって「生きる理由」であると同時に、「自由を奪う存在」でもあった。この矛盾が、後の虐待の根源になったのだろう。
真由美が再婚をしたのは八年前。相手は五歳年下の会社役員で経済的に余裕があり、生活が困窮していた真由美はプロポーズを即座に受け入れた。(――これが、現在のりのの義父である)
育児と仕事の両立に疲れ果てていた彼女にとって、安定した生活は何より魅力的だったのだ。
結婚生活は当初、幸福だった。夫の収入で仕事を辞めることができ、りのと義父の関係も良好で、娘は彼を父親として受け入れようとしていた。
だが、幸せは長く続かない。夫の不倫が発覚したのだ。
ある日、真由美は夫のスマホに届いた見知らぬ女性からのメッセージを目にする。「昨夜は楽しかった。また会いたい」というものだ。さらに遡って見ると、親密なやり取りやホテルの写真まで見つかり、彼女はショックで眠れない夜を過ごした。
それでも離婚は選べなかった。りのの私立小学校の学費、マンションのローン――夫の収入がなければ生活は維持できない。実家は遠く、実母との関係は良くなく、頼る先はなかった。
真由美は不倫を水に流し、りののために笑顔を装って家庭を保とうとした。だが、夜中に一人で洗濯物を畳むとき、涙がこぼれる。「私が我慢すれば、りのは幸せでいられる」と自分に言い聞かせたが、心は軋んだ。
やがて、夫は家に寄り付かなくなる。ある日りのが「お父さん、最近あんまり家にいないね。お母さん、寂しくない?」と無邪気に真由美に訊ねた。真由美は「大丈夫よ、お父さんは仕事が忙しいだけだから」と答えたが、娘に嘘を付いていることに罪悪感を覚えた。それでも、娘の笑顔と家庭を守るため沈黙を選んだ。
ある日、夫が突然家に戻ってくる。
聞けば、不景気のあおりを受けて会社が倒産し、職を失ったことで愛人との関係も終わったという。だが、彼は新たな仕事を探さず、日がな一日ごろごろしているか酒を飲んでいるばかり。真由美が咎めると、暴力を振るうようになった。
仕方なく、真由美は再び働きに出る。知人の薦めにより飲食店の経営を始めたが、あまりうまくいかなかった。借金が増えるだけの結果に終わり、結局店は畳んでしまった。
この頃から、夫の暴力がひどくなる。このときりのは小学校高学年。両親の関係がどういったものか理解できる年齢になっており、段々父親を怖がるようになった。
それでも夫が仕事に出ることはない。
――私は不倫を水に流して我慢をしてきたのに、あの人には罪の意識すらないのか。
真由美の我慢も限界に達した。夫は離婚を拒んだが、知り合いの弁護士の助けで、渋々離婚届に判を押した。
その後も真由美は職を転々とし、生活は苦しかった。真由美はりののためにマンションを売り、アパートへ移った。「自分は親に人生を狂わされたが、娘には決して苦労させない」と誓った。りのだけが自分の「生きる理由」なのだ。私が我慢すれば丸く収まると自らに言い聞かせ、贅沢と自分の時間を排した。
しかし、その誓いは呪いでもあった。
仕事の失敗、育児の重圧、孤独――喪失感に襲われた真由美は、酒と暴力に溺れるようになっていく。りのを愛する一方で、「しつけ」と称して厳しく当たる。娘からの愛情を感じられないときは、暴力を振るった。
真由美の暴力は、りののトラウマ(触れること=愛)と自己肯定感の欠如を生んだ。
親から十分な愛情を受けられなかった母子は、皮肉にも同じ心の傷を抱えていたのだ。
「俺とりのは、元々マンションの部屋が隣で、幼馴染だったんですよ」
あの日、アパートに乱入してきた少年――真人はこう語った。
「あの頃はまだ、りのもよく笑っていたんですけどね」
*
夕暮れの六義園近く、文京区にある小さな公園は、秋の気配に染まっていた。桜の木の下には、色づき始めた落ち葉が薄い絨毯のように広がり、風が表層を撫でるたびにかすかなざわめきが響く。私はベンチに腰掛けて、目の前のブランコが軋む音をただ聞いていた。
先日の騒動を受け、児童相談所のケースワーカーが赤嶺家の家庭環境を調査した。母親による虐待があったことを確認し、虐待の背景や内容に関する調査が完了するまで、りのを一時的に保護する方針で決定した。
母親は反省の意を表明しているが、長期的な心理療法と育児指導が必要と判断されたのだ。
なぜりのの母親は、元夫がりのに暴力を奮っていても警察に届け出ないのかと不思議に思っていたが、飲食店の経営に失敗した際に、元夫の実家から多額の借金をしていたのだ。
借金の返済はまだ終わっておらず、自身もりのに虐待をしている。
これらが負い目となって、周囲に相談できなかったらしい。PTA会長の肩書きがあるし、自らの汚点をさらしたくない気持ちは理解できた。一番の被害者はりのだが、母親にも同情の余地はあった。
ままならないものだな。
父親がなぜりのを連れ出そうとしたかはわからない。虐待をしていても愛情があったのか。金になると踏んだのか。詳しくは考えたくなかった。
りのの笑顔、震える指、背中の痣――そのすべてがいまだに胸の奥に棲んでいた。
「一ノ瀬さん、ちょっと話せる?」と、彼、真人が話しかけてきたのは物思いに耽っていたときだった。彼は文京区にある高校の制服を着ていて、どこか落ち着かない様子で私を見ていた。薄オレンジ色の空の下、彼の瞳には、決意とためらいの色が両方見て取れた。
「もちろん。……突然どうしたの? りののことで?」
彼はベンチの端に腰を下ろし、地面の落ち葉を靴先で軽く蹴った。
「りののこと、ちゃんと話したいと思ったんです。一ノ瀬さんは、りのにとって大事な人だから」
「うん」
そこに過去の景色が広がっているかのように、彼は茜色の空を見上げる。彼の横顔に、朱と影が同時に差している。公園の静けさが、二人の間に重い空気を織りなした。
「りのの初恋の話、聞いたことありますか?」
彼はまっすぐ私を見ている。彼の瞳のその奥に、りのの瞳に宿っていた怯えと同じ影を見た気がした。これはいったいどうして?
「初恋?」
「うん。俺の双子の妹、結衣のことなんですが」
りのの過去――彼女が「男も女も好きだったことがある」と告白した日の記憶が蘇る。あのときりのの声は震えていたが、後悔の鎖から解放されたような軽さも同時にあった。
彼は落ち葉を指で拾い上げ、ゆっくりと握り潰した。
彼女は二十代前半で娘、りのを産み、その後父親の失踪によりシングルマザーとなった。真由美自身も幼少期に父親が失踪していたため、十分な愛情を受けられずに育った。その影響か、情緒不安定な性格に育ち、アルコールで現実逃避する癖がついた。
りのは真由美にとって「生きる理由」であると同時に、「自由を奪う存在」でもあった。この矛盾が、後の虐待の根源になったのだろう。
真由美が再婚をしたのは八年前。相手は五歳年下の会社役員で経済的に余裕があり、生活が困窮していた真由美はプロポーズを即座に受け入れた。(――これが、現在のりのの義父である)
育児と仕事の両立に疲れ果てていた彼女にとって、安定した生活は何より魅力的だったのだ。
結婚生活は当初、幸福だった。夫の収入で仕事を辞めることができ、りのと義父の関係も良好で、娘は彼を父親として受け入れようとしていた。
だが、幸せは長く続かない。夫の不倫が発覚したのだ。
ある日、真由美は夫のスマホに届いた見知らぬ女性からのメッセージを目にする。「昨夜は楽しかった。また会いたい」というものだ。さらに遡って見ると、親密なやり取りやホテルの写真まで見つかり、彼女はショックで眠れない夜を過ごした。
それでも離婚は選べなかった。りのの私立小学校の学費、マンションのローン――夫の収入がなければ生活は維持できない。実家は遠く、実母との関係は良くなく、頼る先はなかった。
真由美は不倫を水に流し、りののために笑顔を装って家庭を保とうとした。だが、夜中に一人で洗濯物を畳むとき、涙がこぼれる。「私が我慢すれば、りのは幸せでいられる」と自分に言い聞かせたが、心は軋んだ。
やがて、夫は家に寄り付かなくなる。ある日りのが「お父さん、最近あんまり家にいないね。お母さん、寂しくない?」と無邪気に真由美に訊ねた。真由美は「大丈夫よ、お父さんは仕事が忙しいだけだから」と答えたが、娘に嘘を付いていることに罪悪感を覚えた。それでも、娘の笑顔と家庭を守るため沈黙を選んだ。
ある日、夫が突然家に戻ってくる。
聞けば、不景気のあおりを受けて会社が倒産し、職を失ったことで愛人との関係も終わったという。だが、彼は新たな仕事を探さず、日がな一日ごろごろしているか酒を飲んでいるばかり。真由美が咎めると、暴力を振るうようになった。
仕方なく、真由美は再び働きに出る。知人の薦めにより飲食店の経営を始めたが、あまりうまくいかなかった。借金が増えるだけの結果に終わり、結局店は畳んでしまった。
この頃から、夫の暴力がひどくなる。このときりのは小学校高学年。両親の関係がどういったものか理解できる年齢になっており、段々父親を怖がるようになった。
それでも夫が仕事に出ることはない。
――私は不倫を水に流して我慢をしてきたのに、あの人には罪の意識すらないのか。
真由美の我慢も限界に達した。夫は離婚を拒んだが、知り合いの弁護士の助けで、渋々離婚届に判を押した。
その後も真由美は職を転々とし、生活は苦しかった。真由美はりののためにマンションを売り、アパートへ移った。「自分は親に人生を狂わされたが、娘には決して苦労させない」と誓った。りのだけが自分の「生きる理由」なのだ。私が我慢すれば丸く収まると自らに言い聞かせ、贅沢と自分の時間を排した。
しかし、その誓いは呪いでもあった。
仕事の失敗、育児の重圧、孤独――喪失感に襲われた真由美は、酒と暴力に溺れるようになっていく。りのを愛する一方で、「しつけ」と称して厳しく当たる。娘からの愛情を感じられないときは、暴力を振るった。
真由美の暴力は、りののトラウマ(触れること=愛)と自己肯定感の欠如を生んだ。
親から十分な愛情を受けられなかった母子は、皮肉にも同じ心の傷を抱えていたのだ。
「俺とりのは、元々マンションの部屋が隣で、幼馴染だったんですよ」
あの日、アパートに乱入してきた少年――真人はこう語った。
「あの頃はまだ、りのもよく笑っていたんですけどね」
*
夕暮れの六義園近く、文京区にある小さな公園は、秋の気配に染まっていた。桜の木の下には、色づき始めた落ち葉が薄い絨毯のように広がり、風が表層を撫でるたびにかすかなざわめきが響く。私はベンチに腰掛けて、目の前のブランコが軋む音をただ聞いていた。
先日の騒動を受け、児童相談所のケースワーカーが赤嶺家の家庭環境を調査した。母親による虐待があったことを確認し、虐待の背景や内容に関する調査が完了するまで、りのを一時的に保護する方針で決定した。
母親は反省の意を表明しているが、長期的な心理療法と育児指導が必要と判断されたのだ。
なぜりのの母親は、元夫がりのに暴力を奮っていても警察に届け出ないのかと不思議に思っていたが、飲食店の経営に失敗した際に、元夫の実家から多額の借金をしていたのだ。
借金の返済はまだ終わっておらず、自身もりのに虐待をしている。
これらが負い目となって、周囲に相談できなかったらしい。PTA会長の肩書きがあるし、自らの汚点をさらしたくない気持ちは理解できた。一番の被害者はりのだが、母親にも同情の余地はあった。
ままならないものだな。
父親がなぜりのを連れ出そうとしたかはわからない。虐待をしていても愛情があったのか。金になると踏んだのか。詳しくは考えたくなかった。
りのの笑顔、震える指、背中の痣――そのすべてがいまだに胸の奥に棲んでいた。
「一ノ瀬さん、ちょっと話せる?」と、彼、真人が話しかけてきたのは物思いに耽っていたときだった。彼は文京区にある高校の制服を着ていて、どこか落ち着かない様子で私を見ていた。薄オレンジ色の空の下、彼の瞳には、決意とためらいの色が両方見て取れた。
「もちろん。……突然どうしたの? りののことで?」
彼はベンチの端に腰を下ろし、地面の落ち葉を靴先で軽く蹴った。
「りののこと、ちゃんと話したいと思ったんです。一ノ瀬さんは、りのにとって大事な人だから」
「うん」
そこに過去の景色が広がっているかのように、彼は茜色の空を見上げる。彼の横顔に、朱と影が同時に差している。公園の静けさが、二人の間に重い空気を織りなした。
「りのの初恋の話、聞いたことありますか?」
彼はまっすぐ私を見ている。彼の瞳のその奥に、りのの瞳に宿っていた怯えと同じ影を見た気がした。これはいったいどうして?
「初恋?」
「うん。俺の双子の妹、結衣のことなんですが」
りのの過去――彼女が「男も女も好きだったことがある」と告白した日の記憶が蘇る。あのときりのの声は震えていたが、後悔の鎖から解放されたような軽さも同時にあった。
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