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終話:試合終了。そして、新たな夢の始まり。
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中継したセカンドからの送球がキャッチャーミットに収まるのと同時に、本上さんがヘッドスライディングでホームに突っ込んだ。
舞い上がる土煙。
一瞬の静寂ののち、本上さんの手の位置を確認して主審がコ-ルした。
「セーフ!」
わあ、とわき立つベンチ。笑みを浮かべて引き上げて来た泥だらけの彼女を、チームメイトらが出迎える。谷口君が両手で彼女を抱きしめようとして、我に返ったように広げた手をさまよわせた。
小学生の野球というのは実に面白いもので、ミスが続くときはどこまでも続くように、一度勢いに乗ってしまうと、もはや誰にも止められないのだ。
女の子にランニングホームランを打たれ、意気消沈した相手投手が降板して二人目に代わるが、勢いは止まらない。
粘った末に、斎藤君が今日初めての安打で出塁すると、三澤君の送りバントで進塁したあとに飛び出した、鈴木君の本日三本目となるタイムリーで一点追加。
ツーアウトののち、佐藤君と田中君にも連打が飛び出し二点追加。坂谷君が粘って四球を選び、谷口君が内野安打で満塁とすると、この回二打席目となる本上さんが左中間二塁打を放ってさらに二点追加。打者一巡の猛攻で一挙七点を奪った。
最終回も鈴木君が三者連続三振に切って取り、終わってみれば、十一対四の大勝だった。
こうして港北小野球クラブは、九年ぶりとなる交流戦の勝利を手にする。
お祭り騒ぎの選手たちを横目に、荷物を抱えてこっそりベンチを抜け出した。前日の夜、こう監督に伝えてあった。もしかすると、子どもたちに内緒で、こっそり姿をくらますかもしれませんと。後ろ髪を引かれる思いもあるが、たぶんこっちのほうが辛くないから。
「おめでとう」
呟きひとつ。
口元を綻ばせて球場を出たところで、「あの……」と横から声を掛けられる。
声がしたほうに目を向けると、三十代半ばほどの黒髪美人がそこに立っていた。くっきりとした二重瞼が印象的だ。
「ええと、もしかして……」
「初めまして。雪菜の母です」
そう言われてみると、本上さんとよく似ている。いや、この場合、本上さんのほうが似ているというべきだろうが。
とにかく、彼女の面影があった。
「ありがとうございます」と母親が頭を下げた。「実を言うとですね、ここ最近、雪菜は野球を辞めたがっていたんです」
「本上さんが?」
まったくの想定外、ということもないかもしれない。最初に見たときの彼女は、あまり楽しそうに野球をしていなかったのだし。唯一の女子選手なのもあって、チームにうまく溶け込めていなかったのも確かだ。
「でも、ここ数日で変わったんです。毎日学校に行くときの表情が輝いていると言いますか……。とにかく、弱音を吐かなくなったんです。たぶん、これはコーチのおかげだと思うんです」
「俺ですか? いやいや俺なんて何も……。ただ、自分にできることをしただけですし」
言いながら、むず痒い感覚があった。自分にできること、か。選択肢を自ら狭め、野球の道を諦めた俺に、語る資格なんてあるんだろうか? 実に滑稽だと思う。
「雪菜の夢は、中学でも野球部に入ることなんです。たぶん、兄の影響なんでしょうけれどね」
「野球部、ですか」
実際のところ、中学進学後も野球を続ける女子選手は殆どいない。男女の体格差が顕著になるのも相まって、多くがソフトボールや他のスポーツに転向してしまうからだ。
また、多くの人が知っている通り、高校に進学すると選手としてプレーするのはおろか、グラウンドに出ることすら許されなくなる。女子マネージャーが、シートノックのサポートに入り問題になったことからもわかるように、野球連盟にいまだ残っている、悪しき慣習のひとつだと俺は思う。
それでも……。
それでもなお彼女は、野球の道を進みたいと言うのか。先が途絶える道だと知っていてなお。
俺は、野球人として、投手として、『特別』であることを望んだ。だから特別になれないと悟ったとき、夢を諦めた。
肩が上がらないから。
投手にはなれないから。
百四十キロのボールは投げられないから。
様々な理由をこじ付けては、野球部から逃げるようにして退部した。エースピッチャーという肩書きや、過去の栄光にこだわりさえしなければ、いくらでも野球を続ける道はあったであろうに。
だが、本上さんは女の子だ。
この世界に生まれたその日から、『特別』になる道を閉ざされているとすら言える。
それでも、野球の道を目指すという。
心臓のあたりが強く痛んだ。強い痛みがでる理由、それは、本上さんに対する同情心なんかじゃない。あまりにも惨めな自分に対する――嫌悪だ。
「もしかして、コーチの仕事、もう辞められてしまうのですか?」
母親が、俺が抱えている荷物を見ながら言った。
「いや……、これは」
すっかりからからになった喉からは、思うように言葉が出てこない。唇を噛んで俯いた無様な俺の背中を、誰かが叩いた。振り向くと、そこには三澤君が立っていた。
いや、彼ばかりではない。気がつけば、全部員が後ろに集結していた。
「今の話、本当ですか? コーチ辞めるって、本当ですか?」
「ああ、うん。父ちゃんが言ってた。今日限りなんだって」
三澤君の質問に坂谷君が答えると、えーやめないでくださいよーという声が口々に上がる。
監督がまあまあ、と皆を宥めるなか、三澤君がキッと俺を睨みつけた。
「勝ち逃げなんて許しませんよ」
「え?」
「僕は、コーチに認められて、一番センターの座を自力で取り戻すって決めたんです。このままいなくなられては困ります」
「三澤君……」
「コーチ」と今度は本上さん。
「私、中学を出たあとは、女子野球部のある高校に進学するつもりなんです。その次は、女子野球選手。それが、私が思い描いている未来。この話、まだ親には言ってませんけどね」と舌を出した。「だから……。もう少しだけ、指導してくれますよね? コーチに出会えてから、私変われたんです。コーチは私にとって、特別なんです!」
『特別』その言葉が俺の胸を鋭く抉る。こんな惨めな俺のことを、君たちは必要としてくれるのか?
それと、女子野球部、か。
そうか、今はそんな道もあるんだな。
『それでも、暗闇の中で進むべき道を探して歩いていくんだよ。そこに――新たな夢を見つけてね』
新たな夢。見つめる未来。
霧島に言われた台詞が、花言葉とともに脳裏に蘇ってくる。
そうだな、お前の言った通りだったな。とたんに変な笑いがこみ上げてきた。人目も気にせず、呵々と俺は大声で笑った。
「辞めるわけなんてないだろう? 来週から、もっと厳しく指導するからな。泣き言なんて言うんじゃねーぞ?」
「当然です」と三澤君が満足したように頷いた。歓声を上げ、脇を通り過ぎていく部員たちの背中を見送った。
その時、俺の立っている場所から数歩先で本上さんの足が止まる。
「コーチ」
「ん、どうした?」
陽はすっかり西に傾いていた。橙色に変わった夕日を浴びて、彼女の頬も朱色に染まる。
「コーチは……。その……霧島先生とはお付き合いをしているんですか?」
意想外の言葉が飛び出してきたことに、思わず噴き出してしまう。
「い、いやいや、ないない。単なる昔のクラスメイトだよ」
そんな関係だったら、どんなに良いことか。
「そうですか。良かったです」
「へ?」
「あ、いえ。なんでもないです。忘れて下さい」
恥ずかしそうに顔を伏せて駆けだした本上さんだったが、もう一度だけ立ち止まって振り返る。
「これから焼き肉屋に行って打ち上げをするそうです。コーチももちろん来ますよね?」
俺は笑いながら返答した。「ああ、行かせてもらうよ」と。
『……それとも、もう野球はやめてしまいましたか? 夢は叶わないものになってしまいましたか?』
心配すんな、昔の俺。一生、野球は辞めねえ。夢は叶えるもの。たとえその形が変化したとしても、な。
「おーい、行くよー」いつの間に来たのだろう。遠くから、霧島の声が聞こえた。「おう、ちょっと待ってくれ」
……そうだろ?
『みつめる未来』 了。
舞い上がる土煙。
一瞬の静寂ののち、本上さんの手の位置を確認して主審がコ-ルした。
「セーフ!」
わあ、とわき立つベンチ。笑みを浮かべて引き上げて来た泥だらけの彼女を、チームメイトらが出迎える。谷口君が両手で彼女を抱きしめようとして、我に返ったように広げた手をさまよわせた。
小学生の野球というのは実に面白いもので、ミスが続くときはどこまでも続くように、一度勢いに乗ってしまうと、もはや誰にも止められないのだ。
女の子にランニングホームランを打たれ、意気消沈した相手投手が降板して二人目に代わるが、勢いは止まらない。
粘った末に、斎藤君が今日初めての安打で出塁すると、三澤君の送りバントで進塁したあとに飛び出した、鈴木君の本日三本目となるタイムリーで一点追加。
ツーアウトののち、佐藤君と田中君にも連打が飛び出し二点追加。坂谷君が粘って四球を選び、谷口君が内野安打で満塁とすると、この回二打席目となる本上さんが左中間二塁打を放ってさらに二点追加。打者一巡の猛攻で一挙七点を奪った。
最終回も鈴木君が三者連続三振に切って取り、終わってみれば、十一対四の大勝だった。
こうして港北小野球クラブは、九年ぶりとなる交流戦の勝利を手にする。
お祭り騒ぎの選手たちを横目に、荷物を抱えてこっそりベンチを抜け出した。前日の夜、こう監督に伝えてあった。もしかすると、子どもたちに内緒で、こっそり姿をくらますかもしれませんと。後ろ髪を引かれる思いもあるが、たぶんこっちのほうが辛くないから。
「おめでとう」
呟きひとつ。
口元を綻ばせて球場を出たところで、「あの……」と横から声を掛けられる。
声がしたほうに目を向けると、三十代半ばほどの黒髪美人がそこに立っていた。くっきりとした二重瞼が印象的だ。
「ええと、もしかして……」
「初めまして。雪菜の母です」
そう言われてみると、本上さんとよく似ている。いや、この場合、本上さんのほうが似ているというべきだろうが。
とにかく、彼女の面影があった。
「ありがとうございます」と母親が頭を下げた。「実を言うとですね、ここ最近、雪菜は野球を辞めたがっていたんです」
「本上さんが?」
まったくの想定外、ということもないかもしれない。最初に見たときの彼女は、あまり楽しそうに野球をしていなかったのだし。唯一の女子選手なのもあって、チームにうまく溶け込めていなかったのも確かだ。
「でも、ここ数日で変わったんです。毎日学校に行くときの表情が輝いていると言いますか……。とにかく、弱音を吐かなくなったんです。たぶん、これはコーチのおかげだと思うんです」
「俺ですか? いやいや俺なんて何も……。ただ、自分にできることをしただけですし」
言いながら、むず痒い感覚があった。自分にできること、か。選択肢を自ら狭め、野球の道を諦めた俺に、語る資格なんてあるんだろうか? 実に滑稽だと思う。
「雪菜の夢は、中学でも野球部に入ることなんです。たぶん、兄の影響なんでしょうけれどね」
「野球部、ですか」
実際のところ、中学進学後も野球を続ける女子選手は殆どいない。男女の体格差が顕著になるのも相まって、多くがソフトボールや他のスポーツに転向してしまうからだ。
また、多くの人が知っている通り、高校に進学すると選手としてプレーするのはおろか、グラウンドに出ることすら許されなくなる。女子マネージャーが、シートノックのサポートに入り問題になったことからもわかるように、野球連盟にいまだ残っている、悪しき慣習のひとつだと俺は思う。
それでも……。
それでもなお彼女は、野球の道を進みたいと言うのか。先が途絶える道だと知っていてなお。
俺は、野球人として、投手として、『特別』であることを望んだ。だから特別になれないと悟ったとき、夢を諦めた。
肩が上がらないから。
投手にはなれないから。
百四十キロのボールは投げられないから。
様々な理由をこじ付けては、野球部から逃げるようにして退部した。エースピッチャーという肩書きや、過去の栄光にこだわりさえしなければ、いくらでも野球を続ける道はあったであろうに。
だが、本上さんは女の子だ。
この世界に生まれたその日から、『特別』になる道を閉ざされているとすら言える。
それでも、野球の道を目指すという。
心臓のあたりが強く痛んだ。強い痛みがでる理由、それは、本上さんに対する同情心なんかじゃない。あまりにも惨めな自分に対する――嫌悪だ。
「もしかして、コーチの仕事、もう辞められてしまうのですか?」
母親が、俺が抱えている荷物を見ながら言った。
「いや……、これは」
すっかりからからになった喉からは、思うように言葉が出てこない。唇を噛んで俯いた無様な俺の背中を、誰かが叩いた。振り向くと、そこには三澤君が立っていた。
いや、彼ばかりではない。気がつけば、全部員が後ろに集結していた。
「今の話、本当ですか? コーチ辞めるって、本当ですか?」
「ああ、うん。父ちゃんが言ってた。今日限りなんだって」
三澤君の質問に坂谷君が答えると、えーやめないでくださいよーという声が口々に上がる。
監督がまあまあ、と皆を宥めるなか、三澤君がキッと俺を睨みつけた。
「勝ち逃げなんて許しませんよ」
「え?」
「僕は、コーチに認められて、一番センターの座を自力で取り戻すって決めたんです。このままいなくなられては困ります」
「三澤君……」
「コーチ」と今度は本上さん。
「私、中学を出たあとは、女子野球部のある高校に進学するつもりなんです。その次は、女子野球選手。それが、私が思い描いている未来。この話、まだ親には言ってませんけどね」と舌を出した。「だから……。もう少しだけ、指導してくれますよね? コーチに出会えてから、私変われたんです。コーチは私にとって、特別なんです!」
『特別』その言葉が俺の胸を鋭く抉る。こんな惨めな俺のことを、君たちは必要としてくれるのか?
それと、女子野球部、か。
そうか、今はそんな道もあるんだな。
『それでも、暗闇の中で進むべき道を探して歩いていくんだよ。そこに――新たな夢を見つけてね』
新たな夢。見つめる未来。
霧島に言われた台詞が、花言葉とともに脳裏に蘇ってくる。
そうだな、お前の言った通りだったな。とたんに変な笑いがこみ上げてきた。人目も気にせず、呵々と俺は大声で笑った。
「辞めるわけなんてないだろう? 来週から、もっと厳しく指導するからな。泣き言なんて言うんじゃねーぞ?」
「当然です」と三澤君が満足したように頷いた。歓声を上げ、脇を通り過ぎていく部員たちの背中を見送った。
その時、俺の立っている場所から数歩先で本上さんの足が止まる。
「コーチ」
「ん、どうした?」
陽はすっかり西に傾いていた。橙色に変わった夕日を浴びて、彼女の頬も朱色に染まる。
「コーチは……。その……霧島先生とはお付き合いをしているんですか?」
意想外の言葉が飛び出してきたことに、思わず噴き出してしまう。
「い、いやいや、ないない。単なる昔のクラスメイトだよ」
そんな関係だったら、どんなに良いことか。
「そうですか。良かったです」
「へ?」
「あ、いえ。なんでもないです。忘れて下さい」
恥ずかしそうに顔を伏せて駆けだした本上さんだったが、もう一度だけ立ち止まって振り返る。
「これから焼き肉屋に行って打ち上げをするそうです。コーチももちろん来ますよね?」
俺は笑いながら返答した。「ああ、行かせてもらうよ」と。
『……それとも、もう野球はやめてしまいましたか? 夢は叶わないものになってしまいましたか?』
心配すんな、昔の俺。一生、野球は辞めねえ。夢は叶えるもの。たとえその形が変化したとしても、な。
「おーい、行くよー」いつの間に来たのだろう。遠くから、霧島の声が聞こえた。「おう、ちょっと待ってくれ」
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