1 / 90
第1話 解雇予告手続、なし?
窓の外では、湿り気を帯びた六月の雨がアスファルトを叩いている。
オフィスに漂うのは、安っぽい芳香剤と、使い古されたコピー機のトナーが焼ける焦げ臭い匂い。そして、目の前で顔を真っ赤に膨らませている男――佐藤社長の、むせ返るような煙草の体臭だった。
「聞こえなかったのか? クビだと言ってるんだよ、サトシ!」
ガシャン、と大きな音が響いた。社長がデスクを叩いた衝撃で、僕の淹れたばかりのコーヒーが波打ち、白い書類に茶色のシミを作っていく。
その書類には、たった一行、明朝体で『解雇通知書』とだけ印字されていた。
「君みたいな、言われたことしかできない事務員はうちにはいらないんだ。もっとこう、パッションのある、若くて安く使える奴に替えることにした。今日で終わりだ。荷物をまとめてさっさと失せろ」
社長の唾液が僕の頬に飛ぶ。
かつては「家族経営の温かさ」だと思っていたこの職場の空気は、今や酸素が欠乏した密室のように息苦しい。心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと速まるのを感じる。怒りか? 悲しみか? いや、これは――高揚だ。
僕はゆっくりと眼鏡を指先で押し上げ、デスクに散らばった「シミだらけの紙切れ」を指先でつまみ上げた。
「……社長。一つ確認ですが、これは『即日解雇』という認識でよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだ! 今、この瞬間からお前は赤の他人だ。一秒でも長くここに居座るなら不法侵入で警察を呼ぶぞ!」
社長は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、ふんぞり返って椅子に深く腰掛けた。背もたれの古い合皮がギュルリと嫌な音を立てる。
僕は深く息を吸い込んだ。肺の奥まで届く空気は淀んでいるが、脳は氷のように冷えていく。
「それは困りましたね」
僕は努めて穏やかに、しかし芯の通った声で言葉を紡ぎ始めた。
「労働基準法第20条。ご存知ですか?」
「はあ? 法律だあ? お前、俺に説教する気か?」
「説教ではありません。単なる事実の確認です」
僕は社長の目をまっすぐに見据えた。彼の瞳の中に、困惑の色が混じり始める。
「使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少なくとも三十日前にその予告をしなければならない。三十日前に予告をしない使用者は、三十日分以上の平均賃金を支払わなければならない……。いわゆる『解雇予告手当』の義務化です」
僕はカバンから一冊の手帳を取り出し、淀みなく続けた。
「社長、今ここで僕を追い出すのであれば、あなたは僕に対し、即座に三十日分の平均賃金を支払う法的義務が生じます。僕の直近三ヶ月の給与から算出すると、約32万4500円。端数はサービスしても構いませんが、今、この場でお支払いいただけますか?」
社長の顔から血の気が引き、次にどす黒い怒気が湧き上がった。
「ふざけるな! 懲戒解雇だ! お前が仕事ができないからクビにするんだ、一円も払うもんか!」
「お言葉ですが、社長。懲戒解雇が認められるには、就業規則に定められた重大な規律違反が必要です。僕がいつ、どのような犯罪行為、あるいは重大な背信行為を行いましたか? 裁判所は『能力不足』程度での即日解雇をまず認めません。客観的、合理的理由を欠く解雇は、解雇権の濫用として無効になりますよ」
「うるさいうるさいうるさい! 屁理屈を並べやがって!」
社長が再び机を叩く。その振動が床を通じて僕の足の裏に伝わる。
かつての僕なら、この威圧感に縮み上がっていただろう。だが、今の僕の指先は驚くほど震えていない。六法という盾が、僕の背後を冷徹に守っている。
「屁理屈ではありません。これは手続きの話です。……それとも、労働基準監督署による臨検調査をお望みですか? うちの会社、36協定の届け出も怪しいですし、先月の残業代の計算も、僕が指摘した通り『切り捨て計算』という違法な処理をされていますよね」
「……っ!」
社長が絶句した。喉を鳴らし、ネクタイを緩める。額には脂汗が浮いている。
オフィス内は静まり返り、他の社員たちがモニター越しに息を潜めてこちらの様子を伺っているのがわかる。
僕はゆっくりと椅子から立ち上がり、自分のデスクに置いてあった私物をカバンに詰めた。
ペン一本、付箋一つ。会社から支給された備品は、潔いほどに一点も残さない。
「解雇通知書は、証拠としていただいていきます。今後の連絡は書面、もしくは私の代理人を通じて行ってください。ああ、それから」
僕はドアノブに手をかけ、振り返った。
「この雨の中、予告なしに放り出された精神的苦痛についても、後ほど精査させていただきます。民法第709条、不法行為に基づく慰謝料請求。覚えておいて損はない言葉ですよ、社長」
背後で社長が何かを叫んだような気がしたが、激しい雨音にかき消された。
一歩、建物の外へ踏み出す。
冷たい雨粒が頬を打つ。けれど、その感覚は驚くほど鮮明で、心地よかった。
濡れたアスファルトの匂いが鼻をくすぐる。
僕はスマホを取り出し、あらかじめ用意していた番号をタップした。
「……あ、もしもし。予定通り『解雇』されました。ええ、証拠は完璧です。録音も、通知書も。はい、これから伺います」
僕は雨の中、傘を広げた。
グレーの空を見上げると、口角が自然と上がるのを止められなかった。
自由だ。
法律という、この世で最も冷徹で公平な武器を手にした僕は、もうあの湿った暗がりに戻ることはない。
次の一手は、既に決まっている。
オフィスに漂うのは、安っぽい芳香剤と、使い古されたコピー機のトナーが焼ける焦げ臭い匂い。そして、目の前で顔を真っ赤に膨らませている男――佐藤社長の、むせ返るような煙草の体臭だった。
「聞こえなかったのか? クビだと言ってるんだよ、サトシ!」
ガシャン、と大きな音が響いた。社長がデスクを叩いた衝撃で、僕の淹れたばかりのコーヒーが波打ち、白い書類に茶色のシミを作っていく。
その書類には、たった一行、明朝体で『解雇通知書』とだけ印字されていた。
「君みたいな、言われたことしかできない事務員はうちにはいらないんだ。もっとこう、パッションのある、若くて安く使える奴に替えることにした。今日で終わりだ。荷物をまとめてさっさと失せろ」
社長の唾液が僕の頬に飛ぶ。
かつては「家族経営の温かさ」だと思っていたこの職場の空気は、今や酸素が欠乏した密室のように息苦しい。心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと速まるのを感じる。怒りか? 悲しみか? いや、これは――高揚だ。
僕はゆっくりと眼鏡を指先で押し上げ、デスクに散らばった「シミだらけの紙切れ」を指先でつまみ上げた。
「……社長。一つ確認ですが、これは『即日解雇』という認識でよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだ! 今、この瞬間からお前は赤の他人だ。一秒でも長くここに居座るなら不法侵入で警察を呼ぶぞ!」
社長は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、ふんぞり返って椅子に深く腰掛けた。背もたれの古い合皮がギュルリと嫌な音を立てる。
僕は深く息を吸い込んだ。肺の奥まで届く空気は淀んでいるが、脳は氷のように冷えていく。
「それは困りましたね」
僕は努めて穏やかに、しかし芯の通った声で言葉を紡ぎ始めた。
「労働基準法第20条。ご存知ですか?」
「はあ? 法律だあ? お前、俺に説教する気か?」
「説教ではありません。単なる事実の確認です」
僕は社長の目をまっすぐに見据えた。彼の瞳の中に、困惑の色が混じり始める。
「使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少なくとも三十日前にその予告をしなければならない。三十日前に予告をしない使用者は、三十日分以上の平均賃金を支払わなければならない……。いわゆる『解雇予告手当』の義務化です」
僕はカバンから一冊の手帳を取り出し、淀みなく続けた。
「社長、今ここで僕を追い出すのであれば、あなたは僕に対し、即座に三十日分の平均賃金を支払う法的義務が生じます。僕の直近三ヶ月の給与から算出すると、約32万4500円。端数はサービスしても構いませんが、今、この場でお支払いいただけますか?」
社長の顔から血の気が引き、次にどす黒い怒気が湧き上がった。
「ふざけるな! 懲戒解雇だ! お前が仕事ができないからクビにするんだ、一円も払うもんか!」
「お言葉ですが、社長。懲戒解雇が認められるには、就業規則に定められた重大な規律違反が必要です。僕がいつ、どのような犯罪行為、あるいは重大な背信行為を行いましたか? 裁判所は『能力不足』程度での即日解雇をまず認めません。客観的、合理的理由を欠く解雇は、解雇権の濫用として無効になりますよ」
「うるさいうるさいうるさい! 屁理屈を並べやがって!」
社長が再び机を叩く。その振動が床を通じて僕の足の裏に伝わる。
かつての僕なら、この威圧感に縮み上がっていただろう。だが、今の僕の指先は驚くほど震えていない。六法という盾が、僕の背後を冷徹に守っている。
「屁理屈ではありません。これは手続きの話です。……それとも、労働基準監督署による臨検調査をお望みですか? うちの会社、36協定の届け出も怪しいですし、先月の残業代の計算も、僕が指摘した通り『切り捨て計算』という違法な処理をされていますよね」
「……っ!」
社長が絶句した。喉を鳴らし、ネクタイを緩める。額には脂汗が浮いている。
オフィス内は静まり返り、他の社員たちがモニター越しに息を潜めてこちらの様子を伺っているのがわかる。
僕はゆっくりと椅子から立ち上がり、自分のデスクに置いてあった私物をカバンに詰めた。
ペン一本、付箋一つ。会社から支給された備品は、潔いほどに一点も残さない。
「解雇通知書は、証拠としていただいていきます。今後の連絡は書面、もしくは私の代理人を通じて行ってください。ああ、それから」
僕はドアノブに手をかけ、振り返った。
「この雨の中、予告なしに放り出された精神的苦痛についても、後ほど精査させていただきます。民法第709条、不法行為に基づく慰謝料請求。覚えておいて損はない言葉ですよ、社長」
背後で社長が何かを叫んだような気がしたが、激しい雨音にかき消された。
一歩、建物の外へ踏み出す。
冷たい雨粒が頬を打つ。けれど、その感覚は驚くほど鮮明で、心地よかった。
濡れたアスファルトの匂いが鼻をくすぐる。
僕はスマホを取り出し、あらかじめ用意していた番号をタップした。
「……あ、もしもし。予定通り『解雇』されました。ええ、証拠は完璧です。録音も、通知書も。はい、これから伺います」
僕は雨の中、傘を広げた。
グレーの空を見上げると、口角が自然と上がるのを止められなかった。
自由だ。
法律という、この世で最も冷徹で公平な武器を手にした僕は、もうあの湿った暗がりに戻ることはない。
次の一手は、既に決まっている。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【老化返却】聖女の若さは俺の寿命だった〜回復魔法の代償を肩代わりしていた俺を追放した報いだ。回復のたびに毛が抜け、骨がスカスカになるが良い〜
寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ファンタジー
アルファポリスで累計1位を狙うための紹介文は、カクヨムよりも**「カタルシスの明示」と「読者の溜飲を下げる具体的な悲惨さ」**を強調する必要があります。
アルファポリスの読者は、タイトルで興味を持ち、紹介文で「こいつらがどう酷い目に遭い、主人公がどれだけ報われるか」を確認してから読み始めます。
以下に、戦略的な紹介文の構成とベストな1案を提案します。
【紹介文の構成ポイント】
一行目のインパクト: 状況を象徴する台詞や、絶望的な一言から始める。
落差(Before/After)の明示: 主人公がどれだけ不当に扱われ、いなくなった後にどれだけ相手が崩壊するかを対比させる。
専門用語を避ける: 「世界樹の根源」の凄さを、「神に愛された」「不老不死」など、誰でもわかる言葉で補足する。
アルファポリス1位狙いの最強紹介文案
「寿命を削って回復してやってたのに……感謝すらしないんだな」
聖女パーティの荷物持ち兼回復術師だった俺は、ある日突然パーティを追放された。
理由は「回復魔法のコストが寿命で、もうすぐ死ぬ無能はいらない」という勝手な思い込み。
だが、彼らは知らなかった。
俺の正体が、この世界の生命を司る**【世界樹の根源】**そのものだったことを。
俺の寿命は無限であり、俺がパーティにいたからこそ、彼らは「若さ」と「健康」を維持できていたのだ。
「俺がいなくなったら、誰が君たちの老化を止めるの?」
俺がいなくなった途端、聖女たちの身体に異変が起きる。
回復魔法を唱えるたびに、自慢の金髪はバサバサと抜け落ち、肌は土色に。
若さに溺れていた彼女たちは、骨がスカスカになり、杖なしでは歩けない老婆のような姿へと変わり果てていく。
一方、解放された俺は隣国の美少女皇女に拾われ、世界樹の力で枯れた大地を森に変える「現人神」として崇められていた。
「今さら戻ってきて? ……悪いけど、そのハゲ散らかした老婆、誰だっけ?」
すべてを失ってから「俺」の価値に気づいても、もう遅い。
これは、恩を仇で返した連中が、自らの美容と健康を代償に破滅していく物語。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
国外追放ですか? 承りました。では、すぐに国外にテレポートします。
樋口紗夕
恋愛
公爵令嬢ヘレーネは王立魔法学園の卒業パーティーで第三王子ジークベルトから婚約破棄を宣言される。
ジークベルトの真実の愛の相手、男爵令嬢ルーシアへの嫌がらせが原因だ。
国外追放を言い渡したジークベルトに、ヘレーネは眉一つ動かさずに答えた。
「国外追放ですか? 承りました。では、すぐに国外にテレポートします」
後日譚追加【完結】冤罪で追放された俺、真実の魔法で無実を証明したら手のひら返しの嵐!! でももう遅い、王都ごと見捨てて自由に生きます
なみゆき
ファンタジー
魔王を討ったはずの俺は、冤罪で追放された。 功績は奪われ、婚約は破棄され、裏切り者の烙印を押された。 信じてくれる者は、誰一人いない——そう思っていた。
だが、辺境で出会った古代魔導と、ただ一人俺を信じてくれた彼女が、すべてを変えた。 婚礼と処刑が重なるその日、真実をつきつけ、俺は、王都に“ざまぁ”を叩きつける。
……でも、もう復讐には興味がない。 俺が欲しかったのは、名誉でも地位でもなく、信じてくれる人だった。
これは、ざまぁの果てに静かな勝利を選んだ、元英雄の物語。
戦場の英雄、上官の陰謀により死亡扱いにされ、故郷に帰ると許嫁は結婚していた。絶望の中、偶然助けた許嫁の娘に何故か求婚されることに
千石
ファンタジー
「絶対生きて帰ってくる。その時は結婚しよう」
「はい。あなたの帰りをいつまでも待ってます」
許嫁と涙ながらに約束をした20年後、英雄と呼ばれるまでになったルークだったが生還してみると死亡扱いにされていた。
許嫁は既に結婚しており、ルークは絶望の只中に。
上官の陰謀だと知ったルークは激怒し、殴ってしまう。
言い訳をする気もなかったため、全ての功績を抹消され、貰えるはずだった年金もパー。
絶望の中、偶然助けた子が許嫁の娘で、
「ルーク、あなたに惚れたわ。今すぐあたしと結婚しなさい!」
何故か求婚されることに。
困りながらも巻き込まれる騒動を通じて
ルークは失っていた日常を段々と取り戻していく。
こちらは他のウェブ小説にも投稿しております。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。