『統計上の失踪者』 ―9万人の中の一人にされた男―

かおるこ

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第11話 却下

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第11話 却下

決定書は、淡々としていた。

白い紙。
黒い活字。
感情の一切ない文章。

**保佐開始の申立てを却下する。**
**申立ては相当性を欠く。**

森本隆は、その一文を何度も目でなぞった。

インクの匂いが、かすかに鼻に残る。

家庭裁判所の廊下は、相変わらず静かだ。
蛍光灯の白い光が、床に反射している。

真紀は、少し離れた場所に立っている。

顔色が白い。

裁判官が最後に言う。

「刑事事件化については、現段階では見送ります」

一瞬、森本の胸がざわつく。

だが続く言葉が、空気を変える。

「ただし、申立ての経緯については、関係機関へ通知します」

真紀の目が揺れる。

「関係機関とは?」

裁判官の声は冷たい。

「社会福祉士資格の所管団体です」

その瞬間、真紀の呼吸が止まったように見えた。

「……それは」

声が震える。

「必要な調査が行われます」

木槌の音。

乾いた衝撃。

すべてが終わる。

 

廊下に出た瞬間、真紀が壁に手をついた。

指先が白くなる。

「どういうこと……」

初めて、声が崩れる。

森本は黙って立っている。

佐伯刑事が近づく。

「刑事立件は現時点では難しい。ただ」

視線を真紀へ向ける。

「三回の虚偽申告は記録に残ります」

真紀が振り向く。

「虚偽じゃありません!」

声が裏返る。

佐伯は淡々と返す。

「客観的証拠と一致しない申告です」

「私は心配しただけ!」

「結果的に、警察力が動いています」

静かな圧。

真紀の肩が震える。

森本は、ゆっくり言う。

「終わりだ」

真紀が睨む。

「あなたは勝った気でいるでしょう」

「勝ち負けじゃない」

「じゃあ何?」

森本は答えない。

彩花と恒一が、少し離れた場所にいる。

彩花が小さく言う。

「お母さん……」

真紀は娘を見る。

その目に、初めて迷いが浮かぶ。

「私は、あなたたちを守ろうとしたの」

恒一が、低く言う。

「父さんを壊して?」

その言葉が、鋭い。

真紀の顔が歪む。

「違う!」

声が震える。

「お父さん、最近おかしかったでしょう?優先順位も、感情も……」

森本が静かに言う。

「俺は壊れていない」

真紀は、両手で顔を覆う。

肩が、小刻みに震える。

「怖かったの……」

その声は、初めて本音に近い。

「あなたが、どんどん遠くなる気がして」

廊下に、人の足音が響く。

誰も立ち止まらない。

世界は通常運転だ。

「だから権限を握ろうとしたのか」

森本の声は、低い。

真紀は涙をこぼす。

「違う……守りたかった」

「俺を施設に入れて?」

「もしものためよ!」

叫び声が、廊下に反響する。

一瞬、沈黙。

真紀は膝から崩れ落ちた。

スーツの膝が床に触れる。

冷たいタイル。

「私は……間違ってないと思ってた」

涙が、ぽたりと落ちる。

「手続きも、制度も、全部正しいって」

森本は、静かに見下ろす。

怒りは、もうない。

「正しい手続きでも、動機が歪めば暴力になる」

真紀の嗚咽が、廊下に響く。

彩花が、迷いながら近づく。

「お母さん……」

だが手は、伸びない。

恒一は立ったまま、目を伏せている。

真紀は、顔を上げる。

化粧が崩れ、目が赤い。

「資格……どうなるの?」

声が、子どものようだ。

佐伯が静かに言う。

「調査次第です」

真紀の呼吸が荒くなる。

「私、それしかないのに……」

森本の胸が、わずかに痛む。

だが言葉は、冷静だ。

「俺も、それしかなかった」

仕事。
信用。
家族。

奪われかけた。

真紀は、声を絞り出す。

「離婚、する?」

その問いは、弱い。

森本は、少しだけ間を置く。

空調の風が頬を撫でる。

遠くでエレベーターのベル。

「話は後だ」

感情を抑えた声。

真紀は、俯く。

崩壊は、派手ではない。

音もなく、
静かに、
積み上げたものが崩れる。

社会福祉士としての信用。
母としての立場。
妻としての正当性。

すべてが、ひび割れている。

森本は、ゆっくり歩き出す。

子どもたちが後に続く。

背後で、真紀の嗚咽が残る。

外に出ると、空気が冷たい。

深く吸い込む。

肺が痛い。

だが、生きている。

却下。

その二文字は、重い。

守られたものもある。
壊れたものもある。

森本は空を見上げる。

灰色の雲の隙間に、わずかに光。

戦いは終わった。

だが、物語はまだ終わらない。


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