『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第一部:夫視点(第1話~第10話)

第一話 退職の日

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第一話 退職の日

 花束というものは、こんなにも匂うものだったか。

 玄関のドアの前で、俺は一度立ち止まった。ビニールの包み越しに、百合の甘い香りがむっと鼻をつく。三月の終わり、夕方の空気はまだ冷たいのに、胸の奥だけがやけに熱い。

 鍵を差し込む指が、少しだけ震えていた。

 がちゃり、と回す。

「ただいま」

 声が思いのほか大きく響いた。誰に聞かせるでもないのに、妙に張り切った声だ。

 廊下の奥から、ぱたぱたとスリッパの音が近づく。

「おかえりなさい」

 妻が顔を出した。エプロン姿。薄い藤色のカーディガン。白い髪が、台所の蛍光灯に照らされて柔らかく光っている。

 俺は花束を持ち上げた。

「ほら。もらった」

「まあ……すごいわ」

 目を丸くして、両手を胸の前で合わせる。その仕草は、三十年前と少しも変わらない。

「重かっただろうに」

「いや、そうでもない」

 本当は軽い。思っていたより、ずっと。

 会社の玄関で、部下たちに囲まれ、拍手を浴びた。ねぎらいの言葉が次々と投げられた。「本部長、本当にお疲れさまでした」「ご指導ありがとうございました」。頭を下げるたびに、何かが自分から剥がれ落ちていくような気がした。

 それでも、俺は笑っていた。最後まで、胸を張って。

 その残り香が、まだスーツの中にこもっている。

「寒かったでしょう。先に手、洗ってきて」

「ああ」

 洗面所で蛇口をひねる。水の冷たさが、指先からじわりと伝わる。鏡に映る自分は、少しだけ老けた気がした。ネクタイを外すと、喉元が急に軽くなる。

 もう、明日から結ばなくていい。

 その事実が、胸の奥で静かに音を立てた。

 台所からは、出汁の香りが漂ってくる。昆布と鰹節の、ほっとする匂い。油のはねる小さな音。まな板に包丁が当たる、規則正しいリズム。

 いつもの夜だ。

 なのに、今日は違う。

「今日は何だ?」

 席につきながら聞くと、妻が振り向いた。

「あなたの好きな煮物。お祝いだから、少しだけ牛肉も入れたの」

「そうか」

 湯気が立ち上る。薄味だが、素材の匂いがはっきりと立っている。大根の甘い香り、にんじんの青い匂い。丁寧に面取りされた角が、つやりと光る。

 俺は箸を取った。

「……うまい」

 口に含むと、柔らかくほどける。塩は控えめなのに、物足りなさはない。三十年前、健康診断で「高血圧ですね」と言われた日のことが、ふとよぎる。

 あの日から、彼女は味を変えた。

 俺は、ただ食べてきた。

「本当に、お疲れさまでした」

 妻が、湯飲みを差し出す。湯気が、頬を撫でる。

「これからは、ゆっくりできるわね」

「ああ」

 俺は湯飲みを握った。陶器のざらりとした感触が、手のひらに心地いい。

「これからは毎日一緒だな」

 言ってから、少し照れくさくなる。こんな台詞、若いころでも言ったことがあったかどうか。

 妻は一瞬、目を伏せた。

 ほんの、わずかな間。

 すぐに笑顔に戻る。

「ええ……そうね」

 その「ええ」のあとに、ほんの小さな空白があった気がした。聞き間違いかもしれない。鍋のふたがことりと鳴った音に紛れて、消えてしまうほどの隙間だ。

「旅行、行こうな。沖縄も、北海道も。おまえが行きたいって言ってたろ」

「覚えていてくれたの?」

「当たり前だ」

 本当は、半分くらい忘れていた。だが今は、なんでもできる気がした。時間も金も、たっぷりある。俺たちは、ようやく自由になったのだ。

「ガーデニングもやろう。庭、少し整えようか」

「そうね。春だものね」

 妻はそう言って、窓の外を見た。暗くなり始めた庭に、まだ小さな芽がいくつか顔を出している。

 沈黙が落ちる。

 テレビのニュースが、どこか遠くで流れている。アナウンサーの声が、やけに他人事に聞こえる。

「……寂しくないのか?」

 不意に、口をついて出た。

「何が?」

「俺が、ずっと家にいるの」

 冗談めかしたつもりだったが、声が少しかすれた。

 妻は箸を置き、俺を見た。

「どうして寂しいの?」

「いや、その……」

 言葉が続かない。

 妻は、ふっと笑った。

「あなたがいるのは、昔からよ」

 その声は柔らかい。だが、どこか遠い。

「そうだな」

 俺は頷いた。

 窓の外で、風が枝を揺らす音がする。春はまだ浅い。夜の空気は冷たく、土は固い。

 それでも、芽は出る。

 花束の百合の香りが、食卓の上で濃くなっていく。甘く、少し息苦しいほどに。

 俺は湯飲みを持ち上げた。

 これからは、毎日一緒だ。

 その未来を、疑いもせずに。

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