3 / 25
第一部:夫視点(第1話~第10話)
第一話 退職の日
しおりを挟む
第一話 退職の日
花束というものは、こんなにも匂うものだったか。
玄関のドアの前で、俺は一度立ち止まった。ビニールの包み越しに、百合の甘い香りがむっと鼻をつく。三月の終わり、夕方の空気はまだ冷たいのに、胸の奥だけがやけに熱い。
鍵を差し込む指が、少しだけ震えていた。
がちゃり、と回す。
「ただいま」
声が思いのほか大きく響いた。誰に聞かせるでもないのに、妙に張り切った声だ。
廊下の奥から、ぱたぱたとスリッパの音が近づく。
「おかえりなさい」
妻が顔を出した。エプロン姿。薄い藤色のカーディガン。白い髪が、台所の蛍光灯に照らされて柔らかく光っている。
俺は花束を持ち上げた。
「ほら。もらった」
「まあ……すごいわ」
目を丸くして、両手を胸の前で合わせる。その仕草は、三十年前と少しも変わらない。
「重かっただろうに」
「いや、そうでもない」
本当は軽い。思っていたより、ずっと。
会社の玄関で、部下たちに囲まれ、拍手を浴びた。ねぎらいの言葉が次々と投げられた。「本部長、本当にお疲れさまでした」「ご指導ありがとうございました」。頭を下げるたびに、何かが自分から剥がれ落ちていくような気がした。
それでも、俺は笑っていた。最後まで、胸を張って。
その残り香が、まだスーツの中にこもっている。
「寒かったでしょう。先に手、洗ってきて」
「ああ」
洗面所で蛇口をひねる。水の冷たさが、指先からじわりと伝わる。鏡に映る自分は、少しだけ老けた気がした。ネクタイを外すと、喉元が急に軽くなる。
もう、明日から結ばなくていい。
その事実が、胸の奥で静かに音を立てた。
台所からは、出汁の香りが漂ってくる。昆布と鰹節の、ほっとする匂い。油のはねる小さな音。まな板に包丁が当たる、規則正しいリズム。
いつもの夜だ。
なのに、今日は違う。
「今日は何だ?」
席につきながら聞くと、妻が振り向いた。
「あなたの好きな煮物。お祝いだから、少しだけ牛肉も入れたの」
「そうか」
湯気が立ち上る。薄味だが、素材の匂いがはっきりと立っている。大根の甘い香り、にんじんの青い匂い。丁寧に面取りされた角が、つやりと光る。
俺は箸を取った。
「……うまい」
口に含むと、柔らかくほどける。塩は控えめなのに、物足りなさはない。三十年前、健康診断で「高血圧ですね」と言われた日のことが、ふとよぎる。
あの日から、彼女は味を変えた。
俺は、ただ食べてきた。
「本当に、お疲れさまでした」
妻が、湯飲みを差し出す。湯気が、頬を撫でる。
「これからは、ゆっくりできるわね」
「ああ」
俺は湯飲みを握った。陶器のざらりとした感触が、手のひらに心地いい。
「これからは毎日一緒だな」
言ってから、少し照れくさくなる。こんな台詞、若いころでも言ったことがあったかどうか。
妻は一瞬、目を伏せた。
ほんの、わずかな間。
すぐに笑顔に戻る。
「ええ……そうね」
その「ええ」のあとに、ほんの小さな空白があった気がした。聞き間違いかもしれない。鍋のふたがことりと鳴った音に紛れて、消えてしまうほどの隙間だ。
「旅行、行こうな。沖縄も、北海道も。おまえが行きたいって言ってたろ」
「覚えていてくれたの?」
「当たり前だ」
本当は、半分くらい忘れていた。だが今は、なんでもできる気がした。時間も金も、たっぷりある。俺たちは、ようやく自由になったのだ。
「ガーデニングもやろう。庭、少し整えようか」
「そうね。春だものね」
妻はそう言って、窓の外を見た。暗くなり始めた庭に、まだ小さな芽がいくつか顔を出している。
沈黙が落ちる。
テレビのニュースが、どこか遠くで流れている。アナウンサーの声が、やけに他人事に聞こえる。
「……寂しくないのか?」
不意に、口をついて出た。
「何が?」
「俺が、ずっと家にいるの」
冗談めかしたつもりだったが、声が少しかすれた。
妻は箸を置き、俺を見た。
「どうして寂しいの?」
「いや、その……」
言葉が続かない。
妻は、ふっと笑った。
「あなたがいるのは、昔からよ」
その声は柔らかい。だが、どこか遠い。
「そうだな」
俺は頷いた。
窓の外で、風が枝を揺らす音がする。春はまだ浅い。夜の空気は冷たく、土は固い。
それでも、芽は出る。
花束の百合の香りが、食卓の上で濃くなっていく。甘く、少し息苦しいほどに。
俺は湯飲みを持ち上げた。
これからは、毎日一緒だ。
その未来を、疑いもせずに。
花束というものは、こんなにも匂うものだったか。
玄関のドアの前で、俺は一度立ち止まった。ビニールの包み越しに、百合の甘い香りがむっと鼻をつく。三月の終わり、夕方の空気はまだ冷たいのに、胸の奥だけがやけに熱い。
鍵を差し込む指が、少しだけ震えていた。
がちゃり、と回す。
「ただいま」
声が思いのほか大きく響いた。誰に聞かせるでもないのに、妙に張り切った声だ。
廊下の奥から、ぱたぱたとスリッパの音が近づく。
「おかえりなさい」
妻が顔を出した。エプロン姿。薄い藤色のカーディガン。白い髪が、台所の蛍光灯に照らされて柔らかく光っている。
俺は花束を持ち上げた。
「ほら。もらった」
「まあ……すごいわ」
目を丸くして、両手を胸の前で合わせる。その仕草は、三十年前と少しも変わらない。
「重かっただろうに」
「いや、そうでもない」
本当は軽い。思っていたより、ずっと。
会社の玄関で、部下たちに囲まれ、拍手を浴びた。ねぎらいの言葉が次々と投げられた。「本部長、本当にお疲れさまでした」「ご指導ありがとうございました」。頭を下げるたびに、何かが自分から剥がれ落ちていくような気がした。
それでも、俺は笑っていた。最後まで、胸を張って。
その残り香が、まだスーツの中にこもっている。
「寒かったでしょう。先に手、洗ってきて」
「ああ」
洗面所で蛇口をひねる。水の冷たさが、指先からじわりと伝わる。鏡に映る自分は、少しだけ老けた気がした。ネクタイを外すと、喉元が急に軽くなる。
もう、明日から結ばなくていい。
その事実が、胸の奥で静かに音を立てた。
台所からは、出汁の香りが漂ってくる。昆布と鰹節の、ほっとする匂い。油のはねる小さな音。まな板に包丁が当たる、規則正しいリズム。
いつもの夜だ。
なのに、今日は違う。
「今日は何だ?」
席につきながら聞くと、妻が振り向いた。
「あなたの好きな煮物。お祝いだから、少しだけ牛肉も入れたの」
「そうか」
湯気が立ち上る。薄味だが、素材の匂いがはっきりと立っている。大根の甘い香り、にんじんの青い匂い。丁寧に面取りされた角が、つやりと光る。
俺は箸を取った。
「……うまい」
口に含むと、柔らかくほどける。塩は控えめなのに、物足りなさはない。三十年前、健康診断で「高血圧ですね」と言われた日のことが、ふとよぎる。
あの日から、彼女は味を変えた。
俺は、ただ食べてきた。
「本当に、お疲れさまでした」
妻が、湯飲みを差し出す。湯気が、頬を撫でる。
「これからは、ゆっくりできるわね」
「ああ」
俺は湯飲みを握った。陶器のざらりとした感触が、手のひらに心地いい。
「これからは毎日一緒だな」
言ってから、少し照れくさくなる。こんな台詞、若いころでも言ったことがあったかどうか。
妻は一瞬、目を伏せた。
ほんの、わずかな間。
すぐに笑顔に戻る。
「ええ……そうね」
その「ええ」のあとに、ほんの小さな空白があった気がした。聞き間違いかもしれない。鍋のふたがことりと鳴った音に紛れて、消えてしまうほどの隙間だ。
「旅行、行こうな。沖縄も、北海道も。おまえが行きたいって言ってたろ」
「覚えていてくれたの?」
「当たり前だ」
本当は、半分くらい忘れていた。だが今は、なんでもできる気がした。時間も金も、たっぷりある。俺たちは、ようやく自由になったのだ。
「ガーデニングもやろう。庭、少し整えようか」
「そうね。春だものね」
妻はそう言って、窓の外を見た。暗くなり始めた庭に、まだ小さな芽がいくつか顔を出している。
沈黙が落ちる。
テレビのニュースが、どこか遠くで流れている。アナウンサーの声が、やけに他人事に聞こえる。
「……寂しくないのか?」
不意に、口をついて出た。
「何が?」
「俺が、ずっと家にいるの」
冗談めかしたつもりだったが、声が少しかすれた。
妻は箸を置き、俺を見た。
「どうして寂しいの?」
「いや、その……」
言葉が続かない。
妻は、ふっと笑った。
「あなたがいるのは、昔からよ」
その声は柔らかい。だが、どこか遠い。
「そうだな」
俺は頷いた。
窓の外で、風が枝を揺らす音がする。春はまだ浅い。夜の空気は冷たく、土は固い。
それでも、芽は出る。
花束の百合の香りが、食卓の上で濃くなっていく。甘く、少し息苦しいほどに。
俺は湯飲みを持ち上げた。
これからは、毎日一緒だ。
その未来を、疑いもせずに。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる