『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

『草木萌動』

六十六歳、春を待つ

 

退職の日に抱えた花束は
思ったよりも軽かった。

三十年分の重さは
肩ではなく、
名刺のほうに宿っていたらしい。

 

朝、スーツを着ないというだけで
世界はこんなにも
静かになるのか。

湯気の立つ味噌汁の向こうで
妻が笑う。

その笑顔を
守ってきたつもりだった。

 

五年目の健康診断。
高血圧。高脂肪。

「食事に気をつけてください」

あの日から
塩は少しずつ減り、
出汁は深くなり、
野菜は母の教え通り
同じ大きさに切り揃えられた。

むらなく火を入れる。
むらなく、愛を通す。

俺はただ
「うまい」と言っていた。

 

料理教室で
包丁を握り直した。

褒められた。
拍手をもらった。

久しぶりに
名前で呼ばれた。

その帰り道、
自分が少し若返った気がした。

 

「その切り方は違うよ」

軽いひと言だった。
塩よりも、ずっと強い。

 

片付けは彼女。
食器も、油も、
俺の自尊心の後始末も。

 

気づけば
台所で天下を取ったつもりでいた。

だが
城だと思っていた場所は
彼女の庭だったのだ。

 

沖縄の海で
彼女は泣いた。

「なんでもない」

波の音が
俺の問いをさらっていった。

 

「離婚はしません。でも、別居します」

その言葉は
冬の土のように固かった。

 

小さなアパートの窓辺で
彼女は
一人分の味噌汁を温める。

出汁の香りが
彼女自身を抱きしめる。

 

庭に芽が出ている。

誰に褒められなくても
誰に評価されなくても
草は芽吹く。

 

俺は
一人で煮物を作る。

乱切り。
不揃い。
火の通りもまばら。

それでも
湯気の向こうに
三十年分の時間が立ちのぼる。

 

薄味とは
我慢ではなかった。

思いやりの
濃度だったのだ。

 

メールを書く。

「今日、煮物を作った」

しばらくして
短い返事が届く。

「春ですね」

 

離れても
同じ空の下で
同じ季節を待つ。

 

草木萌動。

土の下で
長く、静かに
耐えていたものだけが

やがて
やわらかな緑になる。

24h.ポイント 547pt
0
小説 2,900 位 / 218,338件 現代文学 13 位 / 9,104件

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

王子様への置き手紙

あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯ 小説家になろうにも掲載しています。

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。