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第二部:妻視点(第11話~第20話)
第12話 母の包丁
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第12話 母の包丁
「包丁はね、怒って握るもんじゃないのよ」
母はそう言って、私の手の上から自分の手を重ねた。
春先の台所はまだ冷えていて、板の間からしんとした寒さが立ち上る。
まな板の上に置かれた人参が、橙色の光を鈍く返している。
土の匂い。少し湿った、甘い匂い。
「ほら、力で押さないの。刃の重みを信じなさい」
とん、とん、とん。
一定のリズム。
母の包丁は迷いがなかった。
切り口は、つややかで、なめらかで、まるで呼吸をしているみたいだった。
「乱切りはね、手を抜いてるんじゃないのよ」
「え?」
「火の入り方を揃えるの。面を変えて切るでしょ? そうすると、どこから煮ても同じだけ味がしみるの」
私は黙ってうなずいた。
けれど、そのときは正直、よくわからなかった。
煮物なんて、味がつけば同じだと思っていた。
母は醤油をひと垂らしして、鍋の中をかき混ぜる。
ふわっと湯気が立ち上る。
甘い出汁の匂いが、鼻の奥をくすぐる。
「味はね、濃ければいいってもんじゃないの」
「どうして?」
「薄くしても、おいしいって言ってもらえたら、それが一番なの」
母は笑った。
その笑顔は、どこか誇らしげで、でも静かだった。
---
あの日から三十年。
私は、ずっと乱切りをしてきた。
人参も、大根も、里芋も。
夫の血圧が上がったと医者に言われた日から、塩をひとつまみ減らした。
「最近、味がぼやけてるな」
そう言われた日の夜、私は台所でひとり、鍋の前に立ち尽くした。
ぼやけている?
湯気が目に染みる。
違う。涙だ。
出汁を変えた。
昆布を増やした。
かつお節を厚削りにした。
舌に触れる瞬間はやわらかく、あとからじんわり広がるように。
「うん、まあ悪くないな」
その一言で、また翌日も立てた。
包丁を握るとき、私は母の手の重みを思い出す。
刃の重みを信じる。
「あなた、最近ちょっと痩せた?」
ある晩、私が言うと、夫は新聞から目を上げずに答えた。
「そうか? 運動してるからな」
違う。
油を減らしたから。
揚げ物の回数を半分にしたから。
夜の味噌汁を具だくさんにしたから。
言わなかった。
言わなくてもいいと思っていた。
それが、夫婦だと思っていた。
---
退職後、夫が台所に入るようになった日のことを覚えている。
「今日は俺がやる」
エプロン姿が少しぎこちなくて、私は笑ってしまった。
「包丁、重いでしょう?」
「馬鹿にするな。俺だって料理教室で褒められてるんだ」
その声には、どこか少年のような響きがあった。
私は、少しうれしかった。
けれど。
「その切り方だと味が染みないよ」
手を止めた。
包丁の刃先が、まな板に軽く当たって、かちん、と乾いた音がした。
「そう?」
私は笑った。
笑ったけれど、指先が冷えた。
味が染みない。
私は三十年、何を染み込ませてきたのだろう。
出汁の匂い。
醤油の色。
火加減。
夫の体調。
その日の機嫌。
「ぼやけてるな」
あの言葉と、同じ響き。
私はその晩、乱切りをしなかった。
全部、同じ大きさに揃えて切った。
火の入りは均一だった。
味も、計算通りだった。
でも、鍋の中は、どこか冷たかった。
---
料理教室で、講師が私の煮物を口にしたとき。
「優しい味ですね」
私は、思わず息を止めた。
優しい。
その言葉は、熱い出汁みたいに胸に広がった。
「どなたかのために、ずっと作ってきた味でしょう?」
「……はい」
声が震えた。
「ちゃんと、染みていますよ」
染みている。
私は初めて、自分の手を見た。
節くれ立った指。
小さな火傷の跡。
薄くなった爪。
この手は、守ってきたのだ。
血圧を。
体重を。
明日の体調を。
生きている時間を。
母の声が、ふいに蘇る。
「薄くしても、おいしいって言ってもらえたら、それが一番なの」
私は、ずっと待っていたのかもしれない。
その一言を。
鍋の中で、里芋が静かに揺れる。
とろり、と煮崩れずに。
乱切りは、手抜きじゃない。
面を変え、角度を変え、熱の当たり方を計算する。
見えないところで、均一にする。
私は、そうやって生きてきた。
夫は、知らない。
知らなくていいと思っていた。
でも。
包丁を握るたび、私は思う。
母の手の温もり。
刃の重み。
湯気の向こうにある、誰かの命。
「味がぼやけてるな」
その言葉は、まだ胸の奥に残っている。
けれど今、私は知っている。
ぼやけていたのは、味ではない。
私の存在だったのだと。
とん、とん、とん。
包丁の音が、台所に響く。
一定のリズム。
迷いのない音。
私は、母の娘だ。
「包丁はね、怒って握るもんじゃないのよ」
母はそう言って、私の手の上から自分の手を重ねた。
春先の台所はまだ冷えていて、板の間からしんとした寒さが立ち上る。
まな板の上に置かれた人参が、橙色の光を鈍く返している。
土の匂い。少し湿った、甘い匂い。
「ほら、力で押さないの。刃の重みを信じなさい」
とん、とん、とん。
一定のリズム。
母の包丁は迷いがなかった。
切り口は、つややかで、なめらかで、まるで呼吸をしているみたいだった。
「乱切りはね、手を抜いてるんじゃないのよ」
「え?」
「火の入り方を揃えるの。面を変えて切るでしょ? そうすると、どこから煮ても同じだけ味がしみるの」
私は黙ってうなずいた。
けれど、そのときは正直、よくわからなかった。
煮物なんて、味がつけば同じだと思っていた。
母は醤油をひと垂らしして、鍋の中をかき混ぜる。
ふわっと湯気が立ち上る。
甘い出汁の匂いが、鼻の奥をくすぐる。
「味はね、濃ければいいってもんじゃないの」
「どうして?」
「薄くしても、おいしいって言ってもらえたら、それが一番なの」
母は笑った。
その笑顔は、どこか誇らしげで、でも静かだった。
---
あの日から三十年。
私は、ずっと乱切りをしてきた。
人参も、大根も、里芋も。
夫の血圧が上がったと医者に言われた日から、塩をひとつまみ減らした。
「最近、味がぼやけてるな」
そう言われた日の夜、私は台所でひとり、鍋の前に立ち尽くした。
ぼやけている?
湯気が目に染みる。
違う。涙だ。
出汁を変えた。
昆布を増やした。
かつお節を厚削りにした。
舌に触れる瞬間はやわらかく、あとからじんわり広がるように。
「うん、まあ悪くないな」
その一言で、また翌日も立てた。
包丁を握るとき、私は母の手の重みを思い出す。
刃の重みを信じる。
「あなた、最近ちょっと痩せた?」
ある晩、私が言うと、夫は新聞から目を上げずに答えた。
「そうか? 運動してるからな」
違う。
油を減らしたから。
揚げ物の回数を半分にしたから。
夜の味噌汁を具だくさんにしたから。
言わなかった。
言わなくてもいいと思っていた。
それが、夫婦だと思っていた。
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退職後、夫が台所に入るようになった日のことを覚えている。
「今日は俺がやる」
エプロン姿が少しぎこちなくて、私は笑ってしまった。
「包丁、重いでしょう?」
「馬鹿にするな。俺だって料理教室で褒められてるんだ」
その声には、どこか少年のような響きがあった。
私は、少しうれしかった。
けれど。
「その切り方だと味が染みないよ」
手を止めた。
包丁の刃先が、まな板に軽く当たって、かちん、と乾いた音がした。
「そう?」
私は笑った。
笑ったけれど、指先が冷えた。
味が染みない。
私は三十年、何を染み込ませてきたのだろう。
出汁の匂い。
醤油の色。
火加減。
夫の体調。
その日の機嫌。
「ぼやけてるな」
あの言葉と、同じ響き。
私はその晩、乱切りをしなかった。
全部、同じ大きさに揃えて切った。
火の入りは均一だった。
味も、計算通りだった。
でも、鍋の中は、どこか冷たかった。
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料理教室で、講師が私の煮物を口にしたとき。
「優しい味ですね」
私は、思わず息を止めた。
優しい。
その言葉は、熱い出汁みたいに胸に広がった。
「どなたかのために、ずっと作ってきた味でしょう?」
「……はい」
声が震えた。
「ちゃんと、染みていますよ」
染みている。
私は初めて、自分の手を見た。
節くれ立った指。
小さな火傷の跡。
薄くなった爪。
この手は、守ってきたのだ。
血圧を。
体重を。
明日の体調を。
生きている時間を。
母の声が、ふいに蘇る。
「薄くしても、おいしいって言ってもらえたら、それが一番なの」
私は、ずっと待っていたのかもしれない。
その一言を。
鍋の中で、里芋が静かに揺れる。
とろり、と煮崩れずに。
乱切りは、手抜きじゃない。
面を変え、角度を変え、熱の当たり方を計算する。
見えないところで、均一にする。
私は、そうやって生きてきた。
夫は、知らない。
知らなくていいと思っていた。
でも。
包丁を握るたび、私は思う。
母の手の温もり。
刃の重み。
湯気の向こうにある、誰かの命。
「味がぼやけてるな」
その言葉は、まだ胸の奥に残っている。
けれど今、私は知っている。
ぼやけていたのは、味ではない。
私の存在だったのだと。
とん、とん、とん。
包丁の音が、台所に響く。
一定のリズム。
迷いのない音。
私は、母の娘だ。
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