『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第二部:妻視点(第11話~第20話)

第11話 五年目の診断

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第11話 五年目の診断

「血圧、少し高いですね」

白い壁。白い天井。消毒液の匂いが、鼻の奥をつんと刺した。
カーテンの向こうで誰かが咳をしている。冬の終わりの乾いた咳。

「少し、ですか?」

夫が笑う。営業時代の顔だ。柔らかく、相手に否定させない笑み。

医師はモニターを見たまま、淡々と言った。

「上が一六〇、下が九十八。中性脂肪も高い。五年前より確実に上がっていますね」

キーボードを打つ音が、やけに冷たく響いた。

「まあ、仕事柄ね。付き合いも多くて」

「もう退職されていますよね?」

一瞬、空気が止まる。

夫の喉が小さく鳴った。

「ええ、まあ……」

私は隣の丸椅子に座っていた。膝の上で指を組み、爪が白くなるほど力を入れていることに、そのとき初めて気づいた。

医師がこちらを向く。

「奥さま、普段のお食事は?」

「……はい。家で作っています」

「塩分は控えめに。油も減らす。できれば運動も」

「運動はしてるよ、なあ?」

夫が私を見る。助けを求めるように。

「……していません」

私は静かに答えた。

診察室を出ると、待合室のストーブがごうごうと鳴っていた。
外は冷たい風。自動ドアが開くたび、白い光が差し込む。

夫が小さく舌打ちする。

「大げさだよ。あの医者は」

「数値、上がっていました」

「機械の誤差だろう」

私は何も言わなかった。
言葉を選べば選ぶほど、胸の奥がざらつく。

帰り道、商店街の八百屋に寄った。
白菜を半玉。大根一本。春菊。人参。

「今日は鍋か?」

「ええ」

夫はうれしそうに言った。

「味、濃いめで頼むよ」

私は笑わなかった。

その夜、台所の換気扇の音がやけに大きく感じた。
包丁がまな板を叩く音。とん、とん、とん。

大根を薄く切る。
いつもより、ほんの少しだけ薄く。

昆布を水に沈める。
静かに、ゆっくりと旨味を引き出す。

味噌を溶く。
指先で量を測る。いつもの三分の二。

「まだできないのか?」

リビングから声が飛ぶ。

「もう少しです」

鍋が煮立つ。湯気が立ちのぼり、眼鏡が曇る。
その向こうに、五年前の診察室が重なる。

——このままだと、十年後が心配ですね。

医師の声が、鍋の泡と一緒に浮かび上がる。

食卓に鍋を置く。
蓋を取ると、白い湯気がふわりと広がった。

「いただきます」

夫は一口すすり、眉をひそめた。

「……薄くないか?」

箸が止まる。

「医者、塩分控えろって言ってただろ」

「でも、これは味がぼやけてる」

その言葉が、胸の奥に沈む。
音もなく、重く。

「身体のためです」

「楽しみまで減らしてどうする」

夫は七味を振りかける。赤い粉が、湯気の中で舞う。

私は味噌汁を口に運んだ。
確かに、優しい味だった。
けれど、昆布の甘みも、野菜の香りも、ちゃんとある。

「物足りないなら、出汁を増やします」

「いや、いいよ。俺が足す」

“俺が足す”。

その一言が、なぜか胸に刺さった。

夜、布団に入ると、夫はすぐに寝息を立てた。
私は天井を見つめる。

医師の声。数値。白い壁。

——五年後、十年後。

その時間の中に、私はいるのだろうか。

翌朝、味噌の量をさらに減らした。
醤油を一滴、垂らす代わりに、干し椎茸を戻した。

「また薄い」

「慣れます」

「慣れたくないね」

その言葉に、思わず振り返る。

「どうして?」

「味は楽しみだろ。老後の」

老後。

その言葉が、台所の床に落ちる。

私は包丁を置いた。

「老後って、いつからですか?」

「は?」

「今ですか? それとも、もっと先?」

夫は答えない。

湯気が二人の間に立ち上る。

私はその日から、ノートをつけ始めた。
血圧の数値。体重。食事内容。塩分量。

朝の光の色。
夫の顔色。
箸の進み具合。

「研究者みたいだな」

夫が笑う。

「命の、です」

私も笑った。
けれど、胸の奥は静かに冷えていた。

五年目の診断は、数字の話ではなかった。

あの日、診察室で初めて思ったのだ。

——この人は、自分の体を自分で守らない。

ならば、私が守るしかない。

でも。

守るって、何だろう。

味を薄くすること?
塩を減らすこと?
それとも——

ある晩、夫がぽつりと言った。

「最近、味が変わったな」

「そうですか?」

「昔のほうが、うまかった」

私は手を止める。

「昔は、健康でした」

夫は黙る。

鍋の中で、豆腐がふるりと揺れた。

湯気の向こうに、見えない未来がある。

高血圧。脂質異常。
言葉にすれば簡単な病名。

けれどその裏に、倒れる姿がよぎる。
救急車のサイレン。
白いシーツ。

私は首を振った。

「食べてください」

「はいはい」

軽い返事。

私は味噌汁を口に含む。
ぬるくなった出汁の中に、かすかな甘みが残っている。

薄い味。
けれど、確かに、積み重ねた時間の味。

五年目の診断の日から、私は塩を減らした。

夫は知らない。

その一匙ごとに、
私は未来を伸ばしているつもりだったことを。

湯気が消え、食卓が静かになる。

私は鍋を見つめながら、そっとつぶやく。

「生きてください」

夫は聞こえなかったふりをしたのか、本当に聞こえなかったのか、
何も答えなかった。

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