『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第二部:妻視点(第11話~第20話)

第13話 食卓の誇り

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第13話 食卓の誇り

味噌汁の湯気が、白く立ちのぼる。

昆布を引き上げるときの、ぬるりとした感触。
かつお節を沈めた瞬間の、ふわりと広がる香り。
鍋の縁を伝う小さな泡が、ぷつ、ぷつ、と静かに弾ける。

「今日は寒かった?」

背中越しにそう聞くと、玄関のほうから革靴を脱ぐ音がした。

「ああ。底冷えだな」

ネクタイを緩める気配。
スーツの布が擦れる乾いた音。
私は火を止め、椀を二つ並べる。

味噌は、ほんの少し控えめ。
その代わり、出汁を濃く。

「ただいま」

「おかえりなさい」

このやりとりだけで、台所の空気が少しやわらぐ。

食卓に湯気が集まる。
焼き魚の皮がぱちりと弾け、甘い脂の匂いが広がる。
大根の煮物は、箸を入れるとすっと崩れるくらいに柔らかい。

「今日は鯖か」

「脂、のってたの」

夫は箸を取り、まず味噌汁をすする。

その一瞬が、いつも長い。

湯気の向こうで、目が細くなる。

「……うん」

それから、少し間があって。

「うまい」

胸の奥に、じんわりと熱が広がる。

私は何も言わず、湯のみを持つ。
緑茶の香りが、ほっと鼻に抜ける。

「味噌、変えたか?」

「気づいた?」

「いつもより香りがいい」

私は小さく笑う。
気づいてくれた。
それだけで、今日一日が報われる。

洗濯物を取り込んだ腕のだるさも、
買い物袋の重みも、
夕方の値引きシールを待つ時間も、
ぜんぶ、湯気の中で溶けていく。

「この大根、どうやってるんだ?」

「下茹でしてから、弱火でね」

「へえ。だから染みてるのか」

染みている。

その言葉が、舌より先に心に届く。

私は、ただ食べてもらうだけでは足りなかったのだと、あとになって知った。
“ちゃんと届いている”と感じる瞬間が欲しかった。

ある晩、夫がいつもより遅く帰ってきた。

「悪い、会食で軽く食べてきた」

テーブルの上には、湯気を失った煮物と、冷めた味噌汁。

「そう」

自分の声が、少し遠い。

それでも私は椀を温め直す。
鍋に火を入れ、出汁の香りをもう一度立ち上らせる。

「少しだけ食べるよ」

そう言って箸をつけた夫が、ぽつりとつぶやく。

「やっぱり家の味が落ち着くな」

その一言で、胸がほどけた。

落ち着く。

私は、彼の帰る場所でいたかった。

味は、主張しない。
舌の上で静かに広がり、飲み込まれていく。
でも体のどこかに、確かに残る。

それがうれしかった。

休日の昼、私は台所で卵焼きを焼く。

じゅわ、と甘い匂い。
油が薄く広がる音。
巻き簾で形を整え、端を切り落とす。

「今日は甘め?」

後ろから覗き込む夫に、私は笑う。

「少しだけ」

「いいな。俺はこれが一番好きだ」

好き。

その言葉は、どんな調味料より効いた。

私は、料理が得意なわけではなかった。
ただ、失敗を重ねただけだ。

塩を入れすぎた日。
焦がした日。
味が決まらず、夜中にひとり台所で泣いた日。

「大丈夫だよ」

そう言ってくれたのは、まだ若かった夫だった。

「次はうまくいくさ」

その声に背中を押され、私はまた包丁を握った。

いつしか、食卓は私の居場所になった。

皿の配置。
湯気の立ち方。
箸の音。

すべてが、私の呼吸だった。

「おいしい」

その一言があれば、十分だった。

それが、夫婦だと思っていた。

でも、ある日。

「最近、味が薄いな」

その言葉は、皿の上に落ちた小さな砂粒のようだった。

噛むたび、ざらりとした違和感が残る。

「そう?」

私は笑った。
いつものように。

けれど、その夜の味噌汁は、自分でも味がわからなかった。

湯気は立っている。
出汁も引いている。
なのに、胸の奥がひやりとする。

次の日も、私は同じように作った。

昆布を浸し、火を入れ、灰汁を取る。
乱切りにした人参が、ころりと鍋の中で転がる。

「うん、まあ悪くない」

まあ。

その言葉は、少し冷たい。

私は箸を置き、指先を見つめた。
小さな火傷の跡。
包丁でできた薄い傷。

この手は、ずっと食卓を守ってきた。

「おいしい」の一言で、私は生きていた。

それが誇りだった。

誇りは、声に出さない。
でも確かにそこにある。

湯気の向こうで、夫がご飯をかき込む。
味噌汁をすする。
箸が皿に触れる、かすかな音。

私は、その音を聞きながら、静かに思う。

今日も届いた、と。

たった一言。

「おいしい」

それだけで、私は報われていた。

それが、夫婦だった。

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