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第二部:妻視点(第11話~第20話)
第14話 退職後の侵入
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第14話 退職後の侵入
「ただいま、じゃなくて――」
玄関から明るい声がした。
「今日からずっと、いるぞ」
私は手にしていた包丁を止めた。
まな板の上で、玉ねぎが半分に割れたまま、つやりと光る。
「そうね」
言いながら、指先に沁みる玉ねぎの刺激をこらえる。
春先の台所は、まだ少し冷えている。
窓の外では、風が物干し竿をかすかに鳴らしていた。
夫は背広を脱ぎ、ハンガーにかける音を大げさに立てる。
「いやあ、肩の荷が下りた」
ネクタイを放り、私の隣に立つ。
石鹸と整髪料が混ざった匂いが、ふっと近づく。
「今日は何だ?」
「肉じゃが」
「ほう。俺の好物だな」
その声が、どこか少年のようで、私は少し笑った。
「じゃあ、今日は俺が手伝おう」
「え?」
「料理教室で習ったんだ。基本は押さえてる」
夫は袖をまくり、私の横に並ぶ。
シンクの前に、二人分の影が重なる。
「包丁、貸してくれ」
その手つきは、思ったより慎重だった。
人参をつかみ、少し迷ってから切り始める。
とん、とん、とん。
リズムがぎこちない。
刃がまな板に当たる音が、わずかに強い。
「乱切りはね――」
思わず口に出すと、夫が振り向く。
「知ってる。面を変えて、火の入りを揃えるんだろ?」
「そう」
「講師が言ってた」
誇らしげな顔。
私はうなずく。
「上手よ」
その言葉に、夫は少し照れたように笑う。
鍋に油を落とす。
じゅわ、と音が広がる。
肉の脂が溶け、甘い匂いが立ち上る。
「おお、いい音だ」
夫は身を乗り出す。
「火、強すぎるかしら」
「大丈夫だよ、俺に任せろ」
鍋をかき混ぜる手が、どこか力強い。
具材がぶつかり、金属の音が響く。
最初は、楽しかった。
「これからは、毎日一緒だな」
食卓でそう言われたとき、私は素直にうれしかった。
湯気の向こうで、夫の目がやわらいでいたから。
二人で並んで台所に立つ。
そんな日が来るなんて、若いころには想像もしなかった。
「味見してくれ」
差し出された小皿から、湯気がのぼる。
じゃがいもを口に含む。
少し濃い。
でも私は笑う。
「おいしい」
夫の顔がぱっと明るくなる。
「だろ?」
その表情を見て、胸があたたかくなった。
けれど。
日が経つにつれ、台所の空気は少しずつ変わった。
「その切り方だと味が染みないよ」
ある日の夕方。
私は大根を切っていた。
「え?」
「もっと面を大きくしないと」
包丁を持つ私の手に、夫の視線が落ちる。
「料理教室でな、基本を叩き込まれたんだ」
叩き込まれた。
その言葉が、耳に残る。
「そうなの」
私は笑った。
けれど、まな板の上の大根が、急に重く感じる。
「火加減もさ、弱すぎると味がぼやける」
ぼやける。
鍋の中で、湯気が揺れる。
出汁の匂いが、いつもより遠い。
「俺がやろうか?」
夫は自然な顔で言う。
善意だとわかる。
「お願い」
そう言って、私は一歩下がる。
コンロの前に立つのは、夫。
私はシンク側。
立ち位置が、逆になる。
「ほら、こうやって」
鍋を揺らす手つきが大きい。
具材がぶつかり、汁が跳ねる。
「大胆にやらないと」
大胆。
私は、静かに染み込ませてきた。
弱火で、ゆっくり。
時間をかけて。
「後片付け、頼むな」
振り返りもせず、夫が言う。
「うん」
シンクに重ねられた鍋。
油の膜。
ぬるりとした感触が、指に残る。
最初は、うれしかった。
一緒に台所に立つこと。
同じ匂いを吸うこと。
同じ湯気に包まれること。
でも。
そこは、私の城だった。
朝の光の入り方も、
棚の調味料の並びも、
包丁の重みも。
全部、私の呼吸で整えてきた場所。
「今日から、俺がメインでやろうかな」
ある日、夫が笑った。
「時間もあるしな」
私は一瞬、言葉を失う。
「……そうね」
胸の奥で、小さな音がする。
ひびの入る音。
「お前も楽になるだろ?」
楽。
私は楽を求めていたのだろうか。
湯気の向こうで、夫が誇らしげに立つ。
その背中が、やけに大きい。
私は、鍋の蓋を閉じる。
かたん、と小さな音が響く。
台所に、二人分の気配。
けれど私の足元が、少し揺らいでいる。
最初は、うれしかった。
本当に。
でも、気づいてしまった。
ここは、私が三十年かけて築いた城だった。
城門が、静かに開いた。
誰も攻めていない。
誰も奪おうとしていない。
それでも。
私は、玉ねぎを切りながら、そっと思う。
この場所で、私は王だったのだと。
涙は、玉ねぎのせいだけではなかった。
「ただいま、じゃなくて――」
玄関から明るい声がした。
「今日からずっと、いるぞ」
私は手にしていた包丁を止めた。
まな板の上で、玉ねぎが半分に割れたまま、つやりと光る。
「そうね」
言いながら、指先に沁みる玉ねぎの刺激をこらえる。
春先の台所は、まだ少し冷えている。
窓の外では、風が物干し竿をかすかに鳴らしていた。
夫は背広を脱ぎ、ハンガーにかける音を大げさに立てる。
「いやあ、肩の荷が下りた」
ネクタイを放り、私の隣に立つ。
石鹸と整髪料が混ざった匂いが、ふっと近づく。
「今日は何だ?」
「肉じゃが」
「ほう。俺の好物だな」
その声が、どこか少年のようで、私は少し笑った。
「じゃあ、今日は俺が手伝おう」
「え?」
「料理教室で習ったんだ。基本は押さえてる」
夫は袖をまくり、私の横に並ぶ。
シンクの前に、二人分の影が重なる。
「包丁、貸してくれ」
その手つきは、思ったより慎重だった。
人参をつかみ、少し迷ってから切り始める。
とん、とん、とん。
リズムがぎこちない。
刃がまな板に当たる音が、わずかに強い。
「乱切りはね――」
思わず口に出すと、夫が振り向く。
「知ってる。面を変えて、火の入りを揃えるんだろ?」
「そう」
「講師が言ってた」
誇らしげな顔。
私はうなずく。
「上手よ」
その言葉に、夫は少し照れたように笑う。
鍋に油を落とす。
じゅわ、と音が広がる。
肉の脂が溶け、甘い匂いが立ち上る。
「おお、いい音だ」
夫は身を乗り出す。
「火、強すぎるかしら」
「大丈夫だよ、俺に任せろ」
鍋をかき混ぜる手が、どこか力強い。
具材がぶつかり、金属の音が響く。
最初は、楽しかった。
「これからは、毎日一緒だな」
食卓でそう言われたとき、私は素直にうれしかった。
湯気の向こうで、夫の目がやわらいでいたから。
二人で並んで台所に立つ。
そんな日が来るなんて、若いころには想像もしなかった。
「味見してくれ」
差し出された小皿から、湯気がのぼる。
じゃがいもを口に含む。
少し濃い。
でも私は笑う。
「おいしい」
夫の顔がぱっと明るくなる。
「だろ?」
その表情を見て、胸があたたかくなった。
けれど。
日が経つにつれ、台所の空気は少しずつ変わった。
「その切り方だと味が染みないよ」
ある日の夕方。
私は大根を切っていた。
「え?」
「もっと面を大きくしないと」
包丁を持つ私の手に、夫の視線が落ちる。
「料理教室でな、基本を叩き込まれたんだ」
叩き込まれた。
その言葉が、耳に残る。
「そうなの」
私は笑った。
けれど、まな板の上の大根が、急に重く感じる。
「火加減もさ、弱すぎると味がぼやける」
ぼやける。
鍋の中で、湯気が揺れる。
出汁の匂いが、いつもより遠い。
「俺がやろうか?」
夫は自然な顔で言う。
善意だとわかる。
「お願い」
そう言って、私は一歩下がる。
コンロの前に立つのは、夫。
私はシンク側。
立ち位置が、逆になる。
「ほら、こうやって」
鍋を揺らす手つきが大きい。
具材がぶつかり、汁が跳ねる。
「大胆にやらないと」
大胆。
私は、静かに染み込ませてきた。
弱火で、ゆっくり。
時間をかけて。
「後片付け、頼むな」
振り返りもせず、夫が言う。
「うん」
シンクに重ねられた鍋。
油の膜。
ぬるりとした感触が、指に残る。
最初は、うれしかった。
一緒に台所に立つこと。
同じ匂いを吸うこと。
同じ湯気に包まれること。
でも。
そこは、私の城だった。
朝の光の入り方も、
棚の調味料の並びも、
包丁の重みも。
全部、私の呼吸で整えてきた場所。
「今日から、俺がメインでやろうかな」
ある日、夫が笑った。
「時間もあるしな」
私は一瞬、言葉を失う。
「……そうね」
胸の奥で、小さな音がする。
ひびの入る音。
「お前も楽になるだろ?」
楽。
私は楽を求めていたのだろうか。
湯気の向こうで、夫が誇らしげに立つ。
その背中が、やけに大きい。
私は、鍋の蓋を閉じる。
かたん、と小さな音が響く。
台所に、二人分の気配。
けれど私の足元が、少し揺らいでいる。
最初は、うれしかった。
本当に。
でも、気づいてしまった。
ここは、私が三十年かけて築いた城だった。
城門が、静かに開いた。
誰も攻めていない。
誰も奪おうとしていない。
それでも。
私は、玉ねぎを切りながら、そっと思う。
この場所で、私は王だったのだと。
涙は、玉ねぎのせいだけではなかった。
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