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第一部:夫視点(第1話~第10話)
第五話 天下を取る
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第五話 天下を取る
「今日は俺がやる」
エプロンの紐をぎゅっと結びながら、俺は宣言した。
妻が振り向く。
「本気なの?」
「もちろん。教室で復習してきたんだ。今日は鶏の照り焼きと、付け合わせの煮物。段取りも完璧だ」
冷蔵庫から鶏もも肉を取り出す。手のひらにずしりと重い。皮のぬめりが指にまとわりつく。まな板に置くと、どん、と低い音がした。
「危なくないようにね」
「子どもじゃない」
包丁を握る。刃が肉に入る感触が、指先に伝わる。皮を下にして、余分な脂を落とす。教室で言われた通りだ。
「火加減は中火から強火。最初に皮をぱりっとさせる」
「はいはい、本部長さん」
「その呼び方やめろ」
だが、悪い気はしない。
フライパンに油をひく。じゅう、と肉が焼ける音。脂の匂いが一気に立ち上る。醤油とみりんを合わせたタレを回し入れると、甘い香りが広がる。
「ほら、いい色だろ」
照りが出てきた肉を、妻に見せる。
「きれいね」
「だろ? 火入れが大事なんだ」
俺は誇らしかった。台所の主導権を握っている感覚。鍋の位置も、調味料の順番も、すべて俺の指示で動く。
「煮物もやるから、材料出しといて」
「はい」
妻が野菜を出す。にんじん、大根、こんにゃく。三十年、彼女が切ってきた野菜たちだ。
「今日は乱切りな」
「ええ」
包丁を入れる。斜めに、回して、また斜めに。断面が光る。自分の切り方の方が理にかなっていると、疑いもなく思う。
「ほら、こっちの方が味が入る」
「そうね」
妻は横で洗い物を始める。水の音が、さらさらと続く。
「味見してみて」
煮汁をすくって差し出す。
妻は口に含み、少し考える。
「少し、濃いかしら」
「そうか? これくらいの方が締まる」
「あなたが作るなら、そうなるわね」
「何だよ、それ」
「ううん、何でもない」
笑う。けれど、笑みの奥が静かだ。
料理が出来上がる。食卓に並べると、色合いが鮮やかだ。照り焼きの艶。乱切りの野菜の立体感。
「どうだ」
俺は胸を張る。
「すごいわね。見た目は、レストランみたい」
「見た目“は”?」
「味もよ」
箸を伸ばす妻。ひと口食べる。
「……どうだ?」
「おいしい」
その一言に、胸がふくらむ。
「だろ?」
自分でも口に入れる。濃い。甘辛い。パンチがある。舌に強く残る。
「やっぱり、俺の方がメリハリがある」
「そうね」
妻は静かに頷く。
食事が終わる。
「ごちそうさま」
「どうだった?」
「頑張ったわね」
「頑張った、じゃなくて、良かっただろ?」
「ええ。あなたが楽しそうで」
その言葉が、少し引っかかる。
「楽しそう?」
「うん。目がね、きらきらしてる」
「そりゃそうだ。新しい挑戦だからな」
俺は椅子にもたれかかる。満腹感と達成感が混ざる。
「挑戦って、いいものよね」
「だろ? まだまだやれる」
立ち上がり、リビングへ向かう。
背後で、食器の重なる音がする。
「……あれ?」
振り向く。
「洗い物は?」
妻がシンクに立っている。
「俺、今日は作ったからさ」
「そうね」
「挑戦したんだし」
「ええ」
水が流れる。皿に泡が広がる。スポンジがこすれる音。
俺はテレビをつける。ニュースの音が部屋に広がる。
「油、結構はねてるわね」
妻の声がする。
「そうか?」
「コンロの周り、あとで拭いておくわ」
「悪いな」
「いいのよ。慣れてるから」
また、その言葉。
慣れてる。
俺は、挑戦している側だ。新しいことを始め、学び、上達している。彼女は、慣れている側だ。長年やってきたことを、ただ続けている。
そう、思っている。
「次はもっとすごいの作るぞ」
「楽しみにしてる」
水音が止まる。布巾で皿を拭く音。
俺はリモコンを握りながら、満足感に浸っていた。
台所の小さな背中が、ほんの少しだけ、遠くなっていることに、まだ気づかないまま。
「今日は俺がやる」
エプロンの紐をぎゅっと結びながら、俺は宣言した。
妻が振り向く。
「本気なの?」
「もちろん。教室で復習してきたんだ。今日は鶏の照り焼きと、付け合わせの煮物。段取りも完璧だ」
冷蔵庫から鶏もも肉を取り出す。手のひらにずしりと重い。皮のぬめりが指にまとわりつく。まな板に置くと、どん、と低い音がした。
「危なくないようにね」
「子どもじゃない」
包丁を握る。刃が肉に入る感触が、指先に伝わる。皮を下にして、余分な脂を落とす。教室で言われた通りだ。
「火加減は中火から強火。最初に皮をぱりっとさせる」
「はいはい、本部長さん」
「その呼び方やめろ」
だが、悪い気はしない。
フライパンに油をひく。じゅう、と肉が焼ける音。脂の匂いが一気に立ち上る。醤油とみりんを合わせたタレを回し入れると、甘い香りが広がる。
「ほら、いい色だろ」
照りが出てきた肉を、妻に見せる。
「きれいね」
「だろ? 火入れが大事なんだ」
俺は誇らしかった。台所の主導権を握っている感覚。鍋の位置も、調味料の順番も、すべて俺の指示で動く。
「煮物もやるから、材料出しといて」
「はい」
妻が野菜を出す。にんじん、大根、こんにゃく。三十年、彼女が切ってきた野菜たちだ。
「今日は乱切りな」
「ええ」
包丁を入れる。斜めに、回して、また斜めに。断面が光る。自分の切り方の方が理にかなっていると、疑いもなく思う。
「ほら、こっちの方が味が入る」
「そうね」
妻は横で洗い物を始める。水の音が、さらさらと続く。
「味見してみて」
煮汁をすくって差し出す。
妻は口に含み、少し考える。
「少し、濃いかしら」
「そうか? これくらいの方が締まる」
「あなたが作るなら、そうなるわね」
「何だよ、それ」
「ううん、何でもない」
笑う。けれど、笑みの奥が静かだ。
料理が出来上がる。食卓に並べると、色合いが鮮やかだ。照り焼きの艶。乱切りの野菜の立体感。
「どうだ」
俺は胸を張る。
「すごいわね。見た目は、レストランみたい」
「見た目“は”?」
「味もよ」
箸を伸ばす妻。ひと口食べる。
「……どうだ?」
「おいしい」
その一言に、胸がふくらむ。
「だろ?」
自分でも口に入れる。濃い。甘辛い。パンチがある。舌に強く残る。
「やっぱり、俺の方がメリハリがある」
「そうね」
妻は静かに頷く。
食事が終わる。
「ごちそうさま」
「どうだった?」
「頑張ったわね」
「頑張った、じゃなくて、良かっただろ?」
「ええ。あなたが楽しそうで」
その言葉が、少し引っかかる。
「楽しそう?」
「うん。目がね、きらきらしてる」
「そりゃそうだ。新しい挑戦だからな」
俺は椅子にもたれかかる。満腹感と達成感が混ざる。
「挑戦って、いいものよね」
「だろ? まだまだやれる」
立ち上がり、リビングへ向かう。
背後で、食器の重なる音がする。
「……あれ?」
振り向く。
「洗い物は?」
妻がシンクに立っている。
「俺、今日は作ったからさ」
「そうね」
「挑戦したんだし」
「ええ」
水が流れる。皿に泡が広がる。スポンジがこすれる音。
俺はテレビをつける。ニュースの音が部屋に広がる。
「油、結構はねてるわね」
妻の声がする。
「そうか?」
「コンロの周り、あとで拭いておくわ」
「悪いな」
「いいのよ。慣れてるから」
また、その言葉。
慣れてる。
俺は、挑戦している側だ。新しいことを始め、学び、上達している。彼女は、慣れている側だ。長年やってきたことを、ただ続けている。
そう、思っている。
「次はもっとすごいの作るぞ」
「楽しみにしてる」
水音が止まる。布巾で皿を拭く音。
俺はリモコンを握りながら、満足感に浸っていた。
台所の小さな背中が、ほんの少しだけ、遠くなっていることに、まだ気づかないまま。
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