『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第一部:夫視点(第1話~第10話)

第五話 天下を取る

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第五話 天下を取る

 「今日は俺がやる」

 エプロンの紐をぎゅっと結びながら、俺は宣言した。

 妻が振り向く。

「本気なの?」

「もちろん。教室で復習してきたんだ。今日は鶏の照り焼きと、付け合わせの煮物。段取りも完璧だ」

 冷蔵庫から鶏もも肉を取り出す。手のひらにずしりと重い。皮のぬめりが指にまとわりつく。まな板に置くと、どん、と低い音がした。

「危なくないようにね」

「子どもじゃない」

 包丁を握る。刃が肉に入る感触が、指先に伝わる。皮を下にして、余分な脂を落とす。教室で言われた通りだ。

「火加減は中火から強火。最初に皮をぱりっとさせる」

「はいはい、本部長さん」

「その呼び方やめろ」

 だが、悪い気はしない。

 フライパンに油をひく。じゅう、と肉が焼ける音。脂の匂いが一気に立ち上る。醤油とみりんを合わせたタレを回し入れると、甘い香りが広がる。

「ほら、いい色だろ」

 照りが出てきた肉を、妻に見せる。

「きれいね」

「だろ? 火入れが大事なんだ」

 俺は誇らしかった。台所の主導権を握っている感覚。鍋の位置も、調味料の順番も、すべて俺の指示で動く。

「煮物もやるから、材料出しといて」

「はい」

 妻が野菜を出す。にんじん、大根、こんにゃく。三十年、彼女が切ってきた野菜たちだ。

「今日は乱切りな」

「ええ」

 包丁を入れる。斜めに、回して、また斜めに。断面が光る。自分の切り方の方が理にかなっていると、疑いもなく思う。

「ほら、こっちの方が味が入る」

「そうね」

 妻は横で洗い物を始める。水の音が、さらさらと続く。

「味見してみて」

 煮汁をすくって差し出す。

 妻は口に含み、少し考える。

「少し、濃いかしら」

「そうか? これくらいの方が締まる」

「あなたが作るなら、そうなるわね」

「何だよ、それ」

「ううん、何でもない」

 笑う。けれど、笑みの奥が静かだ。

 料理が出来上がる。食卓に並べると、色合いが鮮やかだ。照り焼きの艶。乱切りの野菜の立体感。

「どうだ」

 俺は胸を張る。

「すごいわね。見た目は、レストランみたい」

「見た目“は”?」

「味もよ」

 箸を伸ばす妻。ひと口食べる。

「……どうだ?」

「おいしい」

 その一言に、胸がふくらむ。

「だろ?」

 自分でも口に入れる。濃い。甘辛い。パンチがある。舌に強く残る。

「やっぱり、俺の方がメリハリがある」

「そうね」

 妻は静かに頷く。

 食事が終わる。

「ごちそうさま」

「どうだった?」

「頑張ったわね」

「頑張った、じゃなくて、良かっただろ?」

「ええ。あなたが楽しそうで」

 その言葉が、少し引っかかる。

「楽しそう?」

「うん。目がね、きらきらしてる」

「そりゃそうだ。新しい挑戦だからな」

 俺は椅子にもたれかかる。満腹感と達成感が混ざる。

「挑戦って、いいものよね」

「だろ? まだまだやれる」

 立ち上がり、リビングへ向かう。

 背後で、食器の重なる音がする。

「……あれ?」

 振り向く。

「洗い物は?」

 妻がシンクに立っている。

「俺、今日は作ったからさ」

「そうね」

「挑戦したんだし」

「ええ」

 水が流れる。皿に泡が広がる。スポンジがこすれる音。

 俺はテレビをつける。ニュースの音が部屋に広がる。

「油、結構はねてるわね」

 妻の声がする。

「そうか?」

「コンロの周り、あとで拭いておくわ」

「悪いな」

「いいのよ。慣れてるから」

 また、その言葉。

 慣れてる。

 俺は、挑戦している側だ。新しいことを始め、学び、上達している。彼女は、慣れている側だ。長年やってきたことを、ただ続けている。

 そう、思っている。

「次はもっとすごいの作るぞ」

「楽しみにしてる」

 水音が止まる。布巾で皿を拭く音。

 俺はリモコンを握りながら、満足感に浸っていた。

 台所の小さな背中が、ほんの少しだけ、遠くなっていることに、まだ気づかないまま。

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