『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

文字の大きさ
6 / 25
第一部:夫視点(第1話~第10話)

第四話 善意の添削

しおりを挟む
第四話 善意の添削

 鍋の中で、ことことと大根が揺れている。

 出汁の匂いが、台所いっぱいに広がっていた。昆布のやわらかな甘み。鰹の香ばしさ。三十年、同じ時間に同じ匂いを吸い込んできたはずなのに、今日はどこか薄い。

 俺は調理台の端に寄りかかり、腕を組んでいた。

「今日は筑前煮よ」

 妻が言う。にんじんを輪切りにしながら、包丁の刃をまな板に軽く打ちつける。とん、とん、と規則正しい音。

「ふうん」

 俺は鍋の中をのぞき込む。ごぼうの香りが立ち上る。

「このにんじんさ」

「うん?」

「その切り方だと味が染みないよ」

 言葉は、ほとんど反射だった。

 妻の手が、ほんの一瞬止まる。

「そう?」

 振り向いた顔は、笑っている。口元だけ。

「乱切りにして、断面を増やした方がいい。料理教室でやったんだ。ほら、こうやって」

 俺はにんじんを一本取り上げ、包丁を握る。刃がまな板に触れると、乾いた音がする。斜めに切り、くるりと回し、また斜めに。

「この方が火の通りも均一になるし、味も入りやすい」

「へえ」

 妻は頷く。

「なるほどね」

 その声は柔らかい。だが、どこか遠い。

 鍋のふたを開けると、湯気がぶわりと立ちのぼる。目にしみる。鼻の奥が熱くなる。

「ちょっと、味見してみるか」

 おたまで汁をすくい、口に運ぶ。舌に触れた瞬間、塩気の輪郭がぼやけている気がした。

「やっぱり、少し弱いな」

「そうかしら」

「うん。もうちょっと醤油を足してもいい」

 妻は鍋を見つめたまま言う。

「あなた、薄味がいいって言ってたでしょう?」

「それは健康のためだろ。でも、薄味とぼやけた味は違う」

 自分の声が、少し誇らしい。

「そうなの」

「素材の切り方も大事なんだ。ほら、この大根、厚さが微妙に違う。これだと火の入りに差が出る」

 指で示す。

 妻は鍋から大根を一つ取り上げる。箸の先で、そっと押す。

「ちゃんと柔らかいわよ」

「いや、でも理屈としてはだな――」

 言いかけて、ふと気づく。俺はいつの間にか、説明している。講師のように。

 妻は笑った。

「本部長さんみたいね」

「なんだそれ」

「だって、会議で説明してるみたいなんだもの」

 くすりと笑う。その笑いは軽い。だが、胸の奥に小さな棘が刺さる。

「悪いか?」

「いいえ。すごいわ」

 言いながら、妻はコンロの火を弱める。青い炎が小さくなる。

 台所に、煮物の甘い匂いと、わずかな焦げの匂いが混ざる。

「今度、あなたが作ってみる?」

「もちろん。教室で習った通りにやれば、もっと美味くなる」

 自信が口をついて出る。

「楽しみだわ」

 妻は鍋のふたを閉める。ことり、と音がする。

 食卓に並んだ筑前煮を、俺はじっと見つめる。湯気が立ち上る。にんじんの橙。こんにゃくの灰色。ごぼうの土の匂い。

 箸で一口。

「……やっぱり、少し塩が足りない」

「そう?」

「うん。ここ、味が染みきってない」

 妻も一口食べる。

「私は、これくらいが好きだけど」

「それは慣れてるからだろ」

 言った瞬間、空気がぴたりと止まった。

 妻の箸が、わずかに震える。

「慣れてる、か」

「いや、悪い意味じゃない」

 慌てて付け足す。

「俺も今まで、これが普通だと思ってた。でも、勉強してみると違いがわかるんだよ」

「違いが、わかるのね」

「ああ。面白いぞ。奥が深い」

 妻は黙って頷く。

 湯飲みを口に運ぶ。ぬるい茶の香りが、喉を通る。

「あなた、楽しそうね」

「そうか?」

「ええ。最近、目が輝いてる」

 その言葉に、胸が少し高鳴る。

「まだまだ、やれるってことだ」

「そうね」

 短い返事。

 食卓の上に、静かな時間が落ちる。時計の秒針が、かちり、かちりと進む。

「でもね」

 妻がぽつりと言う。

「何?」

「この切り方は、お母さんに教わったの」

「お義母さん?」

「ええ。むらなく火が通るようにって。見た目も揃うから、食べる人が安心するって」

「理屈はわかるけど、効率が――」

「効率?」

 妻が顔を上げる。

「効率も、大事よね」

 笑う。

 その笑みは、どこか透き通っている。

 俺は気づかない。気づけない。

 ただ、自分の舌が覚えた“新しい正しさ”に酔っている。

「次は、俺がやるよ。ちゃんと理論的に」

「ええ」

 妻は立ち上がり、食器を重ねる。皿が触れ合う小さな音。

「洗い物、お願いできる?」

「今日はちょっと疲れててな」

「そう」

 妻はシンクに向かう。水の流れる音が、静かに続く。

 背中が、小さく見える。

 だが俺は、気づかない。

 善意で言っただけだ。

 良かれと思っただけだ。

 その言葉が、少しずつ味を変えていることを、俺はまだ知らない。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

抱きしめて

麻実
恋愛
夫の長期に亘る不倫に 女としての自信を失った妻は、新しい出会いに飛び込んでいく。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

処理中です...