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第一部:夫視点(第1話~第10話)
第四話 善意の添削
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第四話 善意の添削
鍋の中で、ことことと大根が揺れている。
出汁の匂いが、台所いっぱいに広がっていた。昆布のやわらかな甘み。鰹の香ばしさ。三十年、同じ時間に同じ匂いを吸い込んできたはずなのに、今日はどこか薄い。
俺は調理台の端に寄りかかり、腕を組んでいた。
「今日は筑前煮よ」
妻が言う。にんじんを輪切りにしながら、包丁の刃をまな板に軽く打ちつける。とん、とん、と規則正しい音。
「ふうん」
俺は鍋の中をのぞき込む。ごぼうの香りが立ち上る。
「このにんじんさ」
「うん?」
「その切り方だと味が染みないよ」
言葉は、ほとんど反射だった。
妻の手が、ほんの一瞬止まる。
「そう?」
振り向いた顔は、笑っている。口元だけ。
「乱切りにして、断面を増やした方がいい。料理教室でやったんだ。ほら、こうやって」
俺はにんじんを一本取り上げ、包丁を握る。刃がまな板に触れると、乾いた音がする。斜めに切り、くるりと回し、また斜めに。
「この方が火の通りも均一になるし、味も入りやすい」
「へえ」
妻は頷く。
「なるほどね」
その声は柔らかい。だが、どこか遠い。
鍋のふたを開けると、湯気がぶわりと立ちのぼる。目にしみる。鼻の奥が熱くなる。
「ちょっと、味見してみるか」
おたまで汁をすくい、口に運ぶ。舌に触れた瞬間、塩気の輪郭がぼやけている気がした。
「やっぱり、少し弱いな」
「そうかしら」
「うん。もうちょっと醤油を足してもいい」
妻は鍋を見つめたまま言う。
「あなた、薄味がいいって言ってたでしょう?」
「それは健康のためだろ。でも、薄味とぼやけた味は違う」
自分の声が、少し誇らしい。
「そうなの」
「素材の切り方も大事なんだ。ほら、この大根、厚さが微妙に違う。これだと火の入りに差が出る」
指で示す。
妻は鍋から大根を一つ取り上げる。箸の先で、そっと押す。
「ちゃんと柔らかいわよ」
「いや、でも理屈としてはだな――」
言いかけて、ふと気づく。俺はいつの間にか、説明している。講師のように。
妻は笑った。
「本部長さんみたいね」
「なんだそれ」
「だって、会議で説明してるみたいなんだもの」
くすりと笑う。その笑いは軽い。だが、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「悪いか?」
「いいえ。すごいわ」
言いながら、妻はコンロの火を弱める。青い炎が小さくなる。
台所に、煮物の甘い匂いと、わずかな焦げの匂いが混ざる。
「今度、あなたが作ってみる?」
「もちろん。教室で習った通りにやれば、もっと美味くなる」
自信が口をついて出る。
「楽しみだわ」
妻は鍋のふたを閉める。ことり、と音がする。
食卓に並んだ筑前煮を、俺はじっと見つめる。湯気が立ち上る。にんじんの橙。こんにゃくの灰色。ごぼうの土の匂い。
箸で一口。
「……やっぱり、少し塩が足りない」
「そう?」
「うん。ここ、味が染みきってない」
妻も一口食べる。
「私は、これくらいが好きだけど」
「それは慣れてるからだろ」
言った瞬間、空気がぴたりと止まった。
妻の箸が、わずかに震える。
「慣れてる、か」
「いや、悪い意味じゃない」
慌てて付け足す。
「俺も今まで、これが普通だと思ってた。でも、勉強してみると違いがわかるんだよ」
「違いが、わかるのね」
「ああ。面白いぞ。奥が深い」
妻は黙って頷く。
湯飲みを口に運ぶ。ぬるい茶の香りが、喉を通る。
「あなた、楽しそうね」
「そうか?」
「ええ。最近、目が輝いてる」
その言葉に、胸が少し高鳴る。
「まだまだ、やれるってことだ」
「そうね」
短い返事。
食卓の上に、静かな時間が落ちる。時計の秒針が、かちり、かちりと進む。
「でもね」
妻がぽつりと言う。
「何?」
「この切り方は、お母さんに教わったの」
「お義母さん?」
「ええ。むらなく火が通るようにって。見た目も揃うから、食べる人が安心するって」
「理屈はわかるけど、効率が――」
「効率?」
妻が顔を上げる。
「効率も、大事よね」
笑う。
その笑みは、どこか透き通っている。
俺は気づかない。気づけない。
ただ、自分の舌が覚えた“新しい正しさ”に酔っている。
「次は、俺がやるよ。ちゃんと理論的に」
「ええ」
妻は立ち上がり、食器を重ねる。皿が触れ合う小さな音。
「洗い物、お願いできる?」
「今日はちょっと疲れててな」
「そう」
妻はシンクに向かう。水の流れる音が、静かに続く。
背中が、小さく見える。
だが俺は、気づかない。
善意で言っただけだ。
良かれと思っただけだ。
その言葉が、少しずつ味を変えていることを、俺はまだ知らない。
鍋の中で、ことことと大根が揺れている。
出汁の匂いが、台所いっぱいに広がっていた。昆布のやわらかな甘み。鰹の香ばしさ。三十年、同じ時間に同じ匂いを吸い込んできたはずなのに、今日はどこか薄い。
俺は調理台の端に寄りかかり、腕を組んでいた。
「今日は筑前煮よ」
妻が言う。にんじんを輪切りにしながら、包丁の刃をまな板に軽く打ちつける。とん、とん、と規則正しい音。
「ふうん」
俺は鍋の中をのぞき込む。ごぼうの香りが立ち上る。
「このにんじんさ」
「うん?」
「その切り方だと味が染みないよ」
言葉は、ほとんど反射だった。
妻の手が、ほんの一瞬止まる。
「そう?」
振り向いた顔は、笑っている。口元だけ。
「乱切りにして、断面を増やした方がいい。料理教室でやったんだ。ほら、こうやって」
俺はにんじんを一本取り上げ、包丁を握る。刃がまな板に触れると、乾いた音がする。斜めに切り、くるりと回し、また斜めに。
「この方が火の通りも均一になるし、味も入りやすい」
「へえ」
妻は頷く。
「なるほどね」
その声は柔らかい。だが、どこか遠い。
鍋のふたを開けると、湯気がぶわりと立ちのぼる。目にしみる。鼻の奥が熱くなる。
「ちょっと、味見してみるか」
おたまで汁をすくい、口に運ぶ。舌に触れた瞬間、塩気の輪郭がぼやけている気がした。
「やっぱり、少し弱いな」
「そうかしら」
「うん。もうちょっと醤油を足してもいい」
妻は鍋を見つめたまま言う。
「あなた、薄味がいいって言ってたでしょう?」
「それは健康のためだろ。でも、薄味とぼやけた味は違う」
自分の声が、少し誇らしい。
「そうなの」
「素材の切り方も大事なんだ。ほら、この大根、厚さが微妙に違う。これだと火の入りに差が出る」
指で示す。
妻は鍋から大根を一つ取り上げる。箸の先で、そっと押す。
「ちゃんと柔らかいわよ」
「いや、でも理屈としてはだな――」
言いかけて、ふと気づく。俺はいつの間にか、説明している。講師のように。
妻は笑った。
「本部長さんみたいね」
「なんだそれ」
「だって、会議で説明してるみたいなんだもの」
くすりと笑う。その笑いは軽い。だが、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「悪いか?」
「いいえ。すごいわ」
言いながら、妻はコンロの火を弱める。青い炎が小さくなる。
台所に、煮物の甘い匂いと、わずかな焦げの匂いが混ざる。
「今度、あなたが作ってみる?」
「もちろん。教室で習った通りにやれば、もっと美味くなる」
自信が口をついて出る。
「楽しみだわ」
妻は鍋のふたを閉める。ことり、と音がする。
食卓に並んだ筑前煮を、俺はじっと見つめる。湯気が立ち上る。にんじんの橙。こんにゃくの灰色。ごぼうの土の匂い。
箸で一口。
「……やっぱり、少し塩が足りない」
「そう?」
「うん。ここ、味が染みきってない」
妻も一口食べる。
「私は、これくらいが好きだけど」
「それは慣れてるからだろ」
言った瞬間、空気がぴたりと止まった。
妻の箸が、わずかに震える。
「慣れてる、か」
「いや、悪い意味じゃない」
慌てて付け足す。
「俺も今まで、これが普通だと思ってた。でも、勉強してみると違いがわかるんだよ」
「違いが、わかるのね」
「ああ。面白いぞ。奥が深い」
妻は黙って頷く。
湯飲みを口に運ぶ。ぬるい茶の香りが、喉を通る。
「あなた、楽しそうね」
「そうか?」
「ええ。最近、目が輝いてる」
その言葉に、胸が少し高鳴る。
「まだまだ、やれるってことだ」
「そうね」
短い返事。
食卓の上に、静かな時間が落ちる。時計の秒針が、かちり、かちりと進む。
「でもね」
妻がぽつりと言う。
「何?」
「この切り方は、お母さんに教わったの」
「お義母さん?」
「ええ。むらなく火が通るようにって。見た目も揃うから、食べる人が安心するって」
「理屈はわかるけど、効率が――」
「効率?」
妻が顔を上げる。
「効率も、大事よね」
笑う。
その笑みは、どこか透き通っている。
俺は気づかない。気づけない。
ただ、自分の舌が覚えた“新しい正しさ”に酔っている。
「次は、俺がやるよ。ちゃんと理論的に」
「ええ」
妻は立ち上がり、食器を重ねる。皿が触れ合う小さな音。
「洗い物、お願いできる?」
「今日はちょっと疲れててな」
「そう」
妻はシンクに向かう。水の流れる音が、静かに続く。
背中が、小さく見える。
だが俺は、気づかない。
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