5 / 25
第一部:夫視点(第1話~第10話)
第三話 料理教室
しおりを挟む
第三話 料理教室
ガラス張りのスタジオは、思っていたより明るかった。
ステンレスの調理台が一直線に並び、蛍光灯の白い光を跳ね返している。換気扇の低い唸りと、包丁がまな板を打つ小気味よい音。醤油とみりんが温まる甘い匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
「本日からご参加の方がいらっしゃいます」
講師の女性が、にこやかにこちらを見た。四十代半ばだろうか、声がよく通る。
「営業本部長を務めていらした○○さんです」
思わず背筋が伸びる。
「もう本部長ではありませんよ」
軽く手を振ると、周囲から小さな笑いが起きる。
「でも、肩書きってそう簡単に消えないんですよね」
講師がいたずらっぽく言う。
「本部長さん、今日はよろしくお願いします」
“本部長さん”。
その響きが、胸の奥に柔らかく落ちた。
「こちらこそ」
エプロンの紐を結ぶ。布が腰に触れる感触が新鮮だ。スーツのベルトとは違う。軽い。
「今日は基本の肉じゃがです。包丁の使い方から丁寧にいきましょう」
じゃがいもを手に取る。ひんやりと重い。皮をむくと、白い肌が現れる。刃が入る感触が指に伝わる。
「いいですね、手首が安定しています」
講師が横に立つ。
「さすが、段取りがお上手」
段取り。
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「仕事柄、段取りは染みついています」
「やっぱり。手際がいいわ、本部長さん」
まただ。
胸の奥が、じわりと温かくなる。誰かに評価される感覚。何かを“できる”と認められる瞬間。
鍋に油をひく。じゅっと音が立ち、牛肉の赤がさっと色を変える。醤油を回し入れると、甘辛い香りが一気に広がった。
「いい香りでしょう?」
「ええ」
思わず頷く。
隣の台の男性が話しかけてくる。
「定年後、暇でね。何か始めようと思って」
「同じです」
そう言いながら、どこかで違うと思う。俺は、暇つぶしではない。まだやれる。まだ価値がある。
「煮崩れないように、面取りが大事ですよ」
講師が実演する。じゃがいもの角を、薄くそぎ落とす。
「なるほど」
自分でもやってみる。刃先がするりと滑る。集中すると、余計な雑音が消える。
「上手いわ。本部長さん、手が覚えてますね」
「はは、ありがとうございます」
笑いながらも、胸の奥で何かが膨らむ。風船のように、少しずつ。
完成した肉じゃがを口に運ぶ。甘みと塩気が舌に広がる。ほくほくとしたじゃがいも。柔らかな牛肉。
「どうです?」
「うまいですね」
「でしょう? 本部長さん、筋がいいですよ。ご自宅でもきっと活躍できますね」
活躍。
その言葉が、鮮やかに響く。
帰り道、手には今日のレシピ。紙の端が指に当たる感触が妙に心強い。夕方の空気はまだ冷たいが、足取りは軽い。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「おかえり」
台所から、出汁の匂いが漂う。大根の甘い香り。
「今日はどうだった?」
「悪くないな。思ったより簡単だ」
靴を脱ぎながら、胸を張る。
「そう」
妻は鍋のふたを開け、湯気を逃がす。ふわりと立ち上る香り。三十年、嗅ぎ慣れた匂い。
「肉じゃが、作ったんだ」
「まあ」
少し目を見開く。
「講師に褒められたよ。手際がいいって」
「そうなの。よかったわね」
その声は穏やかだ。
食卓につく。妻の煮物が並ぶ。にんじん、大根、こんにゃく。均等に切り揃えられている。
箸でひとつつまむ。口に入れる。
……薄い。
いや、いつも通りだ。だが、今日の肉じゃがの味が舌に残っている。
「どう?」
妻が聞く。
「うん……」
少し考える。
「ちょっと、味がぼやけてるかな」
言ってから、空気が止まった気がした。
「ぼやけてる?」
「いや、その、出汁は効いてるけど、もう少し輪郭があってもいいんじゃないか」
言葉が、思ったより滑らかに出る。
「料理教室でね、先生が言ってた。素材によって切り方も変えるって。これ、大根はもう少し厚みを揃えた方が火の入りが均一になる」
妻の箸が止まる。
「……そう」
「ほら、ここ。少し煮え方に差があるだろ?」
大根を割って見せる。
妻は黙っている。
「まあ、悪くはないけどな」
付け足す。
「ただ、せっかくだからさ。俺も勉強してるし」
“俺も”。
その言葉が、部屋のどこかに引っかかる。
妻は小さく笑った。
「そうね。あなた、勉強家だものね」
「だろ?」
冗談めかして言う。
だが、妻の笑みは、目の奥まで届いていない。
湯気が二人の間に立ち上る。出汁の匂いが、いつもより少し遠く感じる。
「今度、俺が作ろうか」
「いいわよ。楽しみにしてる」
その声は優しい。だが、どこか固い。
俺は満足していた。褒められた余韻が、まだ胸に残っている。家でも活躍できる。まだやれる。
湯飲みを持ち上げる。ぬるい。
ふと、妻の横顔を見る。まな板に向かう背中が、少しだけ小さく見えた。
気のせいだろう。
「なあ」
「何?」
「これからは、俺も台所に立つよ」
「……そう」
短い返事。
食卓の上で、煮物の湯気が静かに消えていく。
胸の奥で膨らんだ風船は、まだしぼんでいない。
それが、誰かの空気を奪い始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
ガラス張りのスタジオは、思っていたより明るかった。
ステンレスの調理台が一直線に並び、蛍光灯の白い光を跳ね返している。換気扇の低い唸りと、包丁がまな板を打つ小気味よい音。醤油とみりんが温まる甘い匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
「本日からご参加の方がいらっしゃいます」
講師の女性が、にこやかにこちらを見た。四十代半ばだろうか、声がよく通る。
「営業本部長を務めていらした○○さんです」
思わず背筋が伸びる。
「もう本部長ではありませんよ」
軽く手を振ると、周囲から小さな笑いが起きる。
「でも、肩書きってそう簡単に消えないんですよね」
講師がいたずらっぽく言う。
「本部長さん、今日はよろしくお願いします」
“本部長さん”。
その響きが、胸の奥に柔らかく落ちた。
「こちらこそ」
エプロンの紐を結ぶ。布が腰に触れる感触が新鮮だ。スーツのベルトとは違う。軽い。
「今日は基本の肉じゃがです。包丁の使い方から丁寧にいきましょう」
じゃがいもを手に取る。ひんやりと重い。皮をむくと、白い肌が現れる。刃が入る感触が指に伝わる。
「いいですね、手首が安定しています」
講師が横に立つ。
「さすが、段取りがお上手」
段取り。
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「仕事柄、段取りは染みついています」
「やっぱり。手際がいいわ、本部長さん」
まただ。
胸の奥が、じわりと温かくなる。誰かに評価される感覚。何かを“できる”と認められる瞬間。
鍋に油をひく。じゅっと音が立ち、牛肉の赤がさっと色を変える。醤油を回し入れると、甘辛い香りが一気に広がった。
「いい香りでしょう?」
「ええ」
思わず頷く。
隣の台の男性が話しかけてくる。
「定年後、暇でね。何か始めようと思って」
「同じです」
そう言いながら、どこかで違うと思う。俺は、暇つぶしではない。まだやれる。まだ価値がある。
「煮崩れないように、面取りが大事ですよ」
講師が実演する。じゃがいもの角を、薄くそぎ落とす。
「なるほど」
自分でもやってみる。刃先がするりと滑る。集中すると、余計な雑音が消える。
「上手いわ。本部長さん、手が覚えてますね」
「はは、ありがとうございます」
笑いながらも、胸の奥で何かが膨らむ。風船のように、少しずつ。
完成した肉じゃがを口に運ぶ。甘みと塩気が舌に広がる。ほくほくとしたじゃがいも。柔らかな牛肉。
「どうです?」
「うまいですね」
「でしょう? 本部長さん、筋がいいですよ。ご自宅でもきっと活躍できますね」
活躍。
その言葉が、鮮やかに響く。
帰り道、手には今日のレシピ。紙の端が指に当たる感触が妙に心強い。夕方の空気はまだ冷たいが、足取りは軽い。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「おかえり」
台所から、出汁の匂いが漂う。大根の甘い香り。
「今日はどうだった?」
「悪くないな。思ったより簡単だ」
靴を脱ぎながら、胸を張る。
「そう」
妻は鍋のふたを開け、湯気を逃がす。ふわりと立ち上る香り。三十年、嗅ぎ慣れた匂い。
「肉じゃが、作ったんだ」
「まあ」
少し目を見開く。
「講師に褒められたよ。手際がいいって」
「そうなの。よかったわね」
その声は穏やかだ。
食卓につく。妻の煮物が並ぶ。にんじん、大根、こんにゃく。均等に切り揃えられている。
箸でひとつつまむ。口に入れる。
……薄い。
いや、いつも通りだ。だが、今日の肉じゃがの味が舌に残っている。
「どう?」
妻が聞く。
「うん……」
少し考える。
「ちょっと、味がぼやけてるかな」
言ってから、空気が止まった気がした。
「ぼやけてる?」
「いや、その、出汁は効いてるけど、もう少し輪郭があってもいいんじゃないか」
言葉が、思ったより滑らかに出る。
「料理教室でね、先生が言ってた。素材によって切り方も変えるって。これ、大根はもう少し厚みを揃えた方が火の入りが均一になる」
妻の箸が止まる。
「……そう」
「ほら、ここ。少し煮え方に差があるだろ?」
大根を割って見せる。
妻は黙っている。
「まあ、悪くはないけどな」
付け足す。
「ただ、せっかくだからさ。俺も勉強してるし」
“俺も”。
その言葉が、部屋のどこかに引っかかる。
妻は小さく笑った。
「そうね。あなた、勉強家だものね」
「だろ?」
冗談めかして言う。
だが、妻の笑みは、目の奥まで届いていない。
湯気が二人の間に立ち上る。出汁の匂いが、いつもより少し遠く感じる。
「今度、俺が作ろうか」
「いいわよ。楽しみにしてる」
その声は優しい。だが、どこか固い。
俺は満足していた。褒められた余韻が、まだ胸に残っている。家でも活躍できる。まだやれる。
湯飲みを持ち上げる。ぬるい。
ふと、妻の横顔を見る。まな板に向かう背中が、少しだけ小さく見えた。
気のせいだろう。
「なあ」
「何?」
「これからは、俺も台所に立つよ」
「……そう」
短い返事。
食卓の上で、煮物の湯気が静かに消えていく。
胸の奥で膨らんだ風船は、まだしぼんでいない。
それが、誰かの空気を奪い始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる