『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第一部:夫視点(第1話~第10話)

第三話 料理教室

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第三話 料理教室

 ガラス張りのスタジオは、思っていたより明るかった。

 ステンレスの調理台が一直線に並び、蛍光灯の白い光を跳ね返している。換気扇の低い唸りと、包丁がまな板を打つ小気味よい音。醤油とみりんが温まる甘い匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。

「本日からご参加の方がいらっしゃいます」

 講師の女性が、にこやかにこちらを見た。四十代半ばだろうか、声がよく通る。

「営業本部長を務めていらした○○さんです」

 思わず背筋が伸びる。

「もう本部長ではありませんよ」

 軽く手を振ると、周囲から小さな笑いが起きる。

「でも、肩書きってそう簡単に消えないんですよね」

 講師がいたずらっぽく言う。

「本部長さん、今日はよろしくお願いします」

 “本部長さん”。

 その響きが、胸の奥に柔らかく落ちた。

「こちらこそ」

 エプロンの紐を結ぶ。布が腰に触れる感触が新鮮だ。スーツのベルトとは違う。軽い。

「今日は基本の肉じゃがです。包丁の使い方から丁寧にいきましょう」

 じゃがいもを手に取る。ひんやりと重い。皮をむくと、白い肌が現れる。刃が入る感触が指に伝わる。

「いいですね、手首が安定しています」

 講師が横に立つ。

「さすが、段取りがお上手」

 段取り。

 その言葉に、思わず笑みがこぼれる。

「仕事柄、段取りは染みついています」

「やっぱり。手際がいいわ、本部長さん」

 まただ。

 胸の奥が、じわりと温かくなる。誰かに評価される感覚。何かを“できる”と認められる瞬間。

 鍋に油をひく。じゅっと音が立ち、牛肉の赤がさっと色を変える。醤油を回し入れると、甘辛い香りが一気に広がった。

「いい香りでしょう?」

「ええ」

 思わず頷く。

 隣の台の男性が話しかけてくる。

「定年後、暇でね。何か始めようと思って」

「同じです」

 そう言いながら、どこかで違うと思う。俺は、暇つぶしではない。まだやれる。まだ価値がある。

「煮崩れないように、面取りが大事ですよ」

 講師が実演する。じゃがいもの角を、薄くそぎ落とす。

「なるほど」

 自分でもやってみる。刃先がするりと滑る。集中すると、余計な雑音が消える。

「上手いわ。本部長さん、手が覚えてますね」

「はは、ありがとうございます」

 笑いながらも、胸の奥で何かが膨らむ。風船のように、少しずつ。

 完成した肉じゃがを口に運ぶ。甘みと塩気が舌に広がる。ほくほくとしたじゃがいも。柔らかな牛肉。

「どうです?」

「うまいですね」

「でしょう? 本部長さん、筋がいいですよ。ご自宅でもきっと活躍できますね」

 活躍。

 その言葉が、鮮やかに響く。

 帰り道、手には今日のレシピ。紙の端が指に当たる感触が妙に心強い。夕方の空気はまだ冷たいが、足取りは軽い。

 玄関のドアを開ける。

「ただいま」

「おかえり」

 台所から、出汁の匂いが漂う。大根の甘い香り。

「今日はどうだった?」

「悪くないな。思ったより簡単だ」

 靴を脱ぎながら、胸を張る。

「そう」

 妻は鍋のふたを開け、湯気を逃がす。ふわりと立ち上る香り。三十年、嗅ぎ慣れた匂い。

「肉じゃが、作ったんだ」

「まあ」

 少し目を見開く。

「講師に褒められたよ。手際がいいって」

「そうなの。よかったわね」

 その声は穏やかだ。

 食卓につく。妻の煮物が並ぶ。にんじん、大根、こんにゃく。均等に切り揃えられている。

 箸でひとつつまむ。口に入れる。

 ……薄い。

 いや、いつも通りだ。だが、今日の肉じゃがの味が舌に残っている。

「どう?」

 妻が聞く。

「うん……」

 少し考える。

「ちょっと、味がぼやけてるかな」

 言ってから、空気が止まった気がした。

「ぼやけてる?」

「いや、その、出汁は効いてるけど、もう少し輪郭があってもいいんじゃないか」

 言葉が、思ったより滑らかに出る。

「料理教室でね、先生が言ってた。素材によって切り方も変えるって。これ、大根はもう少し厚みを揃えた方が火の入りが均一になる」

 妻の箸が止まる。

「……そう」

「ほら、ここ。少し煮え方に差があるだろ?」

 大根を割って見せる。

 妻は黙っている。

「まあ、悪くはないけどな」

 付け足す。

「ただ、せっかくだからさ。俺も勉強してるし」

 “俺も”。

 その言葉が、部屋のどこかに引っかかる。

 妻は小さく笑った。

「そうね。あなた、勉強家だものね」

「だろ?」

 冗談めかして言う。

 だが、妻の笑みは、目の奥まで届いていない。

 湯気が二人の間に立ち上る。出汁の匂いが、いつもより少し遠く感じる。

「今度、俺が作ろうか」

「いいわよ。楽しみにしてる」

 その声は優しい。だが、どこか固い。

 俺は満足していた。褒められた余韻が、まだ胸に残っている。家でも活躍できる。まだやれる。

 湯飲みを持ち上げる。ぬるい。

 ふと、妻の横顔を見る。まな板に向かう背中が、少しだけ小さく見えた。

 気のせいだろう。

「なあ」

「何?」

「これからは、俺も台所に立つよ」

「……そう」

 短い返事。

 食卓の上で、煮物の湯気が静かに消えていく。

 胸の奥で膨らんだ風船は、まだしぼんでいない。

 それが、誰かの空気を奪い始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。

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