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第二部:妻視点(第11話~第20話)
第16話 傲慢の風船
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第16話 傲慢の風船
「今日は俺がやる」
朝の光が、キッチンの床を斜めに照らしている。
窓を少し開けると、冷たい空気が入り込んで、洗剤の匂いと混ざった。
「そう」
私はエプロンの紐をほどく。
夫は嬉しそうに袖をまくった。
新品のエプロン。料理教室のロゴが小さく刺繍されている。
「昨日な、先生に褒められたんだ」
「へえ」
「“本部長さん、筋がいい”って」
本部長さん。
その呼び名に、少しだけ違和感が残る。
とん、とん、とん。
包丁がまな板を打つ音が、やけに大きい。
刃が少し跳ねる。
玉ねぎの繊維が荒く裂ける。
「もっと薄く切ったほうが」
「大丈夫だよ。火を通せば同じだ」
同じ。
鍋に油をひく。
じゅわ、と音が跳ねる。
強い火。
焦げる一歩手前の匂い。
「ちょっと火、強くない?」
「いや、強火で一気に旨味を閉じ込めるんだ」
閉じ込める。
鍋の中で、具材がぶつかる。
金属の音が、かん、と響く。
私は一歩下がる。
背中が冷蔵庫に触れて、ひやりとする。
「味見してみろ」
差し出されたスプーン。
舌に触れた瞬間、塩が先に立つ。
「どうだ?」
期待に満ちた目。
「……しっかりしてる」
「だろ?」
夫は満足げにうなずく。
その表情が、ふくらむ。
少しずつ。
目に見えない風船みたいに。
「やっぱりさ、理屈がわかると違うよな」
「理屈?」
「感覚じゃなくて、理論だよ。料理も」
私は笑う。
感覚。
三十年、私は感覚でやってきたのだろうか。
火加減。
塩加減。
その日の体調。
天気。
全部、計算していた。
口に出さなかっただけで。
「片付け、頼むな」
鍋をコンロに残したまま、夫はエプロンを外す。
「俺、ちょっと散歩してくる」
「……わかった」
シンクに鍋を移す。
油が膜になっている。
ぬるりとした手触り。
水を流す。
ざあ、と勢いよく音が広がる。
湯気の代わりに、冷たい水しぶきが跳ねる。
料理は、愛ではなくなっていた。
少なくとも、夫にとっては。
「今日のはどうだった?」
夜、夫が聞く。
「しっかりしてた」
「やっぱりな。先生も言ってたけど、味ははっきりさせないと」
はっきり。
「最近のお前のは、ちょっと優しすぎるんだよ」
優しすぎる。
それは、悪いことなのだろうか。
「優しい味って、悪い?」
「悪くはないけどさ、物足りないんだ」
物足りない。
風船が、また少し膨らむ。
「俺が作るとさ、達成感あるんだよ」
達成感。
その言葉に、胸がざらりとする。
「ほら、完成したって感じがして」
私は黙る。
完成。
私の料理は、未完成だったのだろうか。
「料理って、評価がすぐ返ってくるからいいよな」
評価。
夫の目が、どこか遠くを見ている。
食卓ではなく、教室の拍手のほうを。
「褒められると、やっぱり嬉しいだろ?」
「……そうね」
嬉しい。
私も、嬉しかった。
「おいしい」の一言で。
でもそれは、誇示ではなかった。
静かな確認だった。
「明日は煮物やる」
夫が宣言する。
「俺の乱切り、完璧だからな」
完璧。
その言葉が、軽く響く。
私は、まな板を拭く。
木目にしみ込んだ水が、ゆっくり乾いていく。
助手。
ふいに、その言葉が浮かぶ。
私は、いつから助手になったのだろう。
横に立ち、味見をし、片付けをする人。
「なあ、次は何を習おうか」
夫の声が弾む。
風船が、どんどん膨らむ。
中身は、空気だ。
承認。
拍手。
評価。
それを吸い込んで、ふくらむ。
「あなた、楽しい?」
「楽しいよ。新しいこと始めるのはな」
「そう」
それは、悪いことじゃない。
でも。
「私も、楽しいと思ってた」
思わず口に出る。
「ん?」
「料理」
夫は少し驚いた顔をする。
「そりゃ、毎日やってりゃ慣れるだろ」
慣れる。
その言葉が、胸を打つ。
慣れではない。
誇りだった。
愛だった。
守ることだった。
「俺のほうが上手くなったらどうする?」
冗談めかして笑う。
私は笑えない。
「どうもしないわ」
静かに答える。
風船が、天井に近づいている。
ぱん、と割れる音が、もうすぐ聞こえそうだ。
私は、助手ではない。
胸の奥で、その言葉が初めて形になる。
鍋の底をこするスポンジの感触が、やけに荒い。
私は、助手ではない。
三十年、この台所で、王だった。
今、その城に浮かぶ風船を、じっと見ている。
音はまだしない。
でも、膨らみきったそれは、いつか必ず弾ける。
「今日は俺がやる」
朝の光が、キッチンの床を斜めに照らしている。
窓を少し開けると、冷たい空気が入り込んで、洗剤の匂いと混ざった。
「そう」
私はエプロンの紐をほどく。
夫は嬉しそうに袖をまくった。
新品のエプロン。料理教室のロゴが小さく刺繍されている。
「昨日な、先生に褒められたんだ」
「へえ」
「“本部長さん、筋がいい”って」
本部長さん。
その呼び名に、少しだけ違和感が残る。
とん、とん、とん。
包丁がまな板を打つ音が、やけに大きい。
刃が少し跳ねる。
玉ねぎの繊維が荒く裂ける。
「もっと薄く切ったほうが」
「大丈夫だよ。火を通せば同じだ」
同じ。
鍋に油をひく。
じゅわ、と音が跳ねる。
強い火。
焦げる一歩手前の匂い。
「ちょっと火、強くない?」
「いや、強火で一気に旨味を閉じ込めるんだ」
閉じ込める。
鍋の中で、具材がぶつかる。
金属の音が、かん、と響く。
私は一歩下がる。
背中が冷蔵庫に触れて、ひやりとする。
「味見してみろ」
差し出されたスプーン。
舌に触れた瞬間、塩が先に立つ。
「どうだ?」
期待に満ちた目。
「……しっかりしてる」
「だろ?」
夫は満足げにうなずく。
その表情が、ふくらむ。
少しずつ。
目に見えない風船みたいに。
「やっぱりさ、理屈がわかると違うよな」
「理屈?」
「感覚じゃなくて、理論だよ。料理も」
私は笑う。
感覚。
三十年、私は感覚でやってきたのだろうか。
火加減。
塩加減。
その日の体調。
天気。
全部、計算していた。
口に出さなかっただけで。
「片付け、頼むな」
鍋をコンロに残したまま、夫はエプロンを外す。
「俺、ちょっと散歩してくる」
「……わかった」
シンクに鍋を移す。
油が膜になっている。
ぬるりとした手触り。
水を流す。
ざあ、と勢いよく音が広がる。
湯気の代わりに、冷たい水しぶきが跳ねる。
料理は、愛ではなくなっていた。
少なくとも、夫にとっては。
「今日のはどうだった?」
夜、夫が聞く。
「しっかりしてた」
「やっぱりな。先生も言ってたけど、味ははっきりさせないと」
はっきり。
「最近のお前のは、ちょっと優しすぎるんだよ」
優しすぎる。
それは、悪いことなのだろうか。
「優しい味って、悪い?」
「悪くはないけどさ、物足りないんだ」
物足りない。
風船が、また少し膨らむ。
「俺が作るとさ、達成感あるんだよ」
達成感。
その言葉に、胸がざらりとする。
「ほら、完成したって感じがして」
私は黙る。
完成。
私の料理は、未完成だったのだろうか。
「料理って、評価がすぐ返ってくるからいいよな」
評価。
夫の目が、どこか遠くを見ている。
食卓ではなく、教室の拍手のほうを。
「褒められると、やっぱり嬉しいだろ?」
「……そうね」
嬉しい。
私も、嬉しかった。
「おいしい」の一言で。
でもそれは、誇示ではなかった。
静かな確認だった。
「明日は煮物やる」
夫が宣言する。
「俺の乱切り、完璧だからな」
完璧。
その言葉が、軽く響く。
私は、まな板を拭く。
木目にしみ込んだ水が、ゆっくり乾いていく。
助手。
ふいに、その言葉が浮かぶ。
私は、いつから助手になったのだろう。
横に立ち、味見をし、片付けをする人。
「なあ、次は何を習おうか」
夫の声が弾む。
風船が、どんどん膨らむ。
中身は、空気だ。
承認。
拍手。
評価。
それを吸い込んで、ふくらむ。
「あなた、楽しい?」
「楽しいよ。新しいこと始めるのはな」
「そう」
それは、悪いことじゃない。
でも。
「私も、楽しいと思ってた」
思わず口に出る。
「ん?」
「料理」
夫は少し驚いた顔をする。
「そりゃ、毎日やってりゃ慣れるだろ」
慣れる。
その言葉が、胸を打つ。
慣れではない。
誇りだった。
愛だった。
守ることだった。
「俺のほうが上手くなったらどうする?」
冗談めかして笑う。
私は笑えない。
「どうもしないわ」
静かに答える。
風船が、天井に近づいている。
ぱん、と割れる音が、もうすぐ聞こえそうだ。
私は、助手ではない。
胸の奥で、その言葉が初めて形になる。
鍋の底をこするスポンジの感触が、やけに荒い。
私は、助手ではない。
三十年、この台所で、王だった。
今、その城に浮かぶ風船を、じっと見ている。
音はまだしない。
でも、膨らみきったそれは、いつか必ず弾ける。
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