『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第二部:妻視点(第11話~第20話)

第17話 天下取りの台所

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第17話 天下取りの台所

「今日は俺がメインだ」

朝の光がコンロの銀色を白く跳ね返している。
換気扇の低い唸りが、台所に一定のリズムをつくる。

私は米を研いでいた。
水の中で指が冷える。
とぎ汁が白く濁り、やがて透明に近づく。

「お願い」

そう言って、シンクに立つ。

夫はまな板の前に堂々と立つ。
エプロンの紐をきつく結び、胸を張る。

「今日は筑前煮だ」

「いいわね」

「ちゃんと下処理からやるぞ。理論通りに」

理論。

とん、とん、とん。

包丁の音が強い。
刃が木に当たるたび、乾いた響きが跳ねる。

「人参は乱切りな。火の入りを揃える」

「うん」

「里芋は塩で揉んでぬめりを取る。基本だ」

基本。

私は里芋を受け取り、塩を振る。
ぬめりが指にまとわりつく。
水で流すと、ぬるりと白い膜が消える。

「ほら、ちゃんとやらないと味がぼやける」

その言葉が、わずかに胸を刺す。

「あなた、楽しそうね」

「そりゃな。料理は戦略だ」

戦略。

「段取りがすべてだ」

鍋に油を入れる。
じゅわ、と音が立ち、甘い匂いが立ち上る。

夫は具材を一気に投入する。
鍋肌に当たる音が高い。

「焦らず、火加減を見て」

「大丈夫。俺に任せろ」

その声は、会社で部下に指示を出していたときと同じだ。

「次、醤油」

「はい」

私は差し出す。

「もう少し」

「これくらい?」

「そう。それでいい」

それでいい。

許可を得たような気持ちになる。

湯気が立ち上る。
醤油の焦げる匂いが、鼻に強く刺さる。

「どうだ、この色」

夫は満足げに鍋をのぞく。

「いい色」

「だろ? 俺、向いてるかもな」

向いている。

私は箸を持つ手を止める。

三十年、私は向いていたのだろうか。

「味見してくれ」

差し出された小皿。
口に入れると、甘辛さが真っ先にくる。

強い。

でも、言わない。

「どうだ?」

期待の目。

「しっかりしてる」

「はは、やっぱりな」

夫は笑う。

その笑いは、誇らしく、無邪気で、悪意はない。

悪くない。

本当に、悪くない。

けれど。

「お前もさ、もっと自分を出せばいいんだよ」

唐突に言われる。

「私を?」

「遠慮しすぎなんだ。味も、生き方も」

遠慮。

私は笑う。

「遠慮してるつもりはないわ」

「いや、してる。主張が弱い」

主張。

鍋の中で、里芋が静かに転がる。

「料理はな、勝負なんだよ」

勝負。

「食べた瞬間、“うまい”って言わせる力」

私は黙る。

言わせる。

言わせたかったのだろうか。

私は、聞きたかった。

自然にこぼれる「おいしい」を。

「会社でもな、結果を出すやつが評価される」

評価。

その言葉が、台所に重く落ちる。

「家庭でも同じだ」

同じ。

私は、ずっと評価される側だったのだろうか。

「俺が教えてやるよ」

夫は笑う。

教える。

私は、いつから部下になったのだろう。

湯気が目に沁みる。

「あなた、覚えてる?」

「何を?」

「昔、焦げたカレー」

「ああ、あったな」

夫が笑う。

「でも、うまいって言ってくれた」

「あれは若かったからだ」

若かったから。

「今は、ちゃんとやろうぜ」

ちゃんと。

私は頷く。

ちゃんと、してきた。

火を弱め、
塩を減らし、
油を控え。

でも、それは評価される“結果”ではない。

目立たない。

拍手もない。

「どうだ、今日のは」

食卓で、夫が尋ねる。

「あなたは?」

「完璧だな」

自信に満ちた声。

「お前はどう思う?」

問われる。

私は一瞬、言葉を探す。

「……少し、濃いかも」

夫の眉が動く。

「そうか?」

「うん」

沈黙。

「まあ、人それぞれだな」

人それぞれ。

評価は、彼の側にある。

私は、その基準の中で答える。

いつも。

夫は悪くない。

本当に。

ただ、立ち位置が変わらない。

コンロの前に立つときも、
食卓に座るときも、
彼は常に“上司”。

私は、評価される側。

三十年、そうだった。

台所は、私の城だったはずなのに。

今は、天下取りの戦場。

「次は何を攻めるかな」

夫が楽しそうに言う。

攻める。

私は皿を洗う。

水の音が、すべてをかき消す。

ざあ、と。

胸の奥で、小さな声がする。

私は、助手でも部下でもない。

でもまだ、その言葉を口には出せない。

湯気の向こうで、夫が満足げに笑っている。

天下を取った顔で。

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