『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第二部:妻視点(第11話~第20話)

第18話 芽吹き

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第18話 芽吹き

「今日はそれぞれ、自分の味で煮物を作ってみましょう」

教室の窓から、やわらかな光が差し込んでいる。
白い調理台が明るく照らされ、包丁の刃がきらりと光る。

私は少し緊張して、エプロンの端を握った。

「レシピはありますけど、あくまで目安です」

講師が微笑む。

「味は、正解が一つじゃありません」

正解が、一つじゃない。

その言葉が、胸のどこかに落ちた。

隣の女性が声をかけてくる。

「いつもご主人、作られるんですか?」

「最近は……そうですね」

「いいですねえ。うちは台所に入ってくれなくて」

私は曖昧に笑う。

いいですね。

その言葉に、少しだけ苦味が混じる。

鍋に出汁を入れる。
昆布のやわらかな匂い。
かつお節を沈めると、ふわりと甘い香りが広がる。

私は塩を、ほんのひとつまみ。

いつもの手の動き。
三十年、繰り返してきた動作。

「味見、どうぞ」

講師が一人一人の鍋をのぞいて回る。

隣の人の鍋からは、濃い醤油の匂いが立ち上る。
甘くて強い香り。

「しっかりした味ですね」

講師がうなずく。

私の番が来る。

「失礼しますね」

おたまですくい、口に運ぶ。

私は息を止める。

沈黙。

ほんの数秒なのに、長い。

「……ああ」

小さな吐息。

「優しい」

その一言が、静かに落ちる。

「素材の味をちゃんと生かしてる」

生かしてる。

「出汁の取り方、丁寧ですね」

胸が、じわりと温かくなる。

「どなたかの健康を考えて、長く作ってきた味でしょう?」

私は思わず顔を上げる。

「どうして……」

「伝わります」

伝わる。

その言葉が、喉の奥で震える。

「派手じゃないけど、芯がある味です」

芯。

私は、初めて自分の鍋を見つめる。

大根は淡い色のまま。
人参はやわらかな橙色。
出汁は澄んでいる。

「あなたの味、好きです」

好き。

その瞬間、何かがほどけた。

私は、誰かの妻でもなく、
誰かの補助でもなく、
ただ、私として立っている。

「ありがとうございます」

声がかすれる。

「いいえ。本当に」

講師の目が、まっすぐ私を見る。

評価ではない。
比較でもない。

好き。

ただ、それだけ。

隣の女性が小声で言う。

「ほっとする味ですね」

ほっとする。

私は、笑う。

涙が、にじむ。

慌てて拭う。

「大丈夫ですか?」

「いえ、ちょっと……」

湯気が目にしみただけ、と言い訳しそうになって、やめる。

湯気じゃない。

胸の奥から、じんわりと熱がこみ上げている。

「長く作ってきた味って、宝物ですよ」

講師が言う。

宝物。

三十年。

朝の味噌汁。
夜の煮物。
焦げた卵焼き。

それは、誰かのためだけのものだと思っていた。

「自分のためにも、作っていいんですよ」

自分のため。

その言葉に、呼吸が浅くなる。

私は、自分のために作ったことがあっただろうか。

「味って、不思議ですよね」

講師が続ける。

「その人の生き方が出るんです」

生き方。

私の生き方。

守ること。
支えること。
目立たないこと。

でも今、この鍋は、私のものだ。

「もう一口、いただいても?」

講師が笑う。

「どうぞ」

私は、自分の鍋からすくう。

出汁の香りが立ち上る。
やわらかい湯気が、頬をなでる。

「やっぱり好き」

その言葉が、春の風みたいに軽い。

胸の奥で、小さな芽が動く。

ぐっと土を押し上げるように。

「今度、ご主人にも食べさせてあげてください」

その一言に、私は少しだけ考える。

食べさせる。

評価を待つためではなく。

ただ、味わってもらうために。

「はい」

うなずく。

帰り道、空気がやわらかい。

まだ寒いけれど、どこかに土の匂いが混じっている。

私は、自分の手を見る。

火傷の跡。
節の張った指。

この手は、ちゃんと生きてきた。

「あなたの味、好きです」

その声が、まだ耳の奥で響いている。

初めて、“個人”として呼ばれた。

誰かの後ろではなく、
誰かの横でもなく。

ただ、私。

涙が、またにじむ。

でも今度は、温かい。

胸の奥で、小さな芽が、確かに伸びている。

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