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第一部:夫視点(第1話~第10話)
第九話 宣言
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第九話 宣言
その日は、雨だった。
窓ガラスを細かく叩く水音が、途切れなく続いている。空は低く、重たい灰色。夕方だというのに、部屋の中は薄暗い。
俺は台所で、鍋をかき回していた。肉じゃがだ。教室で習った通り、乱切りにしたじゃがいも。甘辛い匂いが立ちのぼる。
「今日は完璧だ」
独り言のように呟く。
背後で、椅子を引く音がした。
「あなた」
妻の声は、いつもより低い。
「何だ」
火を止める。ふたを開けると、湯気がふわりと広がる。砂糖と醤油の甘い香りが鼻を満たす。
「少し、話があるの」
「今か? もうすぐできるぞ」
「今」
振り返る。
妻は、食卓に座っている。背筋を伸ばし、両手を膝に置いている。その姿勢は、何かを決めた人のものだ。
「何だよ、改まって」
笑おうとするが、うまくいかない。
雨音が、急に大きく聞こえる。
俺は向かいに座る。椅子の脚が床をこすり、きしむ。
妻は、ゆっくり息を吸った。
「離婚はしません。でも、別居します」
空気が、止まった。
耳鳴りがする。遠くで、鍋の中の汁がまだ小さく音を立てている。
「……は?」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
「離婚しないのに、別居?」
「ええ」
胸の奥が、氷のように冷える。
「冗談だろ」
「冗談で言わないわ」
妻の目は、まっすぐだ。揺れていない。
「何が不満だ」
「不満というより」
「金か? 足りないなら言え」
「お金じゃない」
「じゃあ、何だ」
声が荒くなる。
雨音が、激しくなる。
「あなたは、変わった」
「変わった?」
「うん」
「どこが」
「料理教室に通うようになってから」
胸がざわつく。
「それの何が悪い」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ、何が問題なんだ」
妻は、指を組み直す。
「あなた、私を少しずつ見下すようになった」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「見下す? 俺が?」
「うん」
「そんなわけないだろ」
「味がぼやけてる、とか」
「それは事実だ」
「切り方が違う、とか」
「理屈の話だ」
「理屈」
妻は小さく笑う。
「私は、理屈であなたのご飯を作ってきたわけじゃない」
「何を言ってるんだ」
手のひらが、じっとりと汗ばむ。
「あなたの健康のために、ずっと薄味にしてきた」
「知ってる」
「でもあなたは、最近、それを“物足りない”って言う」
喉が乾く。
「俺は、もっと良くしたいだけだ」
「私は、これでよかったの」
「じゃあ、俺が努力するのがいけないのか」
「そうじゃない」
妻の声は静かだ。
「あなたは挑戦してる」
「そうだ」
「でもね」
間が落ちる。
「私は、評価される側になった」
言葉の意味が、すぐには飲み込めない。
「何だそれ」
「あなたは先生みたいに説明する。私は生徒みたいに聞く」
「そんなつもりはない」
「つもりは、なくても」
雨が、窓を打つ。
俺の体が、じわじわと冷えていく。
「別居って、どこに行くんだ」
「駅の近くに、小さなアパートを借りる」
「借りる?」
「もう契約した」
心臓が、強く打つ。
「相談もなく?」
「話そうとしたわ」
「いつだ」
「何度も」
思い出せない。
俺は、何を聞いてきた。
「俺は……」
言葉が出ない。
妻は立ち上がる。
「離婚はしない」
「なぜ」
「縁を切りたいわけじゃないから」
「じゃあ、なぜ離れる」
「距離が必要なの」
距離。
その言葉が、部屋を凍らせる。
「俺は邪魔か」
「違う」
「じゃあ、何だ」
妻は静かに言う。
「あなたがいない場所で、私は私でいたいの」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
鍋の中の肉じゃがが、静かに冷えていく。
甘い匂いが、少し重い。
俺は、動けない。
手も足も、凍りついたようだ。
別居。
その二文字が、頭の中で何度も反響する。
雨は、止まない。
その日は、雨だった。
窓ガラスを細かく叩く水音が、途切れなく続いている。空は低く、重たい灰色。夕方だというのに、部屋の中は薄暗い。
俺は台所で、鍋をかき回していた。肉じゃがだ。教室で習った通り、乱切りにしたじゃがいも。甘辛い匂いが立ちのぼる。
「今日は完璧だ」
独り言のように呟く。
背後で、椅子を引く音がした。
「あなた」
妻の声は、いつもより低い。
「何だ」
火を止める。ふたを開けると、湯気がふわりと広がる。砂糖と醤油の甘い香りが鼻を満たす。
「少し、話があるの」
「今か? もうすぐできるぞ」
「今」
振り返る。
妻は、食卓に座っている。背筋を伸ばし、両手を膝に置いている。その姿勢は、何かを決めた人のものだ。
「何だよ、改まって」
笑おうとするが、うまくいかない。
雨音が、急に大きく聞こえる。
俺は向かいに座る。椅子の脚が床をこすり、きしむ。
妻は、ゆっくり息を吸った。
「離婚はしません。でも、別居します」
空気が、止まった。
耳鳴りがする。遠くで、鍋の中の汁がまだ小さく音を立てている。
「……は?」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
「離婚しないのに、別居?」
「ええ」
胸の奥が、氷のように冷える。
「冗談だろ」
「冗談で言わないわ」
妻の目は、まっすぐだ。揺れていない。
「何が不満だ」
「不満というより」
「金か? 足りないなら言え」
「お金じゃない」
「じゃあ、何だ」
声が荒くなる。
雨音が、激しくなる。
「あなたは、変わった」
「変わった?」
「うん」
「どこが」
「料理教室に通うようになってから」
胸がざわつく。
「それの何が悪い」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ、何が問題なんだ」
妻は、指を組み直す。
「あなた、私を少しずつ見下すようになった」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「見下す? 俺が?」
「うん」
「そんなわけないだろ」
「味がぼやけてる、とか」
「それは事実だ」
「切り方が違う、とか」
「理屈の話だ」
「理屈」
妻は小さく笑う。
「私は、理屈であなたのご飯を作ってきたわけじゃない」
「何を言ってるんだ」
手のひらが、じっとりと汗ばむ。
「あなたの健康のために、ずっと薄味にしてきた」
「知ってる」
「でもあなたは、最近、それを“物足りない”って言う」
喉が乾く。
「俺は、もっと良くしたいだけだ」
「私は、これでよかったの」
「じゃあ、俺が努力するのがいけないのか」
「そうじゃない」
妻の声は静かだ。
「あなたは挑戦してる」
「そうだ」
「でもね」
間が落ちる。
「私は、評価される側になった」
言葉の意味が、すぐには飲み込めない。
「何だそれ」
「あなたは先生みたいに説明する。私は生徒みたいに聞く」
「そんなつもりはない」
「つもりは、なくても」
雨が、窓を打つ。
俺の体が、じわじわと冷えていく。
「別居って、どこに行くんだ」
「駅の近くに、小さなアパートを借りる」
「借りる?」
「もう契約した」
心臓が、強く打つ。
「相談もなく?」
「話そうとしたわ」
「いつだ」
「何度も」
思い出せない。
俺は、何を聞いてきた。
「俺は……」
言葉が出ない。
妻は立ち上がる。
「離婚はしない」
「なぜ」
「縁を切りたいわけじゃないから」
「じゃあ、なぜ離れる」
「距離が必要なの」
距離。
その言葉が、部屋を凍らせる。
「俺は邪魔か」
「違う」
「じゃあ、何だ」
妻は静かに言う。
「あなたがいない場所で、私は私でいたいの」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
鍋の中の肉じゃがが、静かに冷えていく。
甘い匂いが、少し重い。
俺は、動けない。
手も足も、凍りついたようだ。
別居。
その二文字が、頭の中で何度も反響する。
雨は、止まない。
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