『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

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第一部:夫視点(第1話~第10話)

第九話 宣言

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第九話 宣言

 その日は、雨だった。

 窓ガラスを細かく叩く水音が、途切れなく続いている。空は低く、重たい灰色。夕方だというのに、部屋の中は薄暗い。

 俺は台所で、鍋をかき回していた。肉じゃがだ。教室で習った通り、乱切りにしたじゃがいも。甘辛い匂いが立ちのぼる。

「今日は完璧だ」

 独り言のように呟く。

 背後で、椅子を引く音がした。

「あなた」

 妻の声は、いつもより低い。

「何だ」

 火を止める。ふたを開けると、湯気がふわりと広がる。砂糖と醤油の甘い香りが鼻を満たす。

「少し、話があるの」

「今か? もうすぐできるぞ」

「今」

 振り返る。

 妻は、食卓に座っている。背筋を伸ばし、両手を膝に置いている。その姿勢は、何かを決めた人のものだ。

「何だよ、改まって」

 笑おうとするが、うまくいかない。

 雨音が、急に大きく聞こえる。

 俺は向かいに座る。椅子の脚が床をこすり、きしむ。

 妻は、ゆっくり息を吸った。

「離婚はしません。でも、別居します」

 空気が、止まった。

 耳鳴りがする。遠くで、鍋の中の汁がまだ小さく音を立てている。

「……は?」

 声が出るまで、少し時間がかかった。

「どういう意味だ」

「そのままの意味よ」

「離婚しないのに、別居?」

「ええ」

 胸の奥が、氷のように冷える。

「冗談だろ」

「冗談で言わないわ」

 妻の目は、まっすぐだ。揺れていない。

「何が不満だ」

「不満というより」

「金か? 足りないなら言え」

「お金じゃない」

「じゃあ、何だ」

 声が荒くなる。

 雨音が、激しくなる。

「あなたは、変わった」

「変わった?」

「うん」

「どこが」

「料理教室に通うようになってから」

 胸がざわつく。

「それの何が悪い」

「悪いとは言ってない」

「じゃあ、何が問題なんだ」

 妻は、指を組み直す。

「あなた、私を少しずつ見下すようになった」

 その言葉が、胸に突き刺さる。

「見下す? 俺が?」

「うん」

「そんなわけないだろ」

「味がぼやけてる、とか」

「それは事実だ」

「切り方が違う、とか」

「理屈の話だ」

「理屈」

 妻は小さく笑う。

「私は、理屈であなたのご飯を作ってきたわけじゃない」

「何を言ってるんだ」

 手のひらが、じっとりと汗ばむ。

「あなたの健康のために、ずっと薄味にしてきた」

「知ってる」

「でもあなたは、最近、それを“物足りない”って言う」

 喉が乾く。

「俺は、もっと良くしたいだけだ」

「私は、これでよかったの」

「じゃあ、俺が努力するのがいけないのか」

「そうじゃない」

 妻の声は静かだ。

「あなたは挑戦してる」

「そうだ」

「でもね」

 間が落ちる。

「私は、評価される側になった」

 言葉の意味が、すぐには飲み込めない。

「何だそれ」

「あなたは先生みたいに説明する。私は生徒みたいに聞く」

「そんなつもりはない」

「つもりは、なくても」

 雨が、窓を打つ。

 俺の体が、じわじわと冷えていく。

「別居って、どこに行くんだ」

「駅の近くに、小さなアパートを借りる」

「借りる?」

「もう契約した」

 心臓が、強く打つ。

「相談もなく?」

「話そうとしたわ」

「いつだ」

「何度も」

 思い出せない。

 俺は、何を聞いてきた。

「俺は……」

 言葉が出ない。

 妻は立ち上がる。

「離婚はしない」

「なぜ」

「縁を切りたいわけじゃないから」

「じゃあ、なぜ離れる」

「距離が必要なの」

 距離。

 その言葉が、部屋を凍らせる。

「俺は邪魔か」

「違う」

「じゃあ、何だ」

 妻は静かに言う。

「あなたがいない場所で、私は私でいたいの」

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 鍋の中の肉じゃがが、静かに冷えていく。

 甘い匂いが、少し重い。

 俺は、動けない。

 手も足も、凍りついたようだ。

 別居。

 その二文字が、頭の中で何度も反響する。

 雨は、止まない。

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