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第二部:妻視点(第11話~第20話)
余章二 熟年別居される男
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余章二 熟年別居される男
「なあ……俺みたいなのが、一番多いのか?」
夫は湯のみを両手で包みながら言った。
湯気が、ふわりと眼鏡を曇らせる。
妻のアパートの小さなテーブル。
窓の外では、春の風が洗濯物を揺らしている。
「どういうの?」
妻は急須から茶を注ぐ。
とく、とく、と静かな音。
「熟年別居される夫」
言いにくそうに、けれど冗談にはしない声。
妻は少しだけ考え、向かいに座る。
「特徴、知りたいの?」
「知りたい」
真面目な目。
「聞いて、傷つかない?」
「もう十分、傷ついた」
その言い方に、妻は小さく息を吐く。
「じゃあ、言うわね」
沈黙。
「まずね」
妻は湯のみを口に運ぶ。
ほうじ茶の香ばしい匂いが、ふわりと広がる。
「感謝を、言わない」
夫の指がぴくりと動く。
「……言ってたつもりだ」
「“うまい”は言ってた」
「それじゃ、だめか」
「足りない」
静かな声。
「“ありがとう”って、言わなかった」
夫は目を伏せる。
台所の音がよみがえる。
箸の触れ合う音。
新聞をめくる音。
ありがとう。
確かに、あまり言っていない。
「次」
妻は続ける。
「家事に無関心」
「俺、料理やったじゃないか」
「やったわね」
少し笑う。
「でもね、“やってあげてる”だった」
夫の喉が、ごくりと鳴る。
「洗濯、掃除、買い物、献立」
指折り数える。
「料理は、その一部」
「……」
「あなたは、楽しいところだけ取った」
じわりと、言葉が沁みる。
「あとね、会話が少ない」
「え?」
「あなた、仕事の話はする。でも、私の話は?」
思い出そうとするが、うまく出てこない。
「聞いてなかったわけじゃ」
「覚えてる?」
問いが、やわらかく刺さる。
「私が、更年期でつらかったとき」
沈黙。
夫は、視線を落とす。
「……正直、よくわかってなかった」
「そう」
妻はうなずく。
責める声ではない。
ただ、事実。
「定年になって、時間ができたでしょう?」
「ああ」
「それまで見えなかったものが、急に見えるの」
春の光が、テーブルに落ちる。
「“老後を共に過ごす意味があるか”って、考える時間ができる」
夫は、手のひらを見つめる。
節くれ立った指。
「俺は……意味、なかったか」
「そんなこと言ってない」
すぐに返す。
「意味はあった。でも、私だけが頑張ってる感じだった」
胸の奥が、ひりつく。
「趣味に逃げる人も多いわ」
妻が続ける。
「ゴルフ、釣り、テレビ。家にいるのに、いない」
「俺、仕事が趣味みたいなもんだった」
「そうね」
「退職したら、空っぽだった」
その言葉が、ようやく出る。
空っぽ。
「だから料理で埋めた?」
「……たぶん」
妻は静かにうなずく。
「それ自体は、悪くない」
「でも?」
「私を踏み台にしたら、だめ」
空気が、ぴんと張る。
「踏み台……」
「あなた、上司だった」
あの台所。
「評価する側」
夫は、苦く笑う。
「会社の癖が抜けなかった」
「癖は、相手を傷つけることもある」
遠くで、子どもの笑い声が聞こえる。
「モラハラや不倫で別れる人もいる」
妻が言う。
「あなたは、そこまでじゃない」
「ほっとしていいのか」
「していいわ」
少し、笑う。
「でもね」
妻は、夫をまっすぐ見る。
「一番多いのは、“悪い人じゃない夫”」
その言葉が、深く沈む。
「悪くない。でも、寂しい」
風が、カーテンを揺らす。
「妻が、“この人と二人きりで老後?”って思ったとき」
「……」
「怖くなるの」
夫は目を閉じる。
自分と、二人きり。
評価し、指示し、無意識に上に立つ男と。
「俺、怖い存在だったか」
「怖い、というより」
妻は少し考える。
「重かった」
重い。
その言葉は、胸にずしりと落ちる。
「じゃあ、どうすればいい」
素直な声。
「変わるしかない」
「変わってる、つもりだ」
「つもりじゃなくて、続けるの」
湯のみを置く。
「感謝を言う。話を聞く。上下を作らない」
ひとつひとつ、静かに。
「家事は、“手伝う”じゃなくて、“自分のこと”」
夫は、深く息を吸う。
春の匂い。
「……やり直せるか」
「やり直しじゃない」
妻は首を振る。
「今から、別の形を作るの」
窓の外で、芽吹いたハーブが揺れる。
「熟年別居される夫の特徴?」
妻は、最後に言う。
「悪人じゃないのに、気づくのが遅い人」
夫は、苦笑する。
「俺だな」
「でも」
妻は少しだけ微笑む。
「気づいた人は、少数派」
沈黙のあと、夫がぽつりと言う。
「……ありがとう」
その言葉は、ぎこちない。
でも、はっきりしている。
妻は頷く。
「どういたしまして」
春の光が、二人の間に落ちる。
距離はある。
けれど、前より少しだけ、軽い。
「なあ……俺みたいなのが、一番多いのか?」
夫は湯のみを両手で包みながら言った。
湯気が、ふわりと眼鏡を曇らせる。
妻のアパートの小さなテーブル。
窓の外では、春の風が洗濯物を揺らしている。
「どういうの?」
妻は急須から茶を注ぐ。
とく、とく、と静かな音。
「熟年別居される夫」
言いにくそうに、けれど冗談にはしない声。
妻は少しだけ考え、向かいに座る。
「特徴、知りたいの?」
「知りたい」
真面目な目。
「聞いて、傷つかない?」
「もう十分、傷ついた」
その言い方に、妻は小さく息を吐く。
「じゃあ、言うわね」
沈黙。
「まずね」
妻は湯のみを口に運ぶ。
ほうじ茶の香ばしい匂いが、ふわりと広がる。
「感謝を、言わない」
夫の指がぴくりと動く。
「……言ってたつもりだ」
「“うまい”は言ってた」
「それじゃ、だめか」
「足りない」
静かな声。
「“ありがとう”って、言わなかった」
夫は目を伏せる。
台所の音がよみがえる。
箸の触れ合う音。
新聞をめくる音。
ありがとう。
確かに、あまり言っていない。
「次」
妻は続ける。
「家事に無関心」
「俺、料理やったじゃないか」
「やったわね」
少し笑う。
「でもね、“やってあげてる”だった」
夫の喉が、ごくりと鳴る。
「洗濯、掃除、買い物、献立」
指折り数える。
「料理は、その一部」
「……」
「あなたは、楽しいところだけ取った」
じわりと、言葉が沁みる。
「あとね、会話が少ない」
「え?」
「あなた、仕事の話はする。でも、私の話は?」
思い出そうとするが、うまく出てこない。
「聞いてなかったわけじゃ」
「覚えてる?」
問いが、やわらかく刺さる。
「私が、更年期でつらかったとき」
沈黙。
夫は、視線を落とす。
「……正直、よくわかってなかった」
「そう」
妻はうなずく。
責める声ではない。
ただ、事実。
「定年になって、時間ができたでしょう?」
「ああ」
「それまで見えなかったものが、急に見えるの」
春の光が、テーブルに落ちる。
「“老後を共に過ごす意味があるか”って、考える時間ができる」
夫は、手のひらを見つめる。
節くれ立った指。
「俺は……意味、なかったか」
「そんなこと言ってない」
すぐに返す。
「意味はあった。でも、私だけが頑張ってる感じだった」
胸の奥が、ひりつく。
「趣味に逃げる人も多いわ」
妻が続ける。
「ゴルフ、釣り、テレビ。家にいるのに、いない」
「俺、仕事が趣味みたいなもんだった」
「そうね」
「退職したら、空っぽだった」
その言葉が、ようやく出る。
空っぽ。
「だから料理で埋めた?」
「……たぶん」
妻は静かにうなずく。
「それ自体は、悪くない」
「でも?」
「私を踏み台にしたら、だめ」
空気が、ぴんと張る。
「踏み台……」
「あなた、上司だった」
あの台所。
「評価する側」
夫は、苦く笑う。
「会社の癖が抜けなかった」
「癖は、相手を傷つけることもある」
遠くで、子どもの笑い声が聞こえる。
「モラハラや不倫で別れる人もいる」
妻が言う。
「あなたは、そこまでじゃない」
「ほっとしていいのか」
「していいわ」
少し、笑う。
「でもね」
妻は、夫をまっすぐ見る。
「一番多いのは、“悪い人じゃない夫”」
その言葉が、深く沈む。
「悪くない。でも、寂しい」
風が、カーテンを揺らす。
「妻が、“この人と二人きりで老後?”って思ったとき」
「……」
「怖くなるの」
夫は目を閉じる。
自分と、二人きり。
評価し、指示し、無意識に上に立つ男と。
「俺、怖い存在だったか」
「怖い、というより」
妻は少し考える。
「重かった」
重い。
その言葉は、胸にずしりと落ちる。
「じゃあ、どうすればいい」
素直な声。
「変わるしかない」
「変わってる、つもりだ」
「つもりじゃなくて、続けるの」
湯のみを置く。
「感謝を言う。話を聞く。上下を作らない」
ひとつひとつ、静かに。
「家事は、“手伝う”じゃなくて、“自分のこと”」
夫は、深く息を吸う。
春の匂い。
「……やり直せるか」
「やり直しじゃない」
妻は首を振る。
「今から、別の形を作るの」
窓の外で、芽吹いたハーブが揺れる。
「熟年別居される夫の特徴?」
妻は、最後に言う。
「悪人じゃないのに、気づくのが遅い人」
夫は、苦笑する。
「俺だな」
「でも」
妻は少しだけ微笑む。
「気づいた人は、少数派」
沈黙のあと、夫がぽつりと言う。
「……ありがとう」
その言葉は、ぎこちない。
でも、はっきりしている。
妻は頷く。
「どういたしまして」
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距離はある。
けれど、前より少しだけ、軽い。
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