『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

かおるこ

文字の大きさ
1 / 25

『草木萌動』 六十六歳、春を待つ

しおりを挟む
『草木萌動』

六十六歳、春を待つ

 

退職の日に抱えた花束は
思ったよりも軽かった。

三十年分の重さは
肩ではなく、
名刺のほうに宿っていたらしい。

 

朝、スーツを着ないというだけで
世界はこんなにも
静かになるのか。

湯気の立つ味噌汁の向こうで
妻が笑う。

その笑顔を
守ってきたつもりだった。

 

五年目の健康診断。
高血圧。高脂肪。

「食事に気をつけてください」

あの日から
塩は少しずつ減り、
出汁は深くなり、
野菜は母の教え通り
同じ大きさに切り揃えられた。

むらなく火を入れる。
むらなく、愛を通す。

俺はただ
「うまい」と言っていた。

 

料理教室で
包丁を握り直した。

褒められた。
拍手をもらった。

久しぶりに
名前で呼ばれた。

その帰り道、
自分が少し若返った気がした。

 

「その切り方は違うよ」

軽いひと言だった。
塩よりも、ずっと強い。

 

片付けは彼女。
食器も、油も、
俺の自尊心の後始末も。

 

気づけば
台所で天下を取ったつもりでいた。

だが
城だと思っていた場所は
彼女の庭だったのだ。

 

沖縄の海で
彼女は泣いた。

「なんでもない」

波の音が
俺の問いをさらっていった。

 

「離婚はしません。でも、別居します」

その言葉は
冬の土のように固かった。

 

小さなアパートの窓辺で
彼女は
一人分の味噌汁を温める。

出汁の香りが
彼女自身を抱きしめる。

 

庭に芽が出ている。

誰に褒められなくても
誰に評価されなくても
草は芽吹く。

 

俺は
一人で煮物を作る。

乱切り。
不揃い。
火の通りもまばら。

それでも
湯気の向こうに
三十年分の時間が立ちのぼる。

 

薄味とは
我慢ではなかった。

思いやりの
濃度だったのだ。

 

メールを書く。

「今日、煮物を作った」

しばらくして
短い返事が届く。

「春ですね」

 

離れても
同じ空の下で
同じ季節を待つ。

 

草木萌動。

土の下で
長く、静かに
耐えていたものだけが

やがて
やわらかな緑になる。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

抱きしめて

麻実
恋愛
夫の長期に亘る不倫に 女としての自信を失った妻は、新しい出会いに飛び込んでいく。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

処理中です...