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第1話「内裏雛の椅子」
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第1話「内裏雛の椅子」
桃の枝が活けられた玄関ホールは、砂糖菓子のように甘い匂いで満ちていた。磨き上げられた大理石の床は、天井のシャンデリアを映し込み、足元がふわりと浮くように錯覚させる。月額二百万円の静寂は、音まで選別しているらしい。車椅子の軋みも、スリッパの擦れる音も、どこか遠慮がちだ。
その中央、金屏風の前に据えられた一段高い椅子に、黒川静雄は座っていた。背筋はまだ真っ直ぐで、燕尾服の襟元には薄くコロンの残り香。柑橘に似た、乾いた匂い。
「今年も私が内裏雛か」
低く、よく通る声。周囲の視線が、彼の白い手袋に吸い寄せられる。
「当然でございますわ、黒川様」
隣で微笑む白川綾は、絹の着物の袖を静かに整えた。淡い桃色が、彼女の皺の刻まれた指先をやわらかく包む。香木のような、落ち着いた香りが近くに立つ者の呼吸を遅らせる。
「ここは秩序が命ですもの」
「秩序、か」
黒川は小さく笑う。笑い声は乾いていて、それでも周囲を安心させる響きを持っていた。
そのとき、自動ドアがひらいた。外気の冷たい匂いが一瞬だけ流れ込む。ヒールの音。細く、迷いのない音。
桐生麗子は、黒のワンピースに身を包み、真紅の口紅をひいていた。七十二歳という数字が、彼女の背中には貼られていない。香水は少し強め。甘く、どこか危険な匂い。
受付の職員が慌てる。
「本日ご入居の、桐生様です」
視線が集まる。値踏みする視線。撫でるような視線。拒む視線。
麗子は一瞬でそれを飲み込んだ。空気の粘度、温度、甘さ。どれも、夜の銀座と大差ない。
「ここ、王国ね」
ぽつり、と言った声が、やけに澄んでいた。
白川が目を細める。
「ようこそ。わたくし、白川と申します」
「存じてますわ。寄付金ランキング、一位の奥様でしょう?」
微笑みの下で、空気がきしむ。
黒川が麗子を見上げる。
「あなたは?」
「桐生麗子。夜の街で、少しだけ王様を転がしてましたの」
「転がす?」
「ええ。手のひらで」
周囲から小さな笑いがこぼれる。だが、それはすぐに消える。誰もが、彼女の声の奥にある硬質な何かを感じ取っていた。
数日後、ひな祭り仮席次の発表の日。ホールには甘酒の湯気が立ちのぼり、ほのかな米の匂いが漂う。手が震える者もいる。耳鳴りがする者もいる。椅子に腰かける順番ひとつで、夕食の席、医師の優先診察、家族の面会態度まで変わるのだ。
職員が読み上げる。
「内裏雛――黒川静雄様」
拍手。規律正しい拍手。
「隣席――白川綾様」
絹が擦れる音。
麗子は静かに甘酒を口に含む。ぬるい。舌に残る甘さが、どこか安っぽい。
「三人官女、末席――桐生麗子様」
一瞬、ざわめきが走る。
麗子は杯を置いた。陶器がテーブルに触れる音が、やけに澄んで響く。
「末席、ですって?」
職員が恐縮した顔をする。
「はい、入居順と資産評価をもとに――」
「資産評価?」
麗子は立ち上がる。ヒールが床を叩く。
「あなた方、数字で人を測るのはお好きね」
黒川が静かに言う。
「この場所は、実績で決まる」
「実績?」
麗子は笑う。真紅の唇がゆっくりと弧を描く。
「わたしの実績は、ここにいる何人かの息子さん方がよくご存じよ」
息を呑む音。誰かが咳払いをする。
白川が柔らかく口を挟む。
「桐生様、ここは夜の街ではありませんの」
「ええ、だから面白いのよ」
麗子は黒川を見据える。
「黒川様、王様ってね、座っているだけじゃ続かないの」
「ほう」
「皆が見てくれなくなった瞬間、ただの老人よ」
沈黙が落ちる。シャンデリアの灯りが揺れる。
「あなた、何が望みだ」
黒川の声は低い。
「一年で頂点、取るわよ」
はっきりと言い切る。その声は甘酒の甘さを切り裂き、桃の花の匂いを追い払う。
「面白い」
黒川の目がわずかに光る。
「ではやってみるがいい」
「ええ。王国には革命が必要でしょう?」
白川が微笑む。
「革命は、往々にして自滅しますのよ」
「そうかしら。わたしはいつも、生き残る側だったわ」
麗子は席に戻る。三段目、端の椅子。クッションは上等だが、わずかに冷たい。
指先で布地をなぞる。ざらりとした感触。ここから始めるのだと、身体が知る。
ホールに琴の音が流れ始める。ゆったりとした旋律。だが麗子の鼓動は、それよりも速い。
王国は甘く、冷たい。
けれど彼女は、その味を知っている。
視線を感じる。敵意も、好奇心も、恐れも。
麗子は小さく笑った。
「いいじゃない」
胸の奥で、かつての銀座の灯りがともる。
「ここも、夜になるわよ」
桃の枝が活けられた玄関ホールは、砂糖菓子のように甘い匂いで満ちていた。磨き上げられた大理石の床は、天井のシャンデリアを映し込み、足元がふわりと浮くように錯覚させる。月額二百万円の静寂は、音まで選別しているらしい。車椅子の軋みも、スリッパの擦れる音も、どこか遠慮がちだ。
その中央、金屏風の前に据えられた一段高い椅子に、黒川静雄は座っていた。背筋はまだ真っ直ぐで、燕尾服の襟元には薄くコロンの残り香。柑橘に似た、乾いた匂い。
「今年も私が内裏雛か」
低く、よく通る声。周囲の視線が、彼の白い手袋に吸い寄せられる。
「当然でございますわ、黒川様」
隣で微笑む白川綾は、絹の着物の袖を静かに整えた。淡い桃色が、彼女の皺の刻まれた指先をやわらかく包む。香木のような、落ち着いた香りが近くに立つ者の呼吸を遅らせる。
「ここは秩序が命ですもの」
「秩序、か」
黒川は小さく笑う。笑い声は乾いていて、それでも周囲を安心させる響きを持っていた。
そのとき、自動ドアがひらいた。外気の冷たい匂いが一瞬だけ流れ込む。ヒールの音。細く、迷いのない音。
桐生麗子は、黒のワンピースに身を包み、真紅の口紅をひいていた。七十二歳という数字が、彼女の背中には貼られていない。香水は少し強め。甘く、どこか危険な匂い。
受付の職員が慌てる。
「本日ご入居の、桐生様です」
視線が集まる。値踏みする視線。撫でるような視線。拒む視線。
麗子は一瞬でそれを飲み込んだ。空気の粘度、温度、甘さ。どれも、夜の銀座と大差ない。
「ここ、王国ね」
ぽつり、と言った声が、やけに澄んでいた。
白川が目を細める。
「ようこそ。わたくし、白川と申します」
「存じてますわ。寄付金ランキング、一位の奥様でしょう?」
微笑みの下で、空気がきしむ。
黒川が麗子を見上げる。
「あなたは?」
「桐生麗子。夜の街で、少しだけ王様を転がしてましたの」
「転がす?」
「ええ。手のひらで」
周囲から小さな笑いがこぼれる。だが、それはすぐに消える。誰もが、彼女の声の奥にある硬質な何かを感じ取っていた。
数日後、ひな祭り仮席次の発表の日。ホールには甘酒の湯気が立ちのぼり、ほのかな米の匂いが漂う。手が震える者もいる。耳鳴りがする者もいる。椅子に腰かける順番ひとつで、夕食の席、医師の優先診察、家族の面会態度まで変わるのだ。
職員が読み上げる。
「内裏雛――黒川静雄様」
拍手。規律正しい拍手。
「隣席――白川綾様」
絹が擦れる音。
麗子は静かに甘酒を口に含む。ぬるい。舌に残る甘さが、どこか安っぽい。
「三人官女、末席――桐生麗子様」
一瞬、ざわめきが走る。
麗子は杯を置いた。陶器がテーブルに触れる音が、やけに澄んで響く。
「末席、ですって?」
職員が恐縮した顔をする。
「はい、入居順と資産評価をもとに――」
「資産評価?」
麗子は立ち上がる。ヒールが床を叩く。
「あなた方、数字で人を測るのはお好きね」
黒川が静かに言う。
「この場所は、実績で決まる」
「実績?」
麗子は笑う。真紅の唇がゆっくりと弧を描く。
「わたしの実績は、ここにいる何人かの息子さん方がよくご存じよ」
息を呑む音。誰かが咳払いをする。
白川が柔らかく口を挟む。
「桐生様、ここは夜の街ではありませんの」
「ええ、だから面白いのよ」
麗子は黒川を見据える。
「黒川様、王様ってね、座っているだけじゃ続かないの」
「ほう」
「皆が見てくれなくなった瞬間、ただの老人よ」
沈黙が落ちる。シャンデリアの灯りが揺れる。
「あなた、何が望みだ」
黒川の声は低い。
「一年で頂点、取るわよ」
はっきりと言い切る。その声は甘酒の甘さを切り裂き、桃の花の匂いを追い払う。
「面白い」
黒川の目がわずかに光る。
「ではやってみるがいい」
「ええ。王国には革命が必要でしょう?」
白川が微笑む。
「革命は、往々にして自滅しますのよ」
「そうかしら。わたしはいつも、生き残る側だったわ」
麗子は席に戻る。三段目、端の椅子。クッションは上等だが、わずかに冷たい。
指先で布地をなぞる。ざらりとした感触。ここから始めるのだと、身体が知る。
ホールに琴の音が流れ始める。ゆったりとした旋律。だが麗子の鼓動は、それよりも速い。
王国は甘く、冷たい。
けれど彼女は、その味を知っている。
視線を感じる。敵意も、好奇心も、恐れも。
麗子は小さく笑った。
「いいじゃない」
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「ここも、夜になるわよ」
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