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第2話「三人官女の密約」
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第2話「三人官女の密約」
朝のホールは、まだ消毒液の匂いが勝っている。夜の甘酒や香水の残り香は薄まり、代わりに、きりりとしたアルコールの冷たさが鼻を刺す。窓の外には淡い曇天。桃の枝の蕾だけが、季節を主張している。
三人官女の席は、ひな壇の二段目に並ぶ。中央は発言権、右は調整役、左の末席は雑務――と、誰が決めたのか分からない暗黙の了解がある。
麗子は左端に座り、湯呑みの縁を指でなぞった。陶器のざらつき。ぬるい緑茶の渋みが舌に広がる。
「末席は、眺めがいいわね」
隣の官女、元女医の神崎が眉をひそめる。
「強がりはおやめなさい。ここは、実務を握る席よ」
「実務?」
「面会の順番、医師の紹介、レクリエーションの予算配分……。内裏雛は象徴。動かすのは私たち」
神崎の声は低く、薬品棚のように整然としている。
右端の官女、元市議の大村がくすりと笑う。
「桐生さん、ここでは噂話より、議事録が物を言うの」
「へえ」
麗子は目を細める。議事録。数字。決裁印。夜の街とは違う武器だが、本質は同じだ。
「じゃあ、あなたたちが王様の耳なのね」
「そういうこと」
神崎が胸を張る。
「だったら」
麗子は湯呑みを置いた。音が小さく響く。
「耳に何を流すかで、王様の心は動く」
二人の視線が、ぴたりと止まる。
「何が言いたいの?」
大村が問い詰める。
「別に。協力できたら素敵だなって」
麗子は笑う。その笑みは甘いが、奥に刃を隠している。
昼下がり。廊下は柔らかなカーペットの匂いと、ほのかな洗濯洗剤の香りが混ざっている。車椅子を押す若い介護士の背中に、麗子は声をかけた。
「佐伯さん」
振り返った彼は三十代前半。爽やかな整髪料の匂いが、どこか不釣り合いに若い。
「桐生様、何か?」
「様はいらないわ。麗子でいい」
「いえ、それは」
「じゃあ桐生さん。あなた、ここで何年?」
「三年目です」
「三年もいれば、全部知ってるでしょう?」
佐伯の喉が小さく鳴る。
「何を、ですか」
「誰がどの薬を増やしたか。誰が夜中にナースコールを三回押すか。誰が家族に見放されてるか」
言葉は静かだが、鋭い。
「それは守秘義務があります」
「もちろんよ」
麗子は一歩近づく。彼女の香水が、わずかに空気を甘くする。
「でもね、守秘義務と人間観察は別。あなた、観察するでしょう?」
佐伯は視線を逸らす。窓の外、灰色の空。
「……仕事ですから」
「仕事だけ?」
沈黙。廊下の奥で誰かが笑う声。遠くで食器が触れ合う音。
「ここ、息苦しくない?」
麗子の声が、急に柔らかくなる。
「序列、寄付、家柄……。あなたはどこにいるの?」
「僕は、ただの職員です」
「ただの?」
麗子は首を傾げる。
「ここで一番強いのは、情報を持ってる人よ」
佐伯の目が、わずかに揺れる。
「味方になってくれない?」
「味方?」
「王国には、側近が必要でしょう?」
彼は苦く笑う。
「僕が桐生さんの側近?」
「違うわ。あなたは、未来の王様よ」
「……からかわないでください」
「本気よ」
麗子はささやく。
「わたし、頂点を取る。でも一人じゃつまらない」
鼓動が、少し早くなる。自分でも分かる。挑発ではなく、本心が混じっている。
「何をすればいいんですか」
佐伯の声が、わずかに低くなる。
「簡単。席次に影響する材料を教えて。誰が揺れてるか。誰が不安か」
「そんなの、火種になります」
「火は、暖もとれるのよ」
彼は深く息を吐いた。
「……分かりました。でも、危ない橋ですよ」
「橋は渡るためにあるの」
麗子は微笑む。
一方、白川綾は自室で香を焚いていた。沈香の重い匂いが、部屋を満たす。障子越しの光は淡く、柔らかい。
「この人、場数が違う」
小さく呟く。
隣に座る神崎が頷く。
「放っておけば、官女の序列が崩れます」
「崩させないわ」
白川の指が、数珠をなぞる。
「桐生さんは感情を煽る。でも、ここは制度で守られている」
「どうなさるおつもりで?」
「密約よ」
白川は微笑む。その笑みは冷たい水のよう。
「官女は三人。三人で一致すれば、彼女は動けない」
夜。ホールの灯りが落ち、足音が響きやすくなる時間。
三人官女が、ひな壇の前に集まる。薄暗い中、金屏風が鈍く光る。
「桐生さん」
神崎が呼ぶ。
「何かしら?」
「提案があります」
大村が続ける。
「お互い、足を引っ張るのはやめましょう」
「まあ、素敵」
「ただし」
白川の声が割って入る。
「越えてはならない線がある」
麗子は三人を見渡す。沈香と消毒液と、夜の静けさが混ざる匂い。
「線?」
「内裏雛は象徴。そこに直接手を出さないこと」
「ふふ」
麗子は笑う。
「約束は好きよ。でも破る瞬間のほうが、もっと好き」
空気が凍る。
「冗談よ」
そう言いながらも、目は笑っていない。
「一年。わたしは動く。でも、あなたたちを敵にはしない。代わりに――」
「代わりに?」
「情報を共有する。全員で、王国を回す」
沈黙。遠くで時計が鳴る。
「……本気?」
神崎が問う。
「本気よ。だって、わたしたち」
麗子はひな壇を見上げる。
「飾りじゃないでしょう?」
白川はゆっくり息を吐いた。
「いいでしょう。ただし」
「ただし?」
「裏切りは、一度まで」
「優しいのね」
「二度目は、許さない」
麗子は小さく頷く。
「いいわ。密約、成立ね」
三人の影が、金屏風に重なる。四つの影が、ひとつに絡む。
だがその影の下で、それぞれの胸の奥には別々の鼓動が鳴っていた。
甘く、冷たい。
王国の夜は、まだ始まったばかりだ。
朝のホールは、まだ消毒液の匂いが勝っている。夜の甘酒や香水の残り香は薄まり、代わりに、きりりとしたアルコールの冷たさが鼻を刺す。窓の外には淡い曇天。桃の枝の蕾だけが、季節を主張している。
三人官女の席は、ひな壇の二段目に並ぶ。中央は発言権、右は調整役、左の末席は雑務――と、誰が決めたのか分からない暗黙の了解がある。
麗子は左端に座り、湯呑みの縁を指でなぞった。陶器のざらつき。ぬるい緑茶の渋みが舌に広がる。
「末席は、眺めがいいわね」
隣の官女、元女医の神崎が眉をひそめる。
「強がりはおやめなさい。ここは、実務を握る席よ」
「実務?」
「面会の順番、医師の紹介、レクリエーションの予算配分……。内裏雛は象徴。動かすのは私たち」
神崎の声は低く、薬品棚のように整然としている。
右端の官女、元市議の大村がくすりと笑う。
「桐生さん、ここでは噂話より、議事録が物を言うの」
「へえ」
麗子は目を細める。議事録。数字。決裁印。夜の街とは違う武器だが、本質は同じだ。
「じゃあ、あなたたちが王様の耳なのね」
「そういうこと」
神崎が胸を張る。
「だったら」
麗子は湯呑みを置いた。音が小さく響く。
「耳に何を流すかで、王様の心は動く」
二人の視線が、ぴたりと止まる。
「何が言いたいの?」
大村が問い詰める。
「別に。協力できたら素敵だなって」
麗子は笑う。その笑みは甘いが、奥に刃を隠している。
昼下がり。廊下は柔らかなカーペットの匂いと、ほのかな洗濯洗剤の香りが混ざっている。車椅子を押す若い介護士の背中に、麗子は声をかけた。
「佐伯さん」
振り返った彼は三十代前半。爽やかな整髪料の匂いが、どこか不釣り合いに若い。
「桐生様、何か?」
「様はいらないわ。麗子でいい」
「いえ、それは」
「じゃあ桐生さん。あなた、ここで何年?」
「三年目です」
「三年もいれば、全部知ってるでしょう?」
佐伯の喉が小さく鳴る。
「何を、ですか」
「誰がどの薬を増やしたか。誰が夜中にナースコールを三回押すか。誰が家族に見放されてるか」
言葉は静かだが、鋭い。
「それは守秘義務があります」
「もちろんよ」
麗子は一歩近づく。彼女の香水が、わずかに空気を甘くする。
「でもね、守秘義務と人間観察は別。あなた、観察するでしょう?」
佐伯は視線を逸らす。窓の外、灰色の空。
「……仕事ですから」
「仕事だけ?」
沈黙。廊下の奥で誰かが笑う声。遠くで食器が触れ合う音。
「ここ、息苦しくない?」
麗子の声が、急に柔らかくなる。
「序列、寄付、家柄……。あなたはどこにいるの?」
「僕は、ただの職員です」
「ただの?」
麗子は首を傾げる。
「ここで一番強いのは、情報を持ってる人よ」
佐伯の目が、わずかに揺れる。
「味方になってくれない?」
「味方?」
「王国には、側近が必要でしょう?」
彼は苦く笑う。
「僕が桐生さんの側近?」
「違うわ。あなたは、未来の王様よ」
「……からかわないでください」
「本気よ」
麗子はささやく。
「わたし、頂点を取る。でも一人じゃつまらない」
鼓動が、少し早くなる。自分でも分かる。挑発ではなく、本心が混じっている。
「何をすればいいんですか」
佐伯の声が、わずかに低くなる。
「簡単。席次に影響する材料を教えて。誰が揺れてるか。誰が不安か」
「そんなの、火種になります」
「火は、暖もとれるのよ」
彼は深く息を吐いた。
「……分かりました。でも、危ない橋ですよ」
「橋は渡るためにあるの」
麗子は微笑む。
一方、白川綾は自室で香を焚いていた。沈香の重い匂いが、部屋を満たす。障子越しの光は淡く、柔らかい。
「この人、場数が違う」
小さく呟く。
隣に座る神崎が頷く。
「放っておけば、官女の序列が崩れます」
「崩させないわ」
白川の指が、数珠をなぞる。
「桐生さんは感情を煽る。でも、ここは制度で守られている」
「どうなさるおつもりで?」
「密約よ」
白川は微笑む。その笑みは冷たい水のよう。
「官女は三人。三人で一致すれば、彼女は動けない」
夜。ホールの灯りが落ち、足音が響きやすくなる時間。
三人官女が、ひな壇の前に集まる。薄暗い中、金屏風が鈍く光る。
「桐生さん」
神崎が呼ぶ。
「何かしら?」
「提案があります」
大村が続ける。
「お互い、足を引っ張るのはやめましょう」
「まあ、素敵」
「ただし」
白川の声が割って入る。
「越えてはならない線がある」
麗子は三人を見渡す。沈香と消毒液と、夜の静けさが混ざる匂い。
「線?」
「内裏雛は象徴。そこに直接手を出さないこと」
「ふふ」
麗子は笑う。
「約束は好きよ。でも破る瞬間のほうが、もっと好き」
空気が凍る。
「冗談よ」
そう言いながらも、目は笑っていない。
「一年。わたしは動く。でも、あなたたちを敵にはしない。代わりに――」
「代わりに?」
「情報を共有する。全員で、王国を回す」
沈黙。遠くで時計が鳴る。
「……本気?」
神崎が問う。
「本気よ。だって、わたしたち」
麗子はひな壇を見上げる。
「飾りじゃないでしょう?」
白川はゆっくり息を吐いた。
「いいでしょう。ただし」
「ただし?」
「裏切りは、一度まで」
「優しいのね」
「二度目は、許さない」
麗子は小さく頷く。
「いいわ。密約、成立ね」
三人の影が、金屏風に重なる。四つの影が、ひとつに絡む。
だがその影の下で、それぞれの胸の奥には別々の鼓動が鳴っていた。
甘く、冷たい。
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