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第3話「五人囃子の裏切り」
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第3話「五人囃子の裏切り」
ワインの匂いは、夜になると甘くなる。
グランヴィラ桃源のラウンジは、照明を落とすと急に艶を帯びる。金屏風の反射が柔らかくなり、ガラス越しの庭は墨を流したように静まる。グラスの触れ合う音が、乾いた鈴のように響く。
「五人囃子の会」、と誰かが冗談めかして呼び始めたのはいつからだったか。
元国会議員の坂東、元大学教授の加賀谷、元心臓外科医の堂本、元銀行頭取の久我、元新聞主筆の三雲。
今夜も五人は、赤いソファに並んで座っている。胸元にはそれぞれ小さなバッジ。過去の栄光がまだ光っている。
「黒川さんも遅いな」
坂東がボルドーを揺らす。熟した果実の匂いが広がる。
「内裏雛は忙しいんだよ」
加賀谷が鼻で笑う。
そこへ、ゆっくりと黒川静雄が現れた。背筋は伸びているが、歩幅がほんの少し短い。
「待たせたか」
声はいつも通り低い。しかし、どこか息が混じる。
麗子は壁際のテーブルでグラスを持ちながら、そのわずかな違和感を嗅ぎ取っていた。ワインよりもはっきりと。
堂本が立ち上がる。
「会長、お元気そうで」
「当たり前だ」
黒川は座る。グラスを持ち上げる手が、ほんの一瞬、止まる。
「乾杯だ」
グラスが触れ合う。澄んだ音。
坂東が笑う。
「今年も我々は、静雄派だ」
「当然でしょう」
三雲が頷く。
麗子はゆっくりと近づく。
「楽しそうね」
坂東がちらりと見る。
「桐生さん。ここは男の会だよ」
「まあ、差別的」
麗子は微笑む。
「ただの観客よ」
黒川が言う。
「桐生さん、どうだね。三人官女は慣れたか」
「ええ、よく見える席ですもの」
「見える?」
「王様の背中が」
空気が少しだけ硬くなる。
加賀谷が話題を変える。
「ところで黒川さん、先日の理事会の件ですが」
「理事会?」
黒川の眉がわずかに動く。
「先週の」
沈黙。
ワインの香りが急に重く感じられる。
「……ああ、あれか」
黒川は笑う。
だが、麗子は気づく。笑いが一拍遅れている。
堂本がそっと言う。
「大丈夫ですか、最近お疲れでは」
「失礼な」
黒川の声が強まる。しかし語尾がわずかに揺れる。
麗子はグラスを傾ける。酸味が舌に残る。
“弱み”。
夜の街では、声の震え、グラスの持ち方、瞬きの回数で男の真意を読む。
ここでも同じ。
坂東が続ける。
「正直に言いましょう。最近、会長のご判断が……」
「何だと?」
「遅い」
空気が凍る。
庭の方で風が枝を鳴らす。
「失礼ですよ、坂東先生」
堂本がたしなめる。
「いや、事実だ。内裏雛は象徴だが、象徴が揺らげば全体が揺れる」
麗子は静かに言う。
「揺れるのが怖いの?」
全員の視線が集まる。
「桐生さん、口を挟まないでいただきたい」
三雲が鋭く言う。
「挟んでないわ。心配してるだけ」
黒川を見つめる。
「王様は完璧じゃなくていい。でも、弱ってる姿を隠すと、家臣は不安になる」
「私は弱ってなどいない!」
黒川の声が響く。しかしそのあと、言葉が続かない。
久我が低く言う。
「最近、夜中にナースコールを……」
堂本が小さく咳払いする。
麗子はそっと坂東の隣に腰を下ろす。
「あなた方、賢いわね」
「何がだ」
坂東が睨む。
「王様が転びそうだと、いち早く気づく」
「当然だ。我々は現実主義者だ」
「だったら」
麗子はささやく。
「支えるの? それとも、次を探すの?」
坂東の手が止まる。
加賀谷がぼそりと言う。
「時代は移る」
黒川が立ち上がろうとして、わずかにふらつく。堂本が支える。
「大丈夫ですか」
「触るな」
黒川の目に、かすかな焦りが宿る。
麗子はその目を見逃さない。
坂東がグラスを置く。
「……静雄さん」
呼び方が変わる。
「あなたには感謝している。しかし、この王国はあなた一人のものではない」
静寂。
ワインの香りが、急に酸っぱくなる。
「どういう意味だ」
黒川の声は低い。
坂東は息を吸う。
「私は、中立に回る」
言葉が落ちる。
グラスの底に残った赤が、血のように見える。
「裏切るのか」
「裏切りではない。保険だ」
「卑怯者め」
黒川の顔が紅潮する。
麗子は静かに立ち上がる。
「卑怯? いいえ」
坂東を見る。
「賢い選択よ」
五人の視線が揺れる。
堂本がつぶやく。
「ヒエラルキーが……」
加賀谷が続ける。
「動くな」
麗子は微笑む。
「動くのよ。春だもの」
庭の梅が、風に揺れる。
黒川はゆっくりと座り直す。その背中が、ほんの少しだけ小さく見える。
坂東は目を伏せる。
「すまない」
その一言で、王国の空気が変わる。
麗子はグラスを掲げる。
「新しい夜に、乾杯」
誰も笑わない。
だが全員が知っている。
今、ひな壇が、わずかに傾いたことを。
ワインの匂いは、夜になると甘くなる。
グランヴィラ桃源のラウンジは、照明を落とすと急に艶を帯びる。金屏風の反射が柔らかくなり、ガラス越しの庭は墨を流したように静まる。グラスの触れ合う音が、乾いた鈴のように響く。
「五人囃子の会」、と誰かが冗談めかして呼び始めたのはいつからだったか。
元国会議員の坂東、元大学教授の加賀谷、元心臓外科医の堂本、元銀行頭取の久我、元新聞主筆の三雲。
今夜も五人は、赤いソファに並んで座っている。胸元にはそれぞれ小さなバッジ。過去の栄光がまだ光っている。
「黒川さんも遅いな」
坂東がボルドーを揺らす。熟した果実の匂いが広がる。
「内裏雛は忙しいんだよ」
加賀谷が鼻で笑う。
そこへ、ゆっくりと黒川静雄が現れた。背筋は伸びているが、歩幅がほんの少し短い。
「待たせたか」
声はいつも通り低い。しかし、どこか息が混じる。
麗子は壁際のテーブルでグラスを持ちながら、そのわずかな違和感を嗅ぎ取っていた。ワインよりもはっきりと。
堂本が立ち上がる。
「会長、お元気そうで」
「当たり前だ」
黒川は座る。グラスを持ち上げる手が、ほんの一瞬、止まる。
「乾杯だ」
グラスが触れ合う。澄んだ音。
坂東が笑う。
「今年も我々は、静雄派だ」
「当然でしょう」
三雲が頷く。
麗子はゆっくりと近づく。
「楽しそうね」
坂東がちらりと見る。
「桐生さん。ここは男の会だよ」
「まあ、差別的」
麗子は微笑む。
「ただの観客よ」
黒川が言う。
「桐生さん、どうだね。三人官女は慣れたか」
「ええ、よく見える席ですもの」
「見える?」
「王様の背中が」
空気が少しだけ硬くなる。
加賀谷が話題を変える。
「ところで黒川さん、先日の理事会の件ですが」
「理事会?」
黒川の眉がわずかに動く。
「先週の」
沈黙。
ワインの香りが急に重く感じられる。
「……ああ、あれか」
黒川は笑う。
だが、麗子は気づく。笑いが一拍遅れている。
堂本がそっと言う。
「大丈夫ですか、最近お疲れでは」
「失礼な」
黒川の声が強まる。しかし語尾がわずかに揺れる。
麗子はグラスを傾ける。酸味が舌に残る。
“弱み”。
夜の街では、声の震え、グラスの持ち方、瞬きの回数で男の真意を読む。
ここでも同じ。
坂東が続ける。
「正直に言いましょう。最近、会長のご判断が……」
「何だと?」
「遅い」
空気が凍る。
庭の方で風が枝を鳴らす。
「失礼ですよ、坂東先生」
堂本がたしなめる。
「いや、事実だ。内裏雛は象徴だが、象徴が揺らげば全体が揺れる」
麗子は静かに言う。
「揺れるのが怖いの?」
全員の視線が集まる。
「桐生さん、口を挟まないでいただきたい」
三雲が鋭く言う。
「挟んでないわ。心配してるだけ」
黒川を見つめる。
「王様は完璧じゃなくていい。でも、弱ってる姿を隠すと、家臣は不安になる」
「私は弱ってなどいない!」
黒川の声が響く。しかしそのあと、言葉が続かない。
久我が低く言う。
「最近、夜中にナースコールを……」
堂本が小さく咳払いする。
麗子はそっと坂東の隣に腰を下ろす。
「あなた方、賢いわね」
「何がだ」
坂東が睨む。
「王様が転びそうだと、いち早く気づく」
「当然だ。我々は現実主義者だ」
「だったら」
麗子はささやく。
「支えるの? それとも、次を探すの?」
坂東の手が止まる。
加賀谷がぼそりと言う。
「時代は移る」
黒川が立ち上がろうとして、わずかにふらつく。堂本が支える。
「大丈夫ですか」
「触るな」
黒川の目に、かすかな焦りが宿る。
麗子はその目を見逃さない。
坂東がグラスを置く。
「……静雄さん」
呼び方が変わる。
「あなたには感謝している。しかし、この王国はあなた一人のものではない」
静寂。
ワインの香りが、急に酸っぱくなる。
「どういう意味だ」
黒川の声は低い。
坂東は息を吸う。
「私は、中立に回る」
言葉が落ちる。
グラスの底に残った赤が、血のように見える。
「裏切るのか」
「裏切りではない。保険だ」
「卑怯者め」
黒川の顔が紅潮する。
麗子は静かに立ち上がる。
「卑怯? いいえ」
坂東を見る。
「賢い選択よ」
五人の視線が揺れる。
堂本がつぶやく。
「ヒエラルキーが……」
加賀谷が続ける。
「動くな」
麗子は微笑む。
「動くのよ。春だもの」
庭の梅が、風に揺れる。
黒川はゆっくりと座り直す。その背中が、ほんの少しだけ小さく見える。
坂東は目を伏せる。
「すまない」
その一言で、王国の空気が変わる。
麗子はグラスを掲げる。
「新しい夜に、乾杯」
誰も笑わない。
だが全員が知っている。
今、ひな壇が、わずかに傾いたことを。
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