『超高級老人ホームひな祭りカースト』

かおるこ

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第8話「崩れるひな壇」

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第8話「崩れるひな壇」

 雨が降ると、ひな壇の赤は少し暗く見える。

 その日、ホールの窓を打つ雨音が、まるで拍手の代わりのように鳴っていた。入居者たちは静かに集まり、金屏風の前に設えられた椅子を見つめている。中央の一段目――内裏雛の席は、空白だった。

 車椅子がゆっくり進む。

 黒川静雄が現れる。以前よりも白い。以前よりも細い。だが背筋だけは、まだ折れていない。

 「皆さん」

 マイクを握る手がわずかに震える。音が小さくハウリングする。

 「本日をもって、内裏雛の座を退く」

 息を呑む音。甘酒の湯気が、揺れる。

 「王様、ご冗談を」

 坂東が半歩前に出る。

 黒川は首を振る。

 「冗談ではない。王国は、私の記憶と共に曖昧になってはならん」

 その言葉に、空気が重く沈む。

 麗子は胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。勝利ではない。喪失に近い感情。

 白川は目を伏せる。

 「ご決断、尊重いたします」

 黒川はゆっくりと、空席を見つめる。

 「後継は、投票で決めよ」

 ざわめきが一気に広がる。

 「投票?」

 「総選挙?」

 東堂施設長が前に出る。

 「入居者による投票制を実施いたします。内裏雛は、皆様の意思で」

 優雅な拍手が、どこか乾いて響く。

 その夜、ラウンジは異様な熱を帯びた。ワインの匂いが濃く、声が高い。

 「民主主義だと?」

 加賀谷が鼻で笑う。

 坂東はグラスを強く置く。

 「時代に合っている」

 「甘い。人気投票になる」

 堂本が低く言う。

 「だが、象徴には支持が必要だ」

 五人囃子の間に、見えない亀裂が走る。

 麗子がゆっくり近づく。

 「分裂?」

 坂東が苦笑する。

 「我々も、票を持つ一人だ」

 「あなたは誰に入れるの?」

 「まだ決めていない」

 「優柔不断ね」

 麗子は笑う。

 その向こうで、白川が静かに人々に声をかけている。

 「医療設備の更新、覚えていらっしゃるでしょう」

 「ええ、助かってます」

 「財団は、これからも皆様の生活を支えますわ」

 囁きが、柔らかく広がる。

 麗子はその様子を見ながら、ワインを一口飲む。酸味が強い。

 「優雅な民主主義、ね」

 佐伯が近づく。

 「本当にやるんですね」

 「ええ」

 「荒れますよ」

 「荒れるから面白い」

 翌日、投票用紙が配られる。白い紙の匂い。インクの新しさ。

 「一票の重みをお考えください」

 東堂の声が響く。

 廊下では、ひそひそ声。

 「白川様は安定だ」

 「桐生さんは面白い」

 「黒川様が推したのは?」

 五人囃子は完全に割れていた。

 坂東は麗子に言う。

 「私はあなたに入れる」

 「へえ」

 「だが、加賀谷は白川だ」

 「分かってる」

 「票が割れる」

 「それが民主主義よ」

 食堂の空気が、ざらつく。ナイフの音が神経を削る。

 白川が麗子に近づく。

 「あなた、勝てると思って?」

 「思ってないわ」

 「ではなぜ」

 「勝ちたいからじゃない」

 麗子は目を細める。

 「選ばれたいの」

 白川の喉がわずかに動く。

 「承認欲求ですの?」

 「生きてる証明よ」

 投票箱が設置される。木箱の匂い。小さな鍵。

 一人ずつ、紙を折り、落とす。かさり、と音がする。

 その音が、やけに重い。

 夜。

 開票。

 白い紙が机に広げられる。指先が震える。

 「桐生麗子」

 「白川綾」

 「桐生」

 「白川」

 声が交互に響く。

 空気が熱くなる。甘酒の甘さが、喉に絡む。

 坂東が汗を拭う。

 「僅差だ」

 最後の一票。

 東堂が読み上げる。

 沈黙。

 「……同数」

 どよめき。

 「決まらない?」

 「どうする」

 黒川が静かに言う。

 「民主主義は、時に残酷だ」

 麗子と白川が、同時に立ち上がる。

 視線がぶつかる。

 優雅な地獄は、完成した。

 票は平等。だが感情は平等ではない。

 拍手が起きる。どこか空虚な。

 ひな壇は、崩れかけたまま、宙に浮いている。

 雨音が再び強くなる。

 優雅な民主主義は、誰も救わない。

 ただ、全員を巻き込む。

 その夜、王国は静かに震えていた。

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