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第9話「二人の内裏雛」
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第9話「二人の内裏雛」
開票の紙は、まだ机の上に広げられたままだった。
白い紙片が、まるで雪のように散らばっている。インクの匂いが、夜のラウンジに残っている。ワインと甘酒と、湿った絨毯の匂いが混ざり、空気は重い。
「同票、です」
東堂施設長の声が、少しだけ掠れていた。
ざわめきは大きくならない。むしろ、飲み込まれていく。誰もが、自分の胸の鼓動を聞いている。
坂東が低く言う。
「再投票では」
加賀谷が首を振る。
「割れるだけだ」
白川は背筋を伸ばしたまま、微動だにしない。沈香の匂いが、まだ衣に残っている。
麗子はグラスを持ったまま、ゆっくりと呼吸する。舌の上に残るワインの酸味が、妙に苦い。
東堂が口を開く。
「理事会で協議しました」
間。
「今年は――二人内裏雛とします」
空気が、止まる。
「二人?」
「そんな前例は」
「象徴が二人……?」
声が重なり、すぐに静まる。
東堂は続ける。
「共存という形で、新しいひな壇を」
麗子が小さく笑う。
「共存?」
白川が初めて、わずかに眉を動かす。
「つまり、並ぶのですか」
「はい。中央を二分し」
坂東が苦々しく言う。
「優雅な妥協だな」
麗子はゆっくり立ち上がる。
「拷問ね」
誰にも聞こえないほど小さく。
翌日。
ひな壇は組み替えられた。中央の一段目が、わずかに広げられている。赤い毛氈が新しく敷かれ、まだ繊維の匂いが立っている。
左右に一脚ずつ。
並んだ椅子は、距離が近い。近すぎる。
「どうぞ」
東堂が促す。
白川が先に座る。紺の着物が赤に映える。隣の椅子は、わずかに空いている。
麗子が歩く。ヒールの音が、やけに大きく響く。
隣に腰を下ろす。
肩が、ほとんど触れる。
視線が一斉に上がる。
「お似合いですわ」
神崎が言うが、声は硬い。
麗子が囁く。
「狭いわね」
「贅沢ですわ」
白川の声は冷たい。
「王様は一人のほうが座り心地がいい」
「あなた、降りてもいいのよ」
「そちらこそ」
周囲が息を呑む。
坂東が三雲に小声で言う。
「地獄だな」
「優雅な、だ」
昼食。
二人の前には同じ料理が並ぶ。白身魚、ほうれん草のソテー、澄まし汁。湯気が、二人の間をゆらゆらと昇る。
「あなた、勝ったつもり?」
白川が低く問う。
「思ってないわ」
「では何」
麗子は箸を置く。
「これは罰よ」
「罰?」
「お互いに」
白川の喉が動く。
「共存は、綺麗事の顔をした拷問」
「……」
「常に隣に、敵がいる」
麗子は横目で白川を見る。
その横顔が、思ったよりも疲れていることに気づく。
目の下の影。唇の色の薄さ。
夜。
ラウンジは静まり返っている。ひな壇の赤が、薄暗がりで黒く見える。
麗子は水を飲みに出る。廊下は静かで、消毒液の匂いがかすかに残る。
ひな壇の前に、白川が一人立っていた。
紺の着物ではなく、薄いカーディガン姿。背中が、少し小さい。
「眠れないの?」
麗子が声をかける。
白川は振り向かない。
「騒がしい一日でしたわ」
「疲れた?」
「疲れるなど、ありません」
だが声は、わずかに震える。
麗子は隣に立つ。赤い毛氈の匂いが、まだ新しい。
「どうしてそこまで、椅子にこだわるの」
白川がゆっくり言う。
「椅子ではありません」
「じゃあ何」
沈黙。
外の風が窓を鳴らす。
「名前です」
白川の声が、かすかに揺れる。
「白川の名が、段を降りるわけにはいかない」
麗子は目を細める。
「あなた自身じゃなくて?」
「……」
「一人になるのが怖いのね」
その言葉に、白川がはっとする。
「失礼な」
「本当でしょ」
麗子は優しく続ける。
「あなた、ずっと家柄の中で生きてきた。寄付も、財団も、全部“白川”のため」
白川の手が、毛氈を握る。
「それが私です」
「違うわ」
麗子はそっと言う。
「あなた、寂しいのよ」
長い沈黙。
やがて、白川が小さく笑う。
「あなたに言われたくない」
「わたしは一人で生きてきた」
「だから強いの?」
「いいえ」
麗子は空席を見つめる。
「だから、隣がいると少し楽」
白川が、初めて麗子を見る。
目が、柔らかい。
「共存は拷問だと言ったでしょう」
「ええ」
「でも」
麗子は笑う。
「二人で座るなら、まだ耐えられる」
ひな壇の上に、二人の影が並ぶ。
王国は揺れている。
だがその揺れの中で、孤独の輪郭が、少しだけ見えた。
優雅な地獄は、静かに形を変え始めていた。
開票の紙は、まだ机の上に広げられたままだった。
白い紙片が、まるで雪のように散らばっている。インクの匂いが、夜のラウンジに残っている。ワインと甘酒と、湿った絨毯の匂いが混ざり、空気は重い。
「同票、です」
東堂施設長の声が、少しだけ掠れていた。
ざわめきは大きくならない。むしろ、飲み込まれていく。誰もが、自分の胸の鼓動を聞いている。
坂東が低く言う。
「再投票では」
加賀谷が首を振る。
「割れるだけだ」
白川は背筋を伸ばしたまま、微動だにしない。沈香の匂いが、まだ衣に残っている。
麗子はグラスを持ったまま、ゆっくりと呼吸する。舌の上に残るワインの酸味が、妙に苦い。
東堂が口を開く。
「理事会で協議しました」
間。
「今年は――二人内裏雛とします」
空気が、止まる。
「二人?」
「そんな前例は」
「象徴が二人……?」
声が重なり、すぐに静まる。
東堂は続ける。
「共存という形で、新しいひな壇を」
麗子が小さく笑う。
「共存?」
白川が初めて、わずかに眉を動かす。
「つまり、並ぶのですか」
「はい。中央を二分し」
坂東が苦々しく言う。
「優雅な妥協だな」
麗子はゆっくり立ち上がる。
「拷問ね」
誰にも聞こえないほど小さく。
翌日。
ひな壇は組み替えられた。中央の一段目が、わずかに広げられている。赤い毛氈が新しく敷かれ、まだ繊維の匂いが立っている。
左右に一脚ずつ。
並んだ椅子は、距離が近い。近すぎる。
「どうぞ」
東堂が促す。
白川が先に座る。紺の着物が赤に映える。隣の椅子は、わずかに空いている。
麗子が歩く。ヒールの音が、やけに大きく響く。
隣に腰を下ろす。
肩が、ほとんど触れる。
視線が一斉に上がる。
「お似合いですわ」
神崎が言うが、声は硬い。
麗子が囁く。
「狭いわね」
「贅沢ですわ」
白川の声は冷たい。
「王様は一人のほうが座り心地がいい」
「あなた、降りてもいいのよ」
「そちらこそ」
周囲が息を呑む。
坂東が三雲に小声で言う。
「地獄だな」
「優雅な、だ」
昼食。
二人の前には同じ料理が並ぶ。白身魚、ほうれん草のソテー、澄まし汁。湯気が、二人の間をゆらゆらと昇る。
「あなた、勝ったつもり?」
白川が低く問う。
「思ってないわ」
「では何」
麗子は箸を置く。
「これは罰よ」
「罰?」
「お互いに」
白川の喉が動く。
「共存は、綺麗事の顔をした拷問」
「……」
「常に隣に、敵がいる」
麗子は横目で白川を見る。
その横顔が、思ったよりも疲れていることに気づく。
目の下の影。唇の色の薄さ。
夜。
ラウンジは静まり返っている。ひな壇の赤が、薄暗がりで黒く見える。
麗子は水を飲みに出る。廊下は静かで、消毒液の匂いがかすかに残る。
ひな壇の前に、白川が一人立っていた。
紺の着物ではなく、薄いカーディガン姿。背中が、少し小さい。
「眠れないの?」
麗子が声をかける。
白川は振り向かない。
「騒がしい一日でしたわ」
「疲れた?」
「疲れるなど、ありません」
だが声は、わずかに震える。
麗子は隣に立つ。赤い毛氈の匂いが、まだ新しい。
「どうしてそこまで、椅子にこだわるの」
白川がゆっくり言う。
「椅子ではありません」
「じゃあ何」
沈黙。
外の風が窓を鳴らす。
「名前です」
白川の声が、かすかに揺れる。
「白川の名が、段を降りるわけにはいかない」
麗子は目を細める。
「あなた自身じゃなくて?」
「……」
「一人になるのが怖いのね」
その言葉に、白川がはっとする。
「失礼な」
「本当でしょ」
麗子は優しく続ける。
「あなた、ずっと家柄の中で生きてきた。寄付も、財団も、全部“白川”のため」
白川の手が、毛氈を握る。
「それが私です」
「違うわ」
麗子はそっと言う。
「あなた、寂しいのよ」
長い沈黙。
やがて、白川が小さく笑う。
「あなたに言われたくない」
「わたしは一人で生きてきた」
「だから強いの?」
「いいえ」
麗子は空席を見つめる。
「だから、隣がいると少し楽」
白川が、初めて麗子を見る。
目が、柔らかい。
「共存は拷問だと言ったでしょう」
「ええ」
「でも」
麗子は笑う。
「二人で座るなら、まだ耐えられる」
ひな壇の上に、二人の影が並ぶ。
王国は揺れている。
だがその揺れの中で、孤独の輪郭が、少しだけ見えた。
優雅な地獄は、静かに形を変え始めていた。
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