『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

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第8話 ひとりになる練習

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第8話 ひとりになる練習

鍵が、やけに軽かった。

カチ、と回すと、すぐに扉が開いた。

「……ここか」

立石恒一は小さく呟く。

築三十年の賃貸アパート。
二階の端の部屋。
六畳一間に小さな流し台、古いユニットバス。

玄関に入った瞬間、ほこりっぽい匂いが鼻に入る。
壁紙は少し黄ばんでいて、床のフローリングは所々白く擦れている。

恒一は段ボールを一つ置いた。

「狭いな」

声が壁に当たって、すぐ戻ってくる。

以前の家のリビングの半分もない。

窓を開ける。
外の空気は少し冷たい。
遠くで電車の音がする。

ゴトン。
ゴトン。

恒一はしばらく窓の外を見ていた。

「……まあいいか」

そう言ってみる。

だが、その声は部屋の空気に吸い込まれて、すぐ消えた。

---

流し台の前に立つ。

銀色のシンクは冷たい。
蛇口をひねる。

ジャーッ。

水の音が、妙に大きく響く。

「こんなに響くもんか」

恒一は苦笑する。

鍋を出す。
スーパーで買った豆腐と味噌。

味噌汁くらい作れるだろう、と思った。

鍋に水を入れる。
火をつける。

しばらくスマホを見ていると、焦げた匂いがした。

「あ」

慌ててコンロを見る。

鍋の底が黒くなっている。

「……やったな」

火を止める。

焦げた匂いが、部屋に広がる。

恒一は換気扇を回す。

ゴーッという音が天井に響く。

「味噌汁も作れないのか」

自分で言って、少し笑う。

---

洗濯機の前。

シャツを入れる。
洗剤を入れる。

……量がわからない。

「まあ、こんなもんか」

適当に入れる。

ボタンを押す。

ピッ。

ガラガラと音がする。

しばらくして取り出す。

シャツが縮んでいた。

「……嘘だろ」

袖が短い。

しわもひどい。

「……クリーニング出せばよかった」

溜め息が出る。

---

夕方、スーパーへ行く。

惣菜コーナー。

揚げ物の匂い。
醤油の甘い匂い。

弁当の棚を見る。

値札の横に、小さな赤いシール。

**半額**

恒一は思わず手に取る。

「お」

カツ丼。

まだ温かい。

「半額か」

小さく笑う。

レジの店員が言う。

「温めますか?」

「……お願いします」

電子レンジが回る。

ウィーン。

弁当がくるくる回る。

ガラス越しにそれを見ていると、妙に安心した。

---

部屋に戻る。

弁当を開ける。

湯気が立つ。

ソースの匂い。
揚げ油の匂い。

一口食べる。

「……うまい」

だが、二口目で気づく。

静かだ。

隣の部屋から笑い声が聞こえる。

若い男の声。

「ちょっと、やめろって!」

女の笑い声。

「だって変な顔!」

二人で笑っている。

テレビの音。

食器の音。

生活の音。

恒一は箸を止める。

自分の部屋には、何もない。

ただ、冷蔵庫のモーター音。

ブーン。

それだけ。

恒一は小さく言う。

「……静かだな」

孤独は、音だった。

音がないことだった。

---

数日後。

市役所。

蛍光灯の白い光。
古い床のワックスの匂い。

番号札を持って椅子に座る。

周囲には同年代の男や女。

年金。
保険。
同じような顔。

恒一は呼ばれるのを待つ。

そのとき。

前の席の男が急に体を揺らした。

「あれ?」

椅子から落ちる。

ドン。

周囲がざわつく。

「大丈夫ですか!」

「救急車!」

市役所の職員が駆け寄る。

男の顔は青い。

恒一は胸を押さえた。

心臓が速い。

ドクン。

ドクン。

頭の奥に数字が浮かぶ。

**67.2歳**

「……次は俺かもしれない」

喉が乾く。

息が浅い。

市役所の空気が急に重くなる。

恒一は椅子から立ち上がった。

「……帰ろう」

外の空気を吸いたくなった。

---

その足で、スマホを出す。

検索。

**人間ドック**

電話をかける。

「予約できますか」

声が少し震えている。

「はい、来週空いてます」

「お願いします」

電話を切る。

胸の奥のざわつきは、まだ消えない。

---

帰り道。

商店街を歩く。

夕方の匂い。

焼き魚。
醤油。
味噌。

小さな定食屋があった。

赤い暖簾。

「定食 600円」

恒一は立ち止まる。

腹が減っていた。

暖簾をくぐる。

「いらっしゃい」

奥から声。

小さな店だ。

カウンター五席。

白髪の老女が立っている。

「何にする?」

「……焼き魚定食」

「はいよ」

ジュウ、と焼ける音。

魚の匂い。

味噌汁の湯気。

皿が出てくる。

恒一は食べ始める。

うまい。

しばらく無言で食べる。

老女が言う。

「お兄さん」

恒一は顔を上げる。

「はい?」

老女は言う。

「死ぬこと考えてる顔してるね」

恒一は思わず止まる。

箸を持ったまま。

「……そんな顔ですか」

老女は頷く。

「してるよ」

味噌汁をよそいながら続ける。

「でもね」

恒一を見る。

「死ぬ前に食べる練習より」

少し笑う。

「生きる練習したら?」

その言葉は軽かった。

説教でもない。

ただの言葉。

恒一はしばらく黙る。

味噌汁の湯気が顔に当たる。

だしの匂い。

温かい。

恒一は小さく言う。

「……生きる練習、ですか」

老女は笑う。

「そう」

「例えば?」

老女は肩をすくめる。

「味噌汁作るとか」

恒一は思わず笑った。

「……それ、焦がしました」

老女が大笑いする。

店の中に、その笑い声が響いた。

その音を聞きながら、恒一は思った。

ひとりになる練習。

それは、たぶん。

生きる練習でもあるのだ。

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