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第8話 ひとりになる練習
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第8話 ひとりになる練習
鍵が、やけに軽かった。
カチ、と回すと、すぐに扉が開いた。
「……ここか」
立石恒一は小さく呟く。
築三十年の賃貸アパート。
二階の端の部屋。
六畳一間に小さな流し台、古いユニットバス。
玄関に入った瞬間、ほこりっぽい匂いが鼻に入る。
壁紙は少し黄ばんでいて、床のフローリングは所々白く擦れている。
恒一は段ボールを一つ置いた。
「狭いな」
声が壁に当たって、すぐ戻ってくる。
以前の家のリビングの半分もない。
窓を開ける。
外の空気は少し冷たい。
遠くで電車の音がする。
ゴトン。
ゴトン。
恒一はしばらく窓の外を見ていた。
「……まあいいか」
そう言ってみる。
だが、その声は部屋の空気に吸い込まれて、すぐ消えた。
---
流し台の前に立つ。
銀色のシンクは冷たい。
蛇口をひねる。
ジャーッ。
水の音が、妙に大きく響く。
「こんなに響くもんか」
恒一は苦笑する。
鍋を出す。
スーパーで買った豆腐と味噌。
味噌汁くらい作れるだろう、と思った。
鍋に水を入れる。
火をつける。
しばらくスマホを見ていると、焦げた匂いがした。
「あ」
慌ててコンロを見る。
鍋の底が黒くなっている。
「……やったな」
火を止める。
焦げた匂いが、部屋に広がる。
恒一は換気扇を回す。
ゴーッという音が天井に響く。
「味噌汁も作れないのか」
自分で言って、少し笑う。
---
洗濯機の前。
シャツを入れる。
洗剤を入れる。
……量がわからない。
「まあ、こんなもんか」
適当に入れる。
ボタンを押す。
ピッ。
ガラガラと音がする。
しばらくして取り出す。
シャツが縮んでいた。
「……嘘だろ」
袖が短い。
しわもひどい。
「……クリーニング出せばよかった」
溜め息が出る。
---
夕方、スーパーへ行く。
惣菜コーナー。
揚げ物の匂い。
醤油の甘い匂い。
弁当の棚を見る。
値札の横に、小さな赤いシール。
**半額**
恒一は思わず手に取る。
「お」
カツ丼。
まだ温かい。
「半額か」
小さく笑う。
レジの店員が言う。
「温めますか?」
「……お願いします」
電子レンジが回る。
ウィーン。
弁当がくるくる回る。
ガラス越しにそれを見ていると、妙に安心した。
---
部屋に戻る。
弁当を開ける。
湯気が立つ。
ソースの匂い。
揚げ油の匂い。
一口食べる。
「……うまい」
だが、二口目で気づく。
静かだ。
隣の部屋から笑い声が聞こえる。
若い男の声。
「ちょっと、やめろって!」
女の笑い声。
「だって変な顔!」
二人で笑っている。
テレビの音。
食器の音。
生活の音。
恒一は箸を止める。
自分の部屋には、何もない。
ただ、冷蔵庫のモーター音。
ブーン。
それだけ。
恒一は小さく言う。
「……静かだな」
孤独は、音だった。
音がないことだった。
---
数日後。
市役所。
蛍光灯の白い光。
古い床のワックスの匂い。
番号札を持って椅子に座る。
周囲には同年代の男や女。
年金。
保険。
同じような顔。
恒一は呼ばれるのを待つ。
そのとき。
前の席の男が急に体を揺らした。
「あれ?」
椅子から落ちる。
ドン。
周囲がざわつく。
「大丈夫ですか!」
「救急車!」
市役所の職員が駆け寄る。
男の顔は青い。
恒一は胸を押さえた。
心臓が速い。
ドクン。
ドクン。
頭の奥に数字が浮かぶ。
**67.2歳**
「……次は俺かもしれない」
喉が乾く。
息が浅い。
市役所の空気が急に重くなる。
恒一は椅子から立ち上がった。
「……帰ろう」
外の空気を吸いたくなった。
---
その足で、スマホを出す。
検索。
**人間ドック**
電話をかける。
「予約できますか」
声が少し震えている。
「はい、来週空いてます」
「お願いします」
電話を切る。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
---
帰り道。
商店街を歩く。
夕方の匂い。
焼き魚。
醤油。
味噌。
小さな定食屋があった。
赤い暖簾。
「定食 600円」
恒一は立ち止まる。
腹が減っていた。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
奥から声。
小さな店だ。
カウンター五席。
白髪の老女が立っている。
「何にする?」
「……焼き魚定食」
「はいよ」
ジュウ、と焼ける音。
魚の匂い。
味噌汁の湯気。
皿が出てくる。
恒一は食べ始める。
うまい。
しばらく無言で食べる。
老女が言う。
「お兄さん」
恒一は顔を上げる。
「はい?」
老女は言う。
「死ぬこと考えてる顔してるね」
恒一は思わず止まる。
箸を持ったまま。
「……そんな顔ですか」
老女は頷く。
「してるよ」
味噌汁をよそいながら続ける。
「でもね」
恒一を見る。
「死ぬ前に食べる練習より」
少し笑う。
「生きる練習したら?」
その言葉は軽かった。
説教でもない。
ただの言葉。
恒一はしばらく黙る。
味噌汁の湯気が顔に当たる。
だしの匂い。
温かい。
恒一は小さく言う。
「……生きる練習、ですか」
老女は笑う。
「そう」
「例えば?」
老女は肩をすくめる。
「味噌汁作るとか」
恒一は思わず笑った。
「……それ、焦がしました」
老女が大笑いする。
店の中に、その笑い声が響いた。
その音を聞きながら、恒一は思った。
ひとりになる練習。
それは、たぶん。
生きる練習でもあるのだ。
鍵が、やけに軽かった。
カチ、と回すと、すぐに扉が開いた。
「……ここか」
立石恒一は小さく呟く。
築三十年の賃貸アパート。
二階の端の部屋。
六畳一間に小さな流し台、古いユニットバス。
玄関に入った瞬間、ほこりっぽい匂いが鼻に入る。
壁紙は少し黄ばんでいて、床のフローリングは所々白く擦れている。
恒一は段ボールを一つ置いた。
「狭いな」
声が壁に当たって、すぐ戻ってくる。
以前の家のリビングの半分もない。
窓を開ける。
外の空気は少し冷たい。
遠くで電車の音がする。
ゴトン。
ゴトン。
恒一はしばらく窓の外を見ていた。
「……まあいいか」
そう言ってみる。
だが、その声は部屋の空気に吸い込まれて、すぐ消えた。
---
流し台の前に立つ。
銀色のシンクは冷たい。
蛇口をひねる。
ジャーッ。
水の音が、妙に大きく響く。
「こんなに響くもんか」
恒一は苦笑する。
鍋を出す。
スーパーで買った豆腐と味噌。
味噌汁くらい作れるだろう、と思った。
鍋に水を入れる。
火をつける。
しばらくスマホを見ていると、焦げた匂いがした。
「あ」
慌ててコンロを見る。
鍋の底が黒くなっている。
「……やったな」
火を止める。
焦げた匂いが、部屋に広がる。
恒一は換気扇を回す。
ゴーッという音が天井に響く。
「味噌汁も作れないのか」
自分で言って、少し笑う。
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洗濯機の前。
シャツを入れる。
洗剤を入れる。
……量がわからない。
「まあ、こんなもんか」
適当に入れる。
ボタンを押す。
ピッ。
ガラガラと音がする。
しばらくして取り出す。
シャツが縮んでいた。
「……嘘だろ」
袖が短い。
しわもひどい。
「……クリーニング出せばよかった」
溜め息が出る。
---
夕方、スーパーへ行く。
惣菜コーナー。
揚げ物の匂い。
醤油の甘い匂い。
弁当の棚を見る。
値札の横に、小さな赤いシール。
**半額**
恒一は思わず手に取る。
「お」
カツ丼。
まだ温かい。
「半額か」
小さく笑う。
レジの店員が言う。
「温めますか?」
「……お願いします」
電子レンジが回る。
ウィーン。
弁当がくるくる回る。
ガラス越しにそれを見ていると、妙に安心した。
---
部屋に戻る。
弁当を開ける。
湯気が立つ。
ソースの匂い。
揚げ油の匂い。
一口食べる。
「……うまい」
だが、二口目で気づく。
静かだ。
隣の部屋から笑い声が聞こえる。
若い男の声。
「ちょっと、やめろって!」
女の笑い声。
「だって変な顔!」
二人で笑っている。
テレビの音。
食器の音。
生活の音。
恒一は箸を止める。
自分の部屋には、何もない。
ただ、冷蔵庫のモーター音。
ブーン。
それだけ。
恒一は小さく言う。
「……静かだな」
孤独は、音だった。
音がないことだった。
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数日後。
市役所。
蛍光灯の白い光。
古い床のワックスの匂い。
番号札を持って椅子に座る。
周囲には同年代の男や女。
年金。
保険。
同じような顔。
恒一は呼ばれるのを待つ。
そのとき。
前の席の男が急に体を揺らした。
「あれ?」
椅子から落ちる。
ドン。
周囲がざわつく。
「大丈夫ですか!」
「救急車!」
市役所の職員が駆け寄る。
男の顔は青い。
恒一は胸を押さえた。
心臓が速い。
ドクン。
ドクン。
頭の奥に数字が浮かぶ。
**67.2歳**
「……次は俺かもしれない」
喉が乾く。
息が浅い。
市役所の空気が急に重くなる。
恒一は椅子から立ち上がった。
「……帰ろう」
外の空気を吸いたくなった。
---
その足で、スマホを出す。
検索。
**人間ドック**
電話をかける。
「予約できますか」
声が少し震えている。
「はい、来週空いてます」
「お願いします」
電話を切る。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
---
帰り道。
商店街を歩く。
夕方の匂い。
焼き魚。
醤油。
味噌。
小さな定食屋があった。
赤い暖簾。
「定食 600円」
恒一は立ち止まる。
腹が減っていた。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
奥から声。
小さな店だ。
カウンター五席。
白髪の老女が立っている。
「何にする?」
「……焼き魚定食」
「はいよ」
ジュウ、と焼ける音。
魚の匂い。
味噌汁の湯気。
皿が出てくる。
恒一は食べ始める。
うまい。
しばらく無言で食べる。
老女が言う。
「お兄さん」
恒一は顔を上げる。
「はい?」
老女は言う。
「死ぬこと考えてる顔してるね」
恒一は思わず止まる。
箸を持ったまま。
「……そんな顔ですか」
老女は頷く。
「してるよ」
味噌汁をよそいながら続ける。
「でもね」
恒一を見る。
「死ぬ前に食べる練習より」
少し笑う。
「生きる練習したら?」
その言葉は軽かった。
説教でもない。
ただの言葉。
恒一はしばらく黙る。
味噌汁の湯気が顔に当たる。
だしの匂い。
温かい。
恒一は小さく言う。
「……生きる練習、ですか」
老女は笑う。
「そう」
「例えば?」
老女は肩をすくめる。
「味噌汁作るとか」
恒一は思わず笑った。
「……それ、焦がしました」
老女が大笑いする。
店の中に、その笑い声が響いた。
その音を聞きながら、恒一は思った。
ひとりになる練習。
それは、たぶん。
生きる練習でもあるのだ。
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