『年金15万円と線維筋痛症 ― 動けない老後』

かおるこ

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第5話 働くはずだった

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第5話 働くはずだった

朝の空気は、まだ少し冷たかった。

窓を開けると、春の風がゆっくり部屋の中に入り込んでくる。遠くで車の走る音がして、近所のパン屋から焼きたての甘い匂いがふわりと漂ってきた。

陽子は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。

「いい天気ね」

そう言ってみる。

でも、声はどこか弱かった。

テーブルの上には、折りたたんだ求人チラシが置いてある。

スーパー スタッフ募集
シニア歓迎
週三日からOK

陽子はその紙を指でなぞった。

紙は少しざらざらしている。

「これくらいなら、できると思ったのよね」

誰に言うでもなく、つぶやく。

スーパーまで歩いて十分。

品出しか、レジ補助。

重いものは若い人がやるだろう。

「週三日なら、体にもいいし」

自分に言い聞かせるように言った。

「家にばかりいてもね」

ゆっくり立ち上がる。

その瞬間、腰の奥がずきっと痛んだ。

「……あ」

小さく息が漏れる。

背中から肩にかけて、じんわり痛みが広がる。

線維筋痛症。

医者の言葉が頭をよぎる。

「無理はしないでください」

陽子は苦笑した。

「無理してるつもり、ないんだけどね」

靴を履く。

玄関のタイルは少し冷たかった。

ドアを開けると、外の空気が顔に触れる。

春の匂い。

遠くで自転車のベルが鳴る。

「よし」

陽子は小さく言った。

「行ってみよう」

歩き出す。

アパートの階段を降りる。

一段。

二段。

三段。

膝が少し痛む。

「まあ、大丈夫」

そう言ってみる。

外の道は、朝の光で明るかった。

近所の奥さんが犬を散歩させている。

「おはようございます」

「おはよう」

陽子は笑顔で答える。

歩き出す。

一歩。

二歩。

三歩。

最初は普通だった。

でも、五分ほど歩いた頃だった。

肩の奥がじんと痛み始めた。

背中も。

太ももも。

「……あれ」

足が少し重い。

まるで、体に砂袋をつけているみたいだ。

「こんなはずじゃ」

歩き続ける。

でも、痛みは少しずつ強くなる。

腕を振るたび、肩がずきっとする。

「ちょっと待って」

陽子は電柱のそばで立ち止まった。

息を整える。

胸が上下する。

「まだ……五分くらいよね」

スーパーまではあと半分。

でも。

体が重い。

背中の奥がじわじわ痛む。

膝も痛い。

「なんで」

小さくつぶやく。

「このくらいで」

遠くで子どもが笑っている。

車が通り過ぎる。

世界は普通に動いている。

でも、陽子の体だけが重い。

「はあ……」

電柱に手をつく。

冷たい金属の感触が掌に伝わる。

その冷たさが、妙に気持ちいい。

しばらく立ったまま空を見た。

青い空。

白い雲。

「働くつもりだったのよ」

ぽつりと言う。

「まだ働けるって」

昔のことが頭に浮かぶ。

工場で働いていた頃。

重い箱を持って、男の人と同じように歩いた。

夜勤もした。

眠い目をこすりながら働いた。

スーパーでもそうだった。

段ボールを持ち上げ、売り場を走り回った。

腰が痛くても。

疲れていても。

「働けないなんて」

陽子は苦笑した。

「考えたこともなかった」

ゆっくり歩き出す。

でも、足がさっきより重い。

膝がぎくっと痛む。

背中も痛む。

「……無理」

小さく言った。

「今日は無理」

スーパーはもうすぐそこなのに。

看板が見えているのに。

陽子はその場で立ち止まった。

胸の奥が、少し苦しくなる。

「たった十分なのに」

空を見上げる。

まぶしい光。

目を細める。

「私、こんなに弱かったっけ」

自分に聞く。

答えはない。

ただ、体の痛みだけがある。

陽子はゆっくり振り返った。

家の方向を見る。

「帰ろう」

小さく言う。

「今日は帰ろう」

ゆっくり歩き始める。

さっきより歩くのがつらい。

それでも、少しずつ進む。

家の前に着いた頃には、背中がじんじんしていた。

玄関のドアを開ける。

部屋の中の空気は静かだった。

陽子は靴を脱いで、ソファに座った。

クッションが沈む。

体が少し楽になる。

「……はあ」

深く息を吐く。

テーブルの上には、求人チラシが置いてある。

陽子はそれを見た。

しばらく見つめる。

それから、小さくつぶやいた。

「働くはずだったんだけどね」

少し笑う。

「そのつもりだったんだけど」

窓の外で風が吹いた。

カーテンがふわりと揺れる。

陽子は天井を見上げて、静かに言った。

「でも……」

声が少しだけ震える。

「体が、言うこと聞かないのよ」

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