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第5話 唯一の味方
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第5話 唯一の味方
夕方の風はまだ少し冷たかった。
紬は駅前の歩道をゆっくり歩いていた。仕事帰りだ。工場の制服のままではないが、油の匂いはまだ体に残っている。手のひらはざらつき、指の関節が少し痛んだ。
交差点の信号が赤に変わる。
人の流れが止まり、紬も足を止めた。
そのときだった。
「……朝倉?」
聞き覚えのある声だった。
紬は振り向く。
スーツ姿の男が立っている。少し白髪が増えているが、その顔はすぐに分かった。
「佐藤……先生?」
高校のときの担任だった。
佐藤は目を丸くする。
「やっぱり朝倉か」
近づいてくる。
「久しぶりだな」
紬は小さく頭を下げた。
「お久しぶりです」
信号が青に変わるが、二人はそのまま立っていた。
佐藤は紬を見た。
じっと見た。
「……働いてるのか?」
「はい」
紬は答える。
「工場で」
佐藤は少しだけ眉をひそめた。
「大学は?」
その言葉が胸に落ちる。
紬は視線を下げた。
「行ってません」
沈黙が落ちた。
交差点の車が通り過ぎる音がする。
佐藤が静かに言う。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
「少し時間あるか?」
紬は驚いた。
「え?」
「お茶でもどうだ」
紬は迷った。
家に帰れば夕飯を作らなければならない。
でも。
「……少しだけ」
小さくうなずいた。
二人は近くの喫茶店に入った。
ドアベルが鳴る。
コーヒーの香りがふわりと広がった。
席に座ると、椅子の柔らかさに少しだけ体が沈む。
店員が水を置いた。
「何にする?」
佐藤が聞く。
「コーヒー」
紬は答える。
湯気の立つカップが運ばれてくる。
紬は両手で包む。
温かさが指に伝わる。
「朝倉」
佐藤が言った。
「高校のとき」
紬は顔を上げる。
「覚えてるか?」
「なにを」
佐藤は少し笑った。
「模試」
紬は小さくうなずいた。
「お前、国立A判定だった」
紬の胸が少しだけ痛んだ。
佐藤は言う。
「大学に行くと思ってた」
紬はカップの中を見た。
黒いコーヒーが静かに揺れている。
「行けませんでした」
「どうして」
紬は黙っていた。
言葉が出ない。
でも佐藤は待った。
急かさない。
静かな時間が流れる。
やがて紬が小さく言った。
「家の事情で」
佐藤は何も言わない。
紬は少しずつ話し始めた。
受験の日。
母が階段で倒れたこと。
大学を諦めたこと。
工場で働いていること。
給料を家に入れていること。
弟の借金。
保証人の話。
言葉は途切れ途切れだった。
でも止まらなかった。
紬は初めて誰かに話していた。
話し終えると、店の中の音が急に大きく聞こえた。
カップが皿に触れる音。
遠くの笑い声。
コーヒーの香り。
佐藤は黙って聞いていた。
そして、ゆっくり言った。
「朝倉」
紬は顔を上げる。
「それは普通じゃない」
その言葉が胸に落ちた。
「家族は助け合うものだ」
佐藤は続ける。
「でも」
少し間を置く。
「一人の人生を奪うことは違う」
紬の喉が少し震えた。
「でも」
言葉が出る。
「私はお姉ちゃんだから」
佐藤は首を振った。
「違う」
その一言は静かだったが、はっきりしていた。
「お姉ちゃんだから人生を捧げろなんて法律はない」
紬は目を見開く。
「法律?」
佐藤はうなずく。
「朝倉」
カップを持ち上げる。
「法律は何のためにあると思う?」
紬は答えられない。
佐藤は言った。
「弱い人を守るためだ」
紬の胸が少しだけ熱くなる。
「法律は」
佐藤は続ける。
「力のない人間が、理不尽に潰されないためにある」
紬は手を見た。
荒れた指。
小さな傷。
「でも」
紬は言う。
「私は法律なんて」
佐藤は少し笑った。
「覚えてないのか」
「なにを」
「お前、現代社会の成績トップだった」
紬は驚いた。
「そうでしたっけ」
「そうだ」
佐藤は真剣な顔になる。
「朝倉」
その声は高校のときと同じだった。
「君の人生は君が主役だ」
紬の胸の奥で何かが動く。
「家族でも」
佐藤は言う。
「誰でも」
「他人の人生を奪う権利はない」
紬の目が少し熱くなる。
「もし」
佐藤が続ける。
「法律を知っていれば」
「自分を守れる」
紬は小さく息を吸った。
法律。
六法全書。
昨夜買った本。
家の机の上に置いてある。
紬はカップを握った。
温かさが指に広がる。
胸の奥の何かが、少しずつ形になる。
「先生」
紬が言った。
「はい」
「私」
言葉を探す。
「まだ」
少しだけ震える。
「やり直せますか」
佐藤は迷わなかった。
「できる」
その一言は強かった。
「人は何歳でもやり直せる」
紬は窓の外を見る。
夕焼けが街を赤く染めている。
車のライトが灯り始めている。
紬はゆっくり息を吐いた。
胸の奥で、何かが静かに固まる。
決意だった。
紬は佐藤を見る。
そして言った。
「私」
少しだけ笑う。
「取り戻します」
「何を」
佐藤が聞く。
紬は答えた。
「私の人生を」
夕方の風はまだ少し冷たかった。
紬は駅前の歩道をゆっくり歩いていた。仕事帰りだ。工場の制服のままではないが、油の匂いはまだ体に残っている。手のひらはざらつき、指の関節が少し痛んだ。
交差点の信号が赤に変わる。
人の流れが止まり、紬も足を止めた。
そのときだった。
「……朝倉?」
聞き覚えのある声だった。
紬は振り向く。
スーツ姿の男が立っている。少し白髪が増えているが、その顔はすぐに分かった。
「佐藤……先生?」
高校のときの担任だった。
佐藤は目を丸くする。
「やっぱり朝倉か」
近づいてくる。
「久しぶりだな」
紬は小さく頭を下げた。
「お久しぶりです」
信号が青に変わるが、二人はそのまま立っていた。
佐藤は紬を見た。
じっと見た。
「……働いてるのか?」
「はい」
紬は答える。
「工場で」
佐藤は少しだけ眉をひそめた。
「大学は?」
その言葉が胸に落ちる。
紬は視線を下げた。
「行ってません」
沈黙が落ちた。
交差点の車が通り過ぎる音がする。
佐藤が静かに言う。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
「少し時間あるか?」
紬は驚いた。
「え?」
「お茶でもどうだ」
紬は迷った。
家に帰れば夕飯を作らなければならない。
でも。
「……少しだけ」
小さくうなずいた。
二人は近くの喫茶店に入った。
ドアベルが鳴る。
コーヒーの香りがふわりと広がった。
席に座ると、椅子の柔らかさに少しだけ体が沈む。
店員が水を置いた。
「何にする?」
佐藤が聞く。
「コーヒー」
紬は答える。
湯気の立つカップが運ばれてくる。
紬は両手で包む。
温かさが指に伝わる。
「朝倉」
佐藤が言った。
「高校のとき」
紬は顔を上げる。
「覚えてるか?」
「なにを」
佐藤は少し笑った。
「模試」
紬は小さくうなずいた。
「お前、国立A判定だった」
紬の胸が少しだけ痛んだ。
佐藤は言う。
「大学に行くと思ってた」
紬はカップの中を見た。
黒いコーヒーが静かに揺れている。
「行けませんでした」
「どうして」
紬は黙っていた。
言葉が出ない。
でも佐藤は待った。
急かさない。
静かな時間が流れる。
やがて紬が小さく言った。
「家の事情で」
佐藤は何も言わない。
紬は少しずつ話し始めた。
受験の日。
母が階段で倒れたこと。
大学を諦めたこと。
工場で働いていること。
給料を家に入れていること。
弟の借金。
保証人の話。
言葉は途切れ途切れだった。
でも止まらなかった。
紬は初めて誰かに話していた。
話し終えると、店の中の音が急に大きく聞こえた。
カップが皿に触れる音。
遠くの笑い声。
コーヒーの香り。
佐藤は黙って聞いていた。
そして、ゆっくり言った。
「朝倉」
紬は顔を上げる。
「それは普通じゃない」
その言葉が胸に落ちた。
「家族は助け合うものだ」
佐藤は続ける。
「でも」
少し間を置く。
「一人の人生を奪うことは違う」
紬の喉が少し震えた。
「でも」
言葉が出る。
「私はお姉ちゃんだから」
佐藤は首を振った。
「違う」
その一言は静かだったが、はっきりしていた。
「お姉ちゃんだから人生を捧げろなんて法律はない」
紬は目を見開く。
「法律?」
佐藤はうなずく。
「朝倉」
カップを持ち上げる。
「法律は何のためにあると思う?」
紬は答えられない。
佐藤は言った。
「弱い人を守るためだ」
紬の胸が少しだけ熱くなる。
「法律は」
佐藤は続ける。
「力のない人間が、理不尽に潰されないためにある」
紬は手を見た。
荒れた指。
小さな傷。
「でも」
紬は言う。
「私は法律なんて」
佐藤は少し笑った。
「覚えてないのか」
「なにを」
「お前、現代社会の成績トップだった」
紬は驚いた。
「そうでしたっけ」
「そうだ」
佐藤は真剣な顔になる。
「朝倉」
その声は高校のときと同じだった。
「君の人生は君が主役だ」
紬の胸の奥で何かが動く。
「家族でも」
佐藤は言う。
「誰でも」
「他人の人生を奪う権利はない」
紬の目が少し熱くなる。
「もし」
佐藤が続ける。
「法律を知っていれば」
「自分を守れる」
紬は小さく息を吸った。
法律。
六法全書。
昨夜買った本。
家の机の上に置いてある。
紬はカップを握った。
温かさが指に広がる。
胸の奥の何かが、少しずつ形になる。
「先生」
紬が言った。
「はい」
「私」
言葉を探す。
「まだ」
少しだけ震える。
「やり直せますか」
佐藤は迷わなかった。
「できる」
その一言は強かった。
「人は何歳でもやり直せる」
紬は窓の外を見る。
夕焼けが街を赤く染めている。
車のライトが灯り始めている。
紬はゆっくり息を吐いた。
胸の奥で、何かが静かに固まる。
決意だった。
紬は佐藤を見る。
そして言った。
「私」
少しだけ笑う。
「取り戻します」
「何を」
佐藤が聞く。
紬は答えた。
「私の人生を」
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