『長女だからと介護を押し付けられ会社を辞めた私、父の葬式の翌日に追い出されたので――特約付き贈与契約と不当利得返還請求で兄夫婦を破産させます

かおるこ

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第1話「長女なんだから」

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 第1話「長女なんだから」

 電話が鳴ったのは、午後七時を少し回ったころだった。

 法律事務所の小さなオフィスには、コピー機の低い唸りと、紙の擦れる乾いた音だけが残っている。蛍光灯の白い光の下で、私は最後の書類をクリップでまとめていた。

 スマートフォンの画面に表示された名前を見て、思わず手が止まる。

**健一兄さん。**

 嫌な予感が、胸の奥で小さく軋んだ。

「……もしもし」

 出ると、向こうはやけにざわついていた。誰かの話し声、遠くで鳴るテレビの音、食器のぶつかる音。

「ああ、美月か?」

 兄の声は妙に軽い。

「父さんが倒れた」

 空気が一瞬、真空になった気がした。

「……え?」

「さっき病院に運ばれた。脳梗塞らしい」

 私は椅子の背にもたれた。心臓の鼓動が、耳の奥でやけに大きく響く。

「容体は?」

「命は助かったらしいけどな。半身麻痺だってさ」

 兄はそこで、なぜか小さく笑った。

 私は眉をひそめる。

「笑いごとじゃないでしょ」

「いや、まあ……」

 電話の向こうで、別の声が割り込んだ。

 甲高い女の声。

「あ、美月ちゃん?」

 兄嫁の由香だ。

「ねえ、聞いてる? 大変なのよほんと」

 言葉は心配そうなのに、声の温度が妙に軽い。後ろでテレビのバラエティ番組の笑い声が流れている。

「……うん。父のことは聞いた」

「そうそう。それでさ」

 少し間があった。

 その沈黙の向こうで、何かが決まっていく気配がした。

「介護、どうする?」

 私は言葉を失う。

「どうするって……」

「だって無理でしょ? 私たち」

 由香はあっさり言った。

「健一くん仕事あるし、私だってパートあるし」

 兄が横から口を挟む。

「なあ、美月」

 嫌な予感が、はっきりした形になる。

「お前、長女だろ?」

 その言葉が、胸に落ちた。

「……それが?」

「だからさ」

 兄は当たり前みたいに言った。

> 「長女なんだから介護くらいするのが普通だろ?」

 蛍光灯の光が、急に冷たく感じた。

「ちょっと待って」

 私は机を握る。

「私、仕事あるんだけど」

「法律事務所の事務だろ?」

「そうだけど」

「だったら融通きくだろ」

 兄の声はどこまでも軽い。

 由香がくすくす笑う。

> 「独身なんだから時間あるでしょ?」

 胸の奥で、何かがぎしりと軋んだ。

「そんな簡単な話じゃない」

「でもさあ」

 由香はため息をついた。

「家族なんだから助け合わないと」

 テレビの向こうで芸人が大声で笑う。

 私は窓の外を見た。

 夜の東京は、まだ明るい。車のヘッドライトが流れ、遠くで電車の音が響く。

 ここには、私の生活があった。

 朝、コンビニで買うコーヒー。

 書類のインクの匂い。

 弁護士たちの忙しそうな足音。

 仕事終わりに食べるコンビニのおにぎり。

 小さくても、確かに私の人生だった。

「……兄さんは?」

「俺?」

「介護する気ないの?」

 沈黙。

 それから、兄は笑った。

「俺、男だし」

 その一言で、胸の奥が冷えた。

 由香が言う。

「そうよ。介護って女の仕事じゃない?」

 指先が震えた。

「……私だって仕事ある」

「でもさあ」

 由香の声は、どこまでも柔らかい。

> 「独身なんだから、別に困らないでしょ?」

 その言葉は、静かに胸に沈んだ。

 私はしばらく黙っていた。

 電話の向こうでは、二人が何か話している。テレビの笑い声が重なる。

 その音が、妙に遠かった。

 机の上の書類を見る。

 契約書。

 印鑑。

 条文。

 法律事務所で毎日触れている、紙の重み。

 私は小さく息を吐いた。

「……いつ退院?」

「来週」

 兄は言った。

「だからさ」

 少し声を潜める。

「美月が帰ってきてくれれば助かるんだよ」

 助かる。

 その言葉が、妙に軽かった。

「……会社は?」

「辞めればいいだろ」

 私は目を閉じた。

 コピー機の匂い。

 紙の手触り。

 蛍光灯の白い光。

 それらが、少しずつ遠ざかる気がした。

「家族なんだから」

 兄が言う。

「それくらい当然だろ?」

 私はゆっくり目を開けた。

 窓の外で、夜風が街路樹を揺らしている。

 葉が擦れる音が、かすかに聞こえた。

「……わかった」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

「本当に?」

 由香の声が明るくなる。

「助かる~」

 兄も笑う。

「やっぱり美月は頼りになるな」

 私は何も言わなかった。

 電話を切ると、オフィスはひどく静かだった。

 壁時計が、かち、かち、と音を立てる。

 胸の奥が、じんわりと重い。

 机の上の退職願の書式を、私はぼんやり眺めていた。

 まだ書いてもいないのに、そこに自分の名前が浮かぶ気がした。

 美月。

 長女。

 その二つの言葉が、妙に重く重なった。

 窓の外では、東京の夜がいつも通り流れている。

 クラクションの音。

 遠くの電車。

 人の話し声。

 それらがすべて、もうすぐ自分から遠ざかるもののように思えた。

 私は椅子から立ち上がる。

 蛍光灯を消すと、オフィスは暗くなった。

 ガラスに、自分の顔が映る。

 疲れた顔。

 でもその奥に、まだ消えていない何かがある気がした。

 そのときはまだ、気づいていなかった。

 この電話が、人生を壊すことになるのか。

 それとも――

 取り返す始まりになるのか。

 ただ一つ確かなのは。

 この日から、

**地獄の生活が始まった。**

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