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第2話 介護係
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第2話 介護係
午前五時。
まだ夜の色が残る空気の中で、目覚ましの電子音が小さく鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ。
私は枕元のスマートフォンに手を伸ばし、画面を押す。音が止まると、部屋はすぐに静まり返った。
古い実家の天井は、薄い灰色の朝をぼんやり映している。
布団の中の空気はぬるく、体はまだ眠りを求めて重かった。
けれど。
隣の部屋から、かすかな物音が聞こえる。
「……ん……」
父の声だ。
私は目を閉じたまま、三秒だけ深呼吸をした。
それから、布団をめくる。
足の裏が畳に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わった。
廊下に出ると、古い家特有の木の匂いがする。湿ったような、乾いたような匂い。
障子の隙間から薄い朝の光が漏れていた。
父の部屋の戸を開ける。
「……父さん」
ベッドの上で、父がこちらを見ていた。
右側の体はほとんど動かない。左手だけが、かすかに布団を握っている。
「……美月か」
「うん。おはよう」
父は苦笑した。
「また早いな」
「いつもでしょ」
私はカーテンを少し開ける。朝の冷たい空気が、部屋にゆっくり入ってきた。
ベッドの横に置いてある介護用の椅子に座る。
「お腹すいた?」
「……まあな」
「じゃあ先に体、拭こうか」
父は小さくうなずいた。
洗面所でタオルをお湯に浸すと、湯気がふわっと立ち上る。手のひらに温かさが染みた。
それを持って戻る。
「少し冷めるかもしれないけど」
「十分だ」
私は父の腕をゆっくり持ち上げる。
骨ばった腕。
以前は大きく見えた手が、今は驚くほど軽い。
温かいタオルを当てると、父が小さく息を吐いた。
「……気持ちいいな」
「よかった」
タオルから、かすかに石鹸の匂いがした。
静かな朝だった。
鳥の声。
遠くを走るトラックの低いエンジン音。
その中で、私は黙々と父の体を拭いた。
朝食は、おかゆと味噌汁。
湯気の匂いが、台所に広がる。
「今日はちゃんと食べてね」
私は茶碗を父の前に置く。
「昨日、半分しか食べなかったでしょ」
「そんなに食えん」
「少しでいいから」
スプーンを口元へ運ぶ。
父はゆっくり口を開ける。
「……悪いな」
「なにが?」
「こんなことさせて」
私は首を振った。
「いいよ」
言葉は自然に出た。
でも胸の奥で、何かが少しだけ沈んだ。
食事を終えるころには、朝日はもう高くなっていた。
時計を見る。
午前九時。
私は父をベッドに戻し、台所で洗い物をする。
水の冷たさが指先に染みる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
机の上で、ぶるっと短く。
画面を見る。
通知。
**由香さんが投稿しました**
胸の奥で、小さく何かが動く。
私は指で画面を開いた。
そこに表示された写真。
白い皿。
色鮮やかなサラダ。
黄金色のオムレツ。
カフェの柔らかい光。
テーブルの上のワイングラス。
その下に書かれている文字。
> #今日のランチ
> #幸せ時間
> #介護は長女担当
> #今日は自分へのご褒美
私はしばらく画面を見ていた。
台所の窓から、風が入る。
カーテンがゆっくり揺れる。
味噌汁の残り香が、まだ部屋に漂っている。
父の部屋から、かすかな咳が聞こえた。
私はスマホを握ったまま、深く息を吐く。
「……」
喉の奥が、少しだけ苦かった。
そのとき、また通知が鳴った。
電話。
兄だった。
「もしもし」
「ああ、美月?」
向こうから、車の音が聞こえる。
「どう? 父さん」
「普通。朝ごはん食べた」
「そっか」
兄は少し間を置いて言った。
「助かってるよ」
その声は、どこか遠い。
「今日さ、帰り遅くなるから」
「うん」
「由香も友達と会うらしくてさ」
「そう」
「悪いけど、夜も頼むな」
頼む。
その言葉が、軽く落ちる。
「……わかった」
「さすが長女だな」
兄は笑った。
「やっぱり美月に任せて正解だった」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも私は言わなかった。
「じゃあまたな」
電話はすぐ切れた。
私はゆっくりスマホを置く。
父の部屋から声がする。
「……美月」
「今行く」
私は台所の蛇口を止めた。
水の音が消えると、家は静かだった。
廊下を歩く。
畳の匂い。
古い柱の軋み。
父の部屋の戸を開ける。
「どうしたの?」
「トイレ……」
「うん、行こう」
父の体を支える。
重さが腕にかかる。
父の体温が、肩に伝わる。
「ゆっくりでいいよ」
「……すまんな」
「大丈夫」
一歩。
また一歩。
廊下の床が、ぎし、と鳴る。
私は父の体をしっかり支えた。
窓の外では、昼の光が静かに広がっている。
遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
その明るさが、妙に遠かった。
私は何も言わず、父を支え続けた。
机の上のスマートフォンは、もう暗くなっている。
さっき見た写真も、
軽い言葉も、
すべてその中に沈んでいた。
私は一度だけ、目を閉じた。
それからまた、父の体を支え直す。
長女だから。
その言葉が、胸の奥で静かに重く響いた。
午前五時。
まだ夜の色が残る空気の中で、目覚ましの電子音が小さく鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ。
私は枕元のスマートフォンに手を伸ばし、画面を押す。音が止まると、部屋はすぐに静まり返った。
古い実家の天井は、薄い灰色の朝をぼんやり映している。
布団の中の空気はぬるく、体はまだ眠りを求めて重かった。
けれど。
隣の部屋から、かすかな物音が聞こえる。
「……ん……」
父の声だ。
私は目を閉じたまま、三秒だけ深呼吸をした。
それから、布団をめくる。
足の裏が畳に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わった。
廊下に出ると、古い家特有の木の匂いがする。湿ったような、乾いたような匂い。
障子の隙間から薄い朝の光が漏れていた。
父の部屋の戸を開ける。
「……父さん」
ベッドの上で、父がこちらを見ていた。
右側の体はほとんど動かない。左手だけが、かすかに布団を握っている。
「……美月か」
「うん。おはよう」
父は苦笑した。
「また早いな」
「いつもでしょ」
私はカーテンを少し開ける。朝の冷たい空気が、部屋にゆっくり入ってきた。
ベッドの横に置いてある介護用の椅子に座る。
「お腹すいた?」
「……まあな」
「じゃあ先に体、拭こうか」
父は小さくうなずいた。
洗面所でタオルをお湯に浸すと、湯気がふわっと立ち上る。手のひらに温かさが染みた。
それを持って戻る。
「少し冷めるかもしれないけど」
「十分だ」
私は父の腕をゆっくり持ち上げる。
骨ばった腕。
以前は大きく見えた手が、今は驚くほど軽い。
温かいタオルを当てると、父が小さく息を吐いた。
「……気持ちいいな」
「よかった」
タオルから、かすかに石鹸の匂いがした。
静かな朝だった。
鳥の声。
遠くを走るトラックの低いエンジン音。
その中で、私は黙々と父の体を拭いた。
朝食は、おかゆと味噌汁。
湯気の匂いが、台所に広がる。
「今日はちゃんと食べてね」
私は茶碗を父の前に置く。
「昨日、半分しか食べなかったでしょ」
「そんなに食えん」
「少しでいいから」
スプーンを口元へ運ぶ。
父はゆっくり口を開ける。
「……悪いな」
「なにが?」
「こんなことさせて」
私は首を振った。
「いいよ」
言葉は自然に出た。
でも胸の奥で、何かが少しだけ沈んだ。
食事を終えるころには、朝日はもう高くなっていた。
時計を見る。
午前九時。
私は父をベッドに戻し、台所で洗い物をする。
水の冷たさが指先に染みる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
机の上で、ぶるっと短く。
画面を見る。
通知。
**由香さんが投稿しました**
胸の奥で、小さく何かが動く。
私は指で画面を開いた。
そこに表示された写真。
白い皿。
色鮮やかなサラダ。
黄金色のオムレツ。
カフェの柔らかい光。
テーブルの上のワイングラス。
その下に書かれている文字。
> #今日のランチ
> #幸せ時間
> #介護は長女担当
> #今日は自分へのご褒美
私はしばらく画面を見ていた。
台所の窓から、風が入る。
カーテンがゆっくり揺れる。
味噌汁の残り香が、まだ部屋に漂っている。
父の部屋から、かすかな咳が聞こえた。
私はスマホを握ったまま、深く息を吐く。
「……」
喉の奥が、少しだけ苦かった。
そのとき、また通知が鳴った。
電話。
兄だった。
「もしもし」
「ああ、美月?」
向こうから、車の音が聞こえる。
「どう? 父さん」
「普通。朝ごはん食べた」
「そっか」
兄は少し間を置いて言った。
「助かってるよ」
その声は、どこか遠い。
「今日さ、帰り遅くなるから」
「うん」
「由香も友達と会うらしくてさ」
「そう」
「悪いけど、夜も頼むな」
頼む。
その言葉が、軽く落ちる。
「……わかった」
「さすが長女だな」
兄は笑った。
「やっぱり美月に任せて正解だった」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも私は言わなかった。
「じゃあまたな」
電話はすぐ切れた。
私はゆっくりスマホを置く。
父の部屋から声がする。
「……美月」
「今行く」
私は台所の蛇口を止めた。
水の音が消えると、家は静かだった。
廊下を歩く。
畳の匂い。
古い柱の軋み。
父の部屋の戸を開ける。
「どうしたの?」
「トイレ……」
「うん、行こう」
父の体を支える。
重さが腕にかかる。
父の体温が、肩に伝わる。
「ゆっくりでいいよ」
「……すまんな」
「大丈夫」
一歩。
また一歩。
廊下の床が、ぎし、と鳴る。
私は父の体をしっかり支えた。
窓の外では、昼の光が静かに広がっている。
遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
その明るさが、妙に遠かった。
私は何も言わず、父を支え続けた。
机の上のスマートフォンは、もう暗くなっている。
さっき見た写真も、
軽い言葉も、
すべてその中に沈んでいた。
私は一度だけ、目を閉じた。
それからまた、父の体を支え直す。
長女だから。
その言葉が、胸の奥で静かに重く響いた。
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