『長女だからと介護を押し付けられ会社を辞めた私、父の葬式の翌日に追い出されたので――特約付き贈与契約と不当利得返還請求で兄夫婦を破産させます

かおるこ

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第3話 相談窓口

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第3話 相談窓口

 朝の空気は、まだ少し冷たかった。

 父の部屋の窓を開けると、外の風がゆっくりと入ってくる。近所の家の屋根の上で、雀が小さく鳴いていた。

「寒くない?」

 私はカーテンを半分だけ開けながら聞く。

「……大丈夫だ」

 父はベッドの上で天井を見ていた。右腕は動かない。左手で布団の端をゆっくり握っている。

「今日はな」

 父が言った。

「どこか行くんだろ?」

 私はうなずく。

「うん。区役所の人が教えてくれたところ」

「区役所?」

「介護の相談できる場所があるって」

 父はしばらく黙っていた。

 それから、低い声で言った。

「……迷惑かけてるな」

 私は笑って首を振る。

「そんなことない」

 本当は、少しだけ疲れていた。

 夜中に三回起きた。

 トイレの介助。

 水を飲ませる。

 布団を直す。

 体の奥が重く、腕がだるい。

 でも私はそれを飲み込んだ。

「昼には戻るから」

「無理するな」

「大丈夫」

 私は父の肩に手を置いた。

 体温が、指先に伝わる。

 少し痩せた肩だった。

 

 家を出ると、朝の光が眩しかった。

 住宅街の道は静かで、遠くで掃除機の音が聞こえる。どこかの家から味噌汁の匂いが漂ってきた。

 駅前のバス停には、数人が並んでいる。

 私はバッグを握り直した。

 中には、父の診断書。

 保険証。

 メモ帳。

 全部、何度も確認した。

 

 バスは、少し古い車体だった。

 ドアが開くと、ディーゼルの匂いがふっと鼻に入る。

 私は窓際の席に座った。

 窓の外で、街がゆっくり流れていく。

 スーパー。

 クリーニング屋。

 小学校のグラウンド。

 子どもたちの声。

 その音が、妙に遠く感じた。

 

 降りた場所は、小さな公共施設だった。

 看板には書かれている。

**おとしより相談センター**

 ガラスの扉を押すと、暖房の空気がふわっと広がった。

 中は静かで、壁には健康体操のポスターが貼ってある。

「こんにちは」

 受付の女性が顔を上げた。

「ご相談ですか?」

「はい……」

 私は少し緊張していた。

「父が脳梗塞で」

「そうでしたか」

 女性は優しくうなずく。

「こちらへどうぞ」

 案内された小さな相談室には、丸いテーブルと椅子があった。

 しばらくすると、四十代くらいの女性が入ってきた。

「お待たせしました。社会福祉士の佐藤です」

 柔らかい声だった。

 私は立ち上がり、軽く頭を下げる。

「美月といいます」

「今日はどうされました?」

 私はバッグから書類を取り出した。

「父が脳梗塞で倒れて……半身麻痺で」

「はい」

「今、私が家で介護してるんです」

 佐藤さんは静かにメモを取っている。

「ご家族は?」

 少しだけ、言葉が詰まった。

「兄がいます」

「一緒に住んでますか?」

「……いえ」

 私は視線をテーブルに落とした。

「ほとんど来ません」

 部屋は静かだった。

 壁時計の秒針だけが、小さく音を立てる。

 佐藤さんが言った。

「介護認定は受けていますか?」

「まだです」

「じゃあ、まずそれですね」

 私は顔を上げた。

「認定?」

「はい」

 佐藤さんは資料を一枚出した。

「介護が必要な方は、介護保険の認定を受けるとサービスが使えるんです」

「サービス?」

「ヘルパーさんとか、デイサービスとか」

 私は思わず聞き返した。

「……来てくれるんですか?」

「もちろん」

 佐藤さんは優しく笑う。

「一人で全部やる必要はありません」

 その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。

「要介護認定という審査があって」

「はい」

「調査員がご自宅に行って、お父さまの状態を確認します」

 紙の上の文字が、ゆっくり頭に入ってくる。

「認定が出れば、ケアマネジャーさんがついて」

「ケアマネ?」

「介護の計画を作る人です」

 私は息を吐いた。

 今まで、全部自分で抱えていた。

 夜も。

 昼も。

 食事も。

 排泄も。

 それが、少しだけ分けられるかもしれない。

「費用って……」

 思わず聞いた。

「介護保険が使えるので、大きな負担にはなりません」

 佐藤さんは言った。

「まずは申請しましょう」

 私はうなずいた。

「お願いします」

 

 帰り道。

 外の風は少し暖かくなっていた。

 空は青く、雲がゆっくり流れている。

 私はスマートフォンを取り出した。

 メモアプリを開く。

 そこに書く。

**要介護認定申請**

**調査**

**ケアマネ**

 文字を見ながら、私は小さく息を吐いた。

 家に戻ると、玄関の扉を開ける。

 畳の匂い。

 静かな家。

「ただいま」

 父の部屋の戸を開ける。

 父はベッドでうとうとしていた。

「……帰ったか」

「うん」

「どうだった」

 私は椅子に座った。

「少し助けてもらえるかもしれない」

 父はゆっくり目を開ける。

「そうか」

「ヘルパーさんとか来るらしい」

 父はしばらく黙っていた。

 それから小さく言う。

「……よかったな」

 私は笑った。

 窓から午後の光が差し込む。

 静かな部屋。

 父の呼吸の音。

 遠くで犬が吠えている。

 ほんの少しだけ。

 本当にほんの少しだけ。

 胸の奥の重さが、軽くなった気がした。

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