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第6話:取り戻せるはずだったもの
第6話:取り戻せるはずだったもの
朝の空気は乾いていた。馬の吐く白い息がゆっくりとほどけて、冷えた空に溶けていく。リオンは手綱を強く握り、前だけを見ていた。道は見慣れている。アリアが「実家」と呼んでいた別荘へ向かう道だ。何度か訪れたことがあるはずなのに、今日はやけに遠く感じる。
「大げさなことを」
風に紛れるように呟く。胸の奥にある焦りを、言葉で押し込める。
「戻ればいい。それだけだ」
自分に言い聞かせるように繰り返す。そうだ、迎えに行けばいい。顔を合わせて話をすれば済む話だ。あの女は理屈の通る人間だ。少し感情的になっただけだろう。落ち着けば、また元に戻る。
馬の蹄が石を打つ音が、規則的に響く。乾いた音。耳に残る。
やがて別荘の門が見えた。白い壁、手入れの行き届いた庭。見慣れたはずの景色。
だが、何かがおかしい。
門は閉ざされている。番人の姿がない。いつもなら軽く会釈をして開けるはずの扉が、無言のままそこにある。
「……おい」
声をかける。返事はない。
苛立ちが喉に張り付く。馬から降り、門を押す。軋む音がして、あっけなく開いた。
中へ足を踏み入れる。
静かだった。
風が草を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。庭は整えられているが、人の気配がない。足跡もない。空気が、止まっている。
「誰かいないのか」
声を張る。だが、やはり返事はない。
玄関へ向かう。扉を開けると、冷たい空気が流れ出てきた。室内は暗く、わずかに埃の匂いがする。
足を踏み入れる。床板が小さく軋む。その音が、やけに響く。
視線を巡らせる。家具はある。調度も整っている。だが、生活の痕跡がない。つい最近まで人がいた気配が、きれいに消えている。
「……なんだ、これは」
呟く。喉が乾く。
部屋をひとつひとつ確認する。寝室、書斎、応接室。どこも同じだった。物はある。だが“人がいた形跡”だけが、抜き取られている。
衣装棚を開ける。中は空だ。布の匂いすら残っていない。
「……ふざけるな」
低く吐き捨てる。胸の奥に、ざらりとした不安が広がる。
ここにいるはずだった。そう思っていた。戻ればいい、迎えに行けばいい、そうすれば終わるはずだった。
その前提が、静かに崩れていく。
「どこに行った」
誰にともなく問いかける。返事はない。
拳を握る。爪が掌に食い込む。痛みが遅れて伝わる。
そのとき、背後で気配が動いた。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、見慣れない男たちだった。揃いの装束。深い色合いの外套。無駄のない動きで整列している。
「……誰だ」
リオンは眉をひそめる。
中央に立つ男が一歩前に出る。落ち着いた所作で頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします」
声は低く、よく通る。
「我々は帝国より派遣された使者にございます」
その言葉に、わずかな違和感が走る。
「帝国だと?」
聞き返す。頭の中で何かが引っかかる。
男は静かに頷く。
「はい。侯爵夫人——アリア様に関する件で参りました」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
「……あいつがどうした」
声が少しだけ低くなる。
「現在、アリア様は我が国にお戻りになられております」
淡々と告げられる事実。
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……戻った?」
「はい。よって、本日は今後の関係について、穏便な話し合いの場を設けたく——」
男の言葉を、リオンは遮った。
「待て」
短く、鋭く。
「何を言っている」
眉間に皺が寄る。
「あの女は俺の妻だ」
言い切る。迷いなく。
「勝手にどこへ行こうと、戻れば済む話だ」
空気がわずかに張り詰める。
「帝国だか何だか知らんが、部外者が口を出すな」
吐き捨てるように言う。その声には苛立ちと、そしてわずかな焦燥が混じっていた。
使者は沈黙する。ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……承知いたしました」
静かな声。
「では、交渉は決裂と見なします」
その一言は、驚くほどあっさりとしていた。
リオンは眉をひそめる。
「何を——」
言いかけて、止まる。
男たちはそれ以上何も言わない。ただ、形式通りに一礼し、踵を返す。
足音が静かに遠ざかる。
その背中を見送りながら、リオンは動かなかった。
胸の奥に、言いようのない違和感が残る。
だが、それを言葉にする前に、苛立ちが覆い隠す。
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てる。
「大げさな連中だ」
そう言い切ることで、何かを押し戻す。
アリアは戻る。そう決まっている。今までだってそうだった。今回も同じだ。
そうでなければ、困る。
リオンは別荘を振り返る。空っぽの建物が、ただそこにある。
風が吹き抜ける。扉がきしむ音がした。
その音が、どこか不吉に響いた。
だがリオンは、聞かなかったことにした。
そのまま踵を返し、来た道を戻る。
背後で何かが閉じる音がした気がしたが、振り返らなかった。
それが、最後の分岐点だった。
朝の空気は乾いていた。馬の吐く白い息がゆっくりとほどけて、冷えた空に溶けていく。リオンは手綱を強く握り、前だけを見ていた。道は見慣れている。アリアが「実家」と呼んでいた別荘へ向かう道だ。何度か訪れたことがあるはずなのに、今日はやけに遠く感じる。
「大げさなことを」
風に紛れるように呟く。胸の奥にある焦りを、言葉で押し込める。
「戻ればいい。それだけだ」
自分に言い聞かせるように繰り返す。そうだ、迎えに行けばいい。顔を合わせて話をすれば済む話だ。あの女は理屈の通る人間だ。少し感情的になっただけだろう。落ち着けば、また元に戻る。
馬の蹄が石を打つ音が、規則的に響く。乾いた音。耳に残る。
やがて別荘の門が見えた。白い壁、手入れの行き届いた庭。見慣れたはずの景色。
だが、何かがおかしい。
門は閉ざされている。番人の姿がない。いつもなら軽く会釈をして開けるはずの扉が、無言のままそこにある。
「……おい」
声をかける。返事はない。
苛立ちが喉に張り付く。馬から降り、門を押す。軋む音がして、あっけなく開いた。
中へ足を踏み入れる。
静かだった。
風が草を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。庭は整えられているが、人の気配がない。足跡もない。空気が、止まっている。
「誰かいないのか」
声を張る。だが、やはり返事はない。
玄関へ向かう。扉を開けると、冷たい空気が流れ出てきた。室内は暗く、わずかに埃の匂いがする。
足を踏み入れる。床板が小さく軋む。その音が、やけに響く。
視線を巡らせる。家具はある。調度も整っている。だが、生活の痕跡がない。つい最近まで人がいた気配が、きれいに消えている。
「……なんだ、これは」
呟く。喉が乾く。
部屋をひとつひとつ確認する。寝室、書斎、応接室。どこも同じだった。物はある。だが“人がいた形跡”だけが、抜き取られている。
衣装棚を開ける。中は空だ。布の匂いすら残っていない。
「……ふざけるな」
低く吐き捨てる。胸の奥に、ざらりとした不安が広がる。
ここにいるはずだった。そう思っていた。戻ればいい、迎えに行けばいい、そうすれば終わるはずだった。
その前提が、静かに崩れていく。
「どこに行った」
誰にともなく問いかける。返事はない。
拳を握る。爪が掌に食い込む。痛みが遅れて伝わる。
そのとき、背後で気配が動いた。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、見慣れない男たちだった。揃いの装束。深い色合いの外套。無駄のない動きで整列している。
「……誰だ」
リオンは眉をひそめる。
中央に立つ男が一歩前に出る。落ち着いた所作で頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします」
声は低く、よく通る。
「我々は帝国より派遣された使者にございます」
その言葉に、わずかな違和感が走る。
「帝国だと?」
聞き返す。頭の中で何かが引っかかる。
男は静かに頷く。
「はい。侯爵夫人——アリア様に関する件で参りました」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
「……あいつがどうした」
声が少しだけ低くなる。
「現在、アリア様は我が国にお戻りになられております」
淡々と告げられる事実。
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……戻った?」
「はい。よって、本日は今後の関係について、穏便な話し合いの場を設けたく——」
男の言葉を、リオンは遮った。
「待て」
短く、鋭く。
「何を言っている」
眉間に皺が寄る。
「あの女は俺の妻だ」
言い切る。迷いなく。
「勝手にどこへ行こうと、戻れば済む話だ」
空気がわずかに張り詰める。
「帝国だか何だか知らんが、部外者が口を出すな」
吐き捨てるように言う。その声には苛立ちと、そしてわずかな焦燥が混じっていた。
使者は沈黙する。ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……承知いたしました」
静かな声。
「では、交渉は決裂と見なします」
その一言は、驚くほどあっさりとしていた。
リオンは眉をひそめる。
「何を——」
言いかけて、止まる。
男たちはそれ以上何も言わない。ただ、形式通りに一礼し、踵を返す。
足音が静かに遠ざかる。
その背中を見送りながら、リオンは動かなかった。
胸の奥に、言いようのない違和感が残る。
だが、それを言葉にする前に、苛立ちが覆い隠す。
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てる。
「大げさな連中だ」
そう言い切ることで、何かを押し戻す。
アリアは戻る。そう決まっている。今までだってそうだった。今回も同じだ。
そうでなければ、困る。
リオンは別荘を振り返る。空っぽの建物が、ただそこにある。
風が吹き抜ける。扉がきしむ音がした。
その音が、どこか不吉に響いた。
だがリオンは、聞かなかったことにした。
そのまま踵を返し、来た道を戻る。
背後で何かが閉じる音がした気がしたが、振り返らなかった。
それが、最後の分岐点だった。
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