『十五人囃子の不在』

かおるこ

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第一話「一番親王:埃を払う」

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第一話「一番親王:埃を払う」

納戸の襖を開けた瞬間、白い粉のような光が舞った。

「うわ……」

くしゃみをこらえる。
樟脳の匂いが、鼻の奥をつんと刺す。甘くて冷たい、子どもの頃の匂い。

「そこ、まだあったのね」

背後で母が言う。

「あるでしょ。毎年出してたじゃん」

「あなたが家にいた頃はね」

その一言に、細い棘が混じる。

段ボールの蓋を開ける。
絹の衣擦れが、さらりと静かに鳴る。
白い和紙に包まれた顔。
ひんやりとした陶器の頬。

「……二十年ぶりかも」

「そんなに?」

「だって大学出てから、まともに帰ってなかったし」

「忙しい人だものね」

母は笑う。けれど目は笑っていない。

人形を一体ずつ出す。
掌にのせると、思ったより軽い。
なのに、胸の奥は重い。

「早く出さないと、行き遅れるよ」

小学生の頃、母に言われた声が、耳の奥で再生される。

「そんな迷信、信じてないでしょ?」

わたしは半分冗談のつもりで言う。

「信じてないわよ」

「じゃあなんで毎年急かしたの」

「だって、あなたが……」

母はそこで言葉を止める。

沈黙が落ちる。
畳のい草の匂いが、じんわりと湿っている。

「わたしが、なに?」

「……いいから、並べましょう」

一番上の段に、親王を置く。
緋色の毛氈が、指先にざらりとした感触を残す。

男雛と女雛。
目は、どこも見ていないようで、すべてを見ている。

「急かしてないよね、あなたたち」

思わず小さくつぶやく。

「なに?」

「ううん」

女雛の袖を整える。
金糸が光を拾う。
その表情は穏やかだ。

急かさない。
責めない。
ただ、そこにいる。

「わたし、結婚しないかもしれないよ」

ぽつりと口に出す。

母の手が止まる。

「急にどうしたの」

「急じゃないよ。三十五だよ?」

「だから?」

「だから……普通は、もう」

「普通ってなに」

母の声が少し強くなる。

「あなたが幸せなら、それでいいじゃない」

「ほんとに?」

「ほんとに」

その言葉は、思っていたよりも柔らかい。

でも、わたしの胸はまだざわついている。

“早くしないと”

“行き遅れる”

“取り残される”

誰の声だろう。

母の声に似ているけれど、
もっと若くて、もっと怯えている。

ああ。

「わたし、怖かったんだ」

「なにが?」

「置いていかれるのが」

口にした瞬間、喉が熱くなる。

母はゆっくりと座り込む。

「置いていくわけないでしょ」

「違うよ。周りが」

友達の結婚式。
出産報告。
SNSの笑顔。

緋色の毛氈の赤が、やけに鮮やかに目に刺さる。

「あなたは、あなたの段を生きなさい」

母は、女雛の冠を直しながら言う。

「段?」

「そう。人の人生は、七段もあるのよ」

くすりと笑う。

「上から順に進まなくてもいいの」

わたしは女雛の顔を見つめる。

凛としている。
けれど、どこか寂しそうにも見える。

「縛ってたの、わたしかも」

「なにを」

「“母に急かされてる娘”って役を」

母は、少し目を丸くする。

「あなた、そんなふうに思ってたの?」

「うん」

「馬鹿ね」

母は笑う。
その笑いは、思ったよりもあたたかい。

「わたしはね、あなたがここに帰ってくる口実が欲しかっただけ」

「え?」

「雛人形を出すって言えば、帰ってくるかなって」

言葉が、胸に落ちる。

樟脳の匂いが、少しだけ甘くなる。

「なんだ、それ」

「なんだ、それよ」

ふたりで笑う。

最後に男雛を置く。
二体は、静かに並ぶ。

急かさない。
ただ、向かい合っている。

わたしは、埃を払う。

さらり、と袖を撫でる。

縛っていたのは母じゃない。
雛人形でもない。

“急がなきゃ”と叫ぶ、
自分の中の、小さな声。

その声に、そっと言う。

「大丈夫だよ」

母が立ち上がる。

「来年も、出す?」

「うん」

「一緒に?」

「うん。一緒に」

緋色の段の上で、
親王は静かに笑っているように見えた。

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