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第一話「一番親王:埃を払う」
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第一話「一番親王:埃を払う」
納戸の襖を開けた瞬間、白い粉のような光が舞った。
「うわ……」
くしゃみをこらえる。
樟脳の匂いが、鼻の奥をつんと刺す。甘くて冷たい、子どもの頃の匂い。
「そこ、まだあったのね」
背後で母が言う。
「あるでしょ。毎年出してたじゃん」
「あなたが家にいた頃はね」
その一言に、細い棘が混じる。
段ボールの蓋を開ける。
絹の衣擦れが、さらりと静かに鳴る。
白い和紙に包まれた顔。
ひんやりとした陶器の頬。
「……二十年ぶりかも」
「そんなに?」
「だって大学出てから、まともに帰ってなかったし」
「忙しい人だものね」
母は笑う。けれど目は笑っていない。
人形を一体ずつ出す。
掌にのせると、思ったより軽い。
なのに、胸の奥は重い。
「早く出さないと、行き遅れるよ」
小学生の頃、母に言われた声が、耳の奥で再生される。
「そんな迷信、信じてないでしょ?」
わたしは半分冗談のつもりで言う。
「信じてないわよ」
「じゃあなんで毎年急かしたの」
「だって、あなたが……」
母はそこで言葉を止める。
沈黙が落ちる。
畳のい草の匂いが、じんわりと湿っている。
「わたしが、なに?」
「……いいから、並べましょう」
一番上の段に、親王を置く。
緋色の毛氈が、指先にざらりとした感触を残す。
男雛と女雛。
目は、どこも見ていないようで、すべてを見ている。
「急かしてないよね、あなたたち」
思わず小さくつぶやく。
「なに?」
「ううん」
女雛の袖を整える。
金糸が光を拾う。
その表情は穏やかだ。
急かさない。
責めない。
ただ、そこにいる。
「わたし、結婚しないかもしれないよ」
ぽつりと口に出す。
母の手が止まる。
「急にどうしたの」
「急じゃないよ。三十五だよ?」
「だから?」
「だから……普通は、もう」
「普通ってなに」
母の声が少し強くなる。
「あなたが幸せなら、それでいいじゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
その言葉は、思っていたよりも柔らかい。
でも、わたしの胸はまだざわついている。
“早くしないと”
“行き遅れる”
“取り残される”
誰の声だろう。
母の声に似ているけれど、
もっと若くて、もっと怯えている。
ああ。
「わたし、怖かったんだ」
「なにが?」
「置いていかれるのが」
口にした瞬間、喉が熱くなる。
母はゆっくりと座り込む。
「置いていくわけないでしょ」
「違うよ。周りが」
友達の結婚式。
出産報告。
SNSの笑顔。
緋色の毛氈の赤が、やけに鮮やかに目に刺さる。
「あなたは、あなたの段を生きなさい」
母は、女雛の冠を直しながら言う。
「段?」
「そう。人の人生は、七段もあるのよ」
くすりと笑う。
「上から順に進まなくてもいいの」
わたしは女雛の顔を見つめる。
凛としている。
けれど、どこか寂しそうにも見える。
「縛ってたの、わたしかも」
「なにを」
「“母に急かされてる娘”って役を」
母は、少し目を丸くする。
「あなた、そんなふうに思ってたの?」
「うん」
「馬鹿ね」
母は笑う。
その笑いは、思ったよりもあたたかい。
「わたしはね、あなたがここに帰ってくる口実が欲しかっただけ」
「え?」
「雛人形を出すって言えば、帰ってくるかなって」
言葉が、胸に落ちる。
樟脳の匂いが、少しだけ甘くなる。
「なんだ、それ」
「なんだ、それよ」
ふたりで笑う。
最後に男雛を置く。
二体は、静かに並ぶ。
急かさない。
ただ、向かい合っている。
わたしは、埃を払う。
さらり、と袖を撫でる。
縛っていたのは母じゃない。
雛人形でもない。
“急がなきゃ”と叫ぶ、
自分の中の、小さな声。
その声に、そっと言う。
「大丈夫だよ」
母が立ち上がる。
「来年も、出す?」
「うん」
「一緒に?」
「うん。一緒に」
緋色の段の上で、
親王は静かに笑っているように見えた。
納戸の襖を開けた瞬間、白い粉のような光が舞った。
「うわ……」
くしゃみをこらえる。
樟脳の匂いが、鼻の奥をつんと刺す。甘くて冷たい、子どもの頃の匂い。
「そこ、まだあったのね」
背後で母が言う。
「あるでしょ。毎年出してたじゃん」
「あなたが家にいた頃はね」
その一言に、細い棘が混じる。
段ボールの蓋を開ける。
絹の衣擦れが、さらりと静かに鳴る。
白い和紙に包まれた顔。
ひんやりとした陶器の頬。
「……二十年ぶりかも」
「そんなに?」
「だって大学出てから、まともに帰ってなかったし」
「忙しい人だものね」
母は笑う。けれど目は笑っていない。
人形を一体ずつ出す。
掌にのせると、思ったより軽い。
なのに、胸の奥は重い。
「早く出さないと、行き遅れるよ」
小学生の頃、母に言われた声が、耳の奥で再生される。
「そんな迷信、信じてないでしょ?」
わたしは半分冗談のつもりで言う。
「信じてないわよ」
「じゃあなんで毎年急かしたの」
「だって、あなたが……」
母はそこで言葉を止める。
沈黙が落ちる。
畳のい草の匂いが、じんわりと湿っている。
「わたしが、なに?」
「……いいから、並べましょう」
一番上の段に、親王を置く。
緋色の毛氈が、指先にざらりとした感触を残す。
男雛と女雛。
目は、どこも見ていないようで、すべてを見ている。
「急かしてないよね、あなたたち」
思わず小さくつぶやく。
「なに?」
「ううん」
女雛の袖を整える。
金糸が光を拾う。
その表情は穏やかだ。
急かさない。
責めない。
ただ、そこにいる。
「わたし、結婚しないかもしれないよ」
ぽつりと口に出す。
母の手が止まる。
「急にどうしたの」
「急じゃないよ。三十五だよ?」
「だから?」
「だから……普通は、もう」
「普通ってなに」
母の声が少し強くなる。
「あなたが幸せなら、それでいいじゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
その言葉は、思っていたよりも柔らかい。
でも、わたしの胸はまだざわついている。
“早くしないと”
“行き遅れる”
“取り残される”
誰の声だろう。
母の声に似ているけれど、
もっと若くて、もっと怯えている。
ああ。
「わたし、怖かったんだ」
「なにが?」
「置いていかれるのが」
口にした瞬間、喉が熱くなる。
母はゆっくりと座り込む。
「置いていくわけないでしょ」
「違うよ。周りが」
友達の結婚式。
出産報告。
SNSの笑顔。
緋色の毛氈の赤が、やけに鮮やかに目に刺さる。
「あなたは、あなたの段を生きなさい」
母は、女雛の冠を直しながら言う。
「段?」
「そう。人の人生は、七段もあるのよ」
くすりと笑う。
「上から順に進まなくてもいいの」
わたしは女雛の顔を見つめる。
凛としている。
けれど、どこか寂しそうにも見える。
「縛ってたの、わたしかも」
「なにを」
「“母に急かされてる娘”って役を」
母は、少し目を丸くする。
「あなた、そんなふうに思ってたの?」
「うん」
「馬鹿ね」
母は笑う。
その笑いは、思ったよりもあたたかい。
「わたしはね、あなたがここに帰ってくる口実が欲しかっただけ」
「え?」
「雛人形を出すって言えば、帰ってくるかなって」
言葉が、胸に落ちる。
樟脳の匂いが、少しだけ甘くなる。
「なんだ、それ」
「なんだ、それよ」
ふたりで笑う。
最後に男雛を置く。
二体は、静かに並ぶ。
急かさない。
ただ、向かい合っている。
わたしは、埃を払う。
さらり、と袖を撫でる。
縛っていたのは母じゃない。
雛人形でもない。
“急がなきゃ”と叫ぶ、
自分の中の、小さな声。
その声に、そっと言う。
「大丈夫だよ」
母が立ち上がる。
「来年も、出す?」
「うん」
「一緒に?」
「うん。一緒に」
緋色の段の上で、
親王は静かに笑っているように見えた。
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