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第二話「三首の官女:沈黙の給仕」
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第二話「三首の官女:沈黙の給仕」
甘い酢の匂いが、台所いっぱいに広がっている。
錦糸卵を細く刻む包丁の音が、まな板に小さく弾む。
しゃり、と、しゃり。
「もう少し薄く切れないの?」
背後から姑の声が落ちる。
「はい」
返事は反射だ。
振り向かない。
卵が崩れないように、呼吸を浅くする。
酢飯の湯気が、眼鏡を曇らせる。
甘くて、少しむせる匂い。
「今日は三月三日なんだから、きちんとしないとね」
「はい」
きちんと。
その言葉が、胸の奥で硬くなる。
食卓はすでに整っている。
蛤のお吸い物。
菜の花のからし和え。
桃色の菱餅。
完璧だ、と自分でも思う。
なのに。
「盛り付け、去年より雑じゃない?」
「すみません」
謝るたびに、喉の奥がひりつく。
居間の隅に、七段飾りがある。
緋色の毛氈が、午後の光を受けて燃えるようだ。
三人官女。
中央に酒器を持つ一体。
向かって右は、口を開いている。
左も、わずかに。
けれど、真ん中の官女だけが、唇をきゅっと閉じている。
「どうして、この子だけ黙ってるの?」
思わず声に出る。
「なにが?」
姑が振り向く。
「いえ、あの……人形の話です」
近づいて、顔をのぞき込む。
白粉の白い頬。
黒い髪。
静かな口元。
閉じている。
きれいに、固く。
「三人官女はね、それぞれ役割が違うのよ」
姑が言う。
「真ん中は既婚。両脇は未婚だったはず」
「そうなんですか」
「だから落ち着いて見えるでしょう?」
落ち着いて。
それは、諦めているようにも見える。
食卓に戻る。
湯気が、また立ちのぼる。
「あなたも、もっと余裕を持ちなさい」
「はい」
余裕。
口の中に、酢の酸味が残る。
「お義母さんは、こういう行事、好きですか」
ふと、聞いてしまう。
「好きも嫌いもないわ。やるべきことだからやるの」
やるべきこと。
わたしは、官女の口を思い出す。
閉じている。
言い返さない。
言わない。
言えない。
娘が廊下を走ってくる。
「ママ、これかわいい!」
小さな手が、官女の袖をつまむ。
「触っちゃだめよ!」
思わず強く言ってしまう。
娘がびくりとする。
「あ、ごめん……」
姑が苦笑する。
「神経質ね」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
神経質。
わたしは、官女のように口を閉じる。
夕方、姑が買い物に出た隙。
静かな家。
緋色の段の前に、ひとり座る。
「あなた、どうして黙ってるの?」
官女に問いかける。
もちろん、返事はない。
けれど、その目は、まっすぐ前を向いている。
「わたしもね、ずっと黙ってる」
食卓の味。
言葉を飲み込む癖。
笑顔の形。
「言ったら、壊れると思ってた」
家族の形が。
この、完璧な行事のかたちが。
官女の位置を、そっと動かす。
中央から、右へ。
右の官女を中央に。
「……あ」
小さな音がする。
人形の台が、緋色の布を擦る。
心臓がどくん、と鳴る。
「こんなことで」
誰も気づかないかもしれない。
でも、わたしは知っている。
中央に置いた官女は、口を少し開けている。
何かを言いかけている。
「これでいいよね」
娘が後ろからのぞく。
「ママ、並び変えたの?」
「うん。ちょっとね」
「なんで?」
「真ん中の子、しゃべりたそうだったから」
娘が笑う。
「へんなの」
へんなの。
そうかもしれない。
でも、胸の奥が少しだけ軽い。
台所に戻る。
鍋の蓋を開けると、湯気が立ちのぼる。
今度は、はっきりと言う。
「お義母さん、来年は一緒に作りませんか」
姑が振り向く。
「一緒に?」
「はい。全部ひとりでやるより、楽しいかもしれません」
沈黙。
わたしは、逃げない。
官女のように、目を前に向ける。
「……そうね」
姑が小さく笑う。
「たまにはいいかもね」
酢飯を混ぜる手が、少しだけ軽くなる。
緋色の段の中央で、
口を開いた官女が、静かに座っている。
小さな配置換え。
誰にも気づかれない、わたしだけの反抗。
沈黙は、まだ消えていない。
けれど、
声は、確かに動きはじめている。
甘い酢の匂いが、台所いっぱいに広がっている。
錦糸卵を細く刻む包丁の音が、まな板に小さく弾む。
しゃり、と、しゃり。
「もう少し薄く切れないの?」
背後から姑の声が落ちる。
「はい」
返事は反射だ。
振り向かない。
卵が崩れないように、呼吸を浅くする。
酢飯の湯気が、眼鏡を曇らせる。
甘くて、少しむせる匂い。
「今日は三月三日なんだから、きちんとしないとね」
「はい」
きちんと。
その言葉が、胸の奥で硬くなる。
食卓はすでに整っている。
蛤のお吸い物。
菜の花のからし和え。
桃色の菱餅。
完璧だ、と自分でも思う。
なのに。
「盛り付け、去年より雑じゃない?」
「すみません」
謝るたびに、喉の奥がひりつく。
居間の隅に、七段飾りがある。
緋色の毛氈が、午後の光を受けて燃えるようだ。
三人官女。
中央に酒器を持つ一体。
向かって右は、口を開いている。
左も、わずかに。
けれど、真ん中の官女だけが、唇をきゅっと閉じている。
「どうして、この子だけ黙ってるの?」
思わず声に出る。
「なにが?」
姑が振り向く。
「いえ、あの……人形の話です」
近づいて、顔をのぞき込む。
白粉の白い頬。
黒い髪。
静かな口元。
閉じている。
きれいに、固く。
「三人官女はね、それぞれ役割が違うのよ」
姑が言う。
「真ん中は既婚。両脇は未婚だったはず」
「そうなんですか」
「だから落ち着いて見えるでしょう?」
落ち着いて。
それは、諦めているようにも見える。
食卓に戻る。
湯気が、また立ちのぼる。
「あなたも、もっと余裕を持ちなさい」
「はい」
余裕。
口の中に、酢の酸味が残る。
「お義母さんは、こういう行事、好きですか」
ふと、聞いてしまう。
「好きも嫌いもないわ。やるべきことだからやるの」
やるべきこと。
わたしは、官女の口を思い出す。
閉じている。
言い返さない。
言わない。
言えない。
娘が廊下を走ってくる。
「ママ、これかわいい!」
小さな手が、官女の袖をつまむ。
「触っちゃだめよ!」
思わず強く言ってしまう。
娘がびくりとする。
「あ、ごめん……」
姑が苦笑する。
「神経質ね」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
神経質。
わたしは、官女のように口を閉じる。
夕方、姑が買い物に出た隙。
静かな家。
緋色の段の前に、ひとり座る。
「あなた、どうして黙ってるの?」
官女に問いかける。
もちろん、返事はない。
けれど、その目は、まっすぐ前を向いている。
「わたしもね、ずっと黙ってる」
食卓の味。
言葉を飲み込む癖。
笑顔の形。
「言ったら、壊れると思ってた」
家族の形が。
この、完璧な行事のかたちが。
官女の位置を、そっと動かす。
中央から、右へ。
右の官女を中央に。
「……あ」
小さな音がする。
人形の台が、緋色の布を擦る。
心臓がどくん、と鳴る。
「こんなことで」
誰も気づかないかもしれない。
でも、わたしは知っている。
中央に置いた官女は、口を少し開けている。
何かを言いかけている。
「これでいいよね」
娘が後ろからのぞく。
「ママ、並び変えたの?」
「うん。ちょっとね」
「なんで?」
「真ん中の子、しゃべりたそうだったから」
娘が笑う。
「へんなの」
へんなの。
そうかもしれない。
でも、胸の奥が少しだけ軽い。
台所に戻る。
鍋の蓋を開けると、湯気が立ちのぼる。
今度は、はっきりと言う。
「お義母さん、来年は一緒に作りませんか」
姑が振り向く。
「一緒に?」
「はい。全部ひとりでやるより、楽しいかもしれません」
沈黙。
わたしは、逃げない。
官女のように、目を前に向ける。
「……そうね」
姑が小さく笑う。
「たまにはいいかもね」
酢飯を混ぜる手が、少しだけ軽くなる。
緋色の段の中央で、
口を開いた官女が、静かに座っている。
小さな配置換え。
誰にも気づかれない、わたしだけの反抗。
沈黙は、まだ消えていない。
けれど、
声は、確かに動きはじめている。
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