『十五人囃子の不在』

かおるこ

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第二話「三首の官女:沈黙の給仕」

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第二話「三首の官女:沈黙の給仕」

甘い酢の匂いが、台所いっぱいに広がっている。

錦糸卵を細く刻む包丁の音が、まな板に小さく弾む。
しゃり、と、しゃり。

「もう少し薄く切れないの?」

背後から姑の声が落ちる。

「はい」

返事は反射だ。
振り向かない。
卵が崩れないように、呼吸を浅くする。

酢飯の湯気が、眼鏡を曇らせる。
甘くて、少しむせる匂い。

「今日は三月三日なんだから、きちんとしないとね」

「はい」

きちんと。

その言葉が、胸の奥で硬くなる。

食卓はすでに整っている。
蛤のお吸い物。
菜の花のからし和え。
桃色の菱餅。

完璧だ、と自分でも思う。

なのに。

「盛り付け、去年より雑じゃない?」

「すみません」

謝るたびに、喉の奥がひりつく。

居間の隅に、七段飾りがある。
緋色の毛氈が、午後の光を受けて燃えるようだ。

三人官女。
中央に酒器を持つ一体。
向かって右は、口を開いている。
左も、わずかに。

けれど、真ん中の官女だけが、唇をきゅっと閉じている。

「どうして、この子だけ黙ってるの?」

思わず声に出る。

「なにが?」

姑が振り向く。

「いえ、あの……人形の話です」

近づいて、顔をのぞき込む。
白粉の白い頬。
黒い髪。
静かな口元。

閉じている。

きれいに、固く。

「三人官女はね、それぞれ役割が違うのよ」

姑が言う。

「真ん中は既婚。両脇は未婚だったはず」

「そうなんですか」

「だから落ち着いて見えるでしょう?」

落ち着いて。

それは、諦めているようにも見える。

食卓に戻る。
湯気が、また立ちのぼる。

「あなたも、もっと余裕を持ちなさい」

「はい」

余裕。

口の中に、酢の酸味が残る。

「お義母さんは、こういう行事、好きですか」

ふと、聞いてしまう。

「好きも嫌いもないわ。やるべきことだからやるの」

やるべきこと。

わたしは、官女の口を思い出す。

閉じている。

言い返さない。

言わない。

言えない。

娘が廊下を走ってくる。

「ママ、これかわいい!」

小さな手が、官女の袖をつまむ。

「触っちゃだめよ!」

思わず強く言ってしまう。

娘がびくりとする。

「あ、ごめん……」

姑が苦笑する。

「神経質ね」

胸の奥が、じわりと熱くなる。

神経質。

わたしは、官女のように口を閉じる。

夕方、姑が買い物に出た隙。

静かな家。

緋色の段の前に、ひとり座る。

「あなた、どうして黙ってるの?」

官女に問いかける。

もちろん、返事はない。

けれど、その目は、まっすぐ前を向いている。

「わたしもね、ずっと黙ってる」

食卓の味。
言葉を飲み込む癖。
笑顔の形。

「言ったら、壊れると思ってた」

家族の形が。
この、完璧な行事のかたちが。

官女の位置を、そっと動かす。

中央から、右へ。

右の官女を中央に。

「……あ」

小さな音がする。
人形の台が、緋色の布を擦る。

心臓がどくん、と鳴る。

「こんなことで」

誰も気づかないかもしれない。

でも、わたしは知っている。

中央に置いた官女は、口を少し開けている。

何かを言いかけている。

「これでいいよね」

娘が後ろからのぞく。

「ママ、並び変えたの?」

「うん。ちょっとね」

「なんで?」

「真ん中の子、しゃべりたそうだったから」

娘が笑う。

「へんなの」

へんなの。

そうかもしれない。

でも、胸の奥が少しだけ軽い。

台所に戻る。

鍋の蓋を開けると、湯気が立ちのぼる。

今度は、はっきりと言う。

「お義母さん、来年は一緒に作りませんか」

姑が振り向く。

「一緒に?」

「はい。全部ひとりでやるより、楽しいかもしれません」

沈黙。

わたしは、逃げない。

官女のように、目を前に向ける。

「……そうね」

姑が小さく笑う。

「たまにはいいかもね」

酢飯を混ぜる手が、少しだけ軽くなる。

緋色の段の中央で、
口を開いた官女が、静かに座っている。

小さな配置換え。

誰にも気づかれない、わたしだけの反抗。

沈黙は、まだ消えていない。

けれど、
声は、確かに動きはじめている。

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