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第九話「流し雛」
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第九話「流し雛」
川は、思っていたよりも静かだった。
三月の風が、水面をなぞる。
冷たい匂い。湿った土の匂い。
遠くで子どもの笑い声がかすかに聞こえる。
「ほんとにやるの?」
娘が隣で言う。
「うん」
小さな紙雛を、掌にのせる。
和紙は薄く、指の体温でやわらかくなる。
淡い桃色の着物が、風にふるえる。
「流し雛ってさ、厄を流すんでしょ?」
娘がしゃがみ込む。
「そうね」
「なに流すの?」
少し考える。
喉の奥が乾く。
「……幸せな家族、かな」
娘が顔を上げる。
「え?」
「返します、って」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
川の水に指をひたす。
氷みたいに冷たい。
「ママ、パパと本当に別れるの?」
娘の声は、震えていない。
まっすぐだ。
「うん」
「ケンカ?」
「違う」
風が吹く。
紙雛がかさりと鳴る。
「音が、合わなくなったの」
娘が首をかしげる。
「音?」
「前はね、不協和音でも、合わせようって思えた」
五人囃子の笛の音を思い出す。
不器用で、まっすぐだった音。
「でもね」
川面を見る。
自分の顔が、揺れている。
「もう、合わせなくてもいいかなって思ったの」
「パパは?」
「まだ、合わせたいって言ってる」
胸がきゅっと締まる。
「じゃあ、なんで」
娘の声が、少しだけ高くなる。
「わたしが、合わせるのやめたから」
沈黙。
川の流れる音。
紙雛をそっと水に置く。
「幸せな家族、返します」
小さく言う。
和紙が、水を吸う。
ゆっくりと、滲む。
「身代わりになってもらうの?」
娘が聞く。
「ううん」
首を振る。
「もう、身代わりはいらない」
水に溶ける桃色。
「わたしの不満も、我慢も、誰かのせいにしない」
和紙が、くしゃりと形を変える。
「わたしが、選ぶ」
娘が黙って見つめる。
「怖くないの?」
「怖いよ」
正直に言う。
足が、震えている。
「でもね」
川の流れを見つめる。
「怖いからって、流されるのはやめる」
紙雛が、ゆっくりと下流へ流れていく。
「ママ、泣いてる?」
頬が、ひやりとする。
「あ、ほんとだ」
涙が、風に乾く。
「ごめんね」
娘が、そっと手を握る。
「なんで謝るの」
「ちゃんとした家族、守れなかった」
娘が、ぎゅっと手を握り返す。
「ちゃんとしてなくても、家族だよ」
その言葉が、胸に刺さる。
川は、何も言わない。
ただ、流れる。
「ママさ」
娘が言う。
「前より、顔、楽そう」
「そう?」
「うん」
深く息を吸う。
冷たい空気が肺に入る。
確かに、軽い。
痛いのに、軽い。
「ねえ」
娘が笑う。
「次はさ、三人で流し雛やろうよ」
「三人?」
「ママと、わたしと、パパ」
驚く。
「なんで」
「パパも、身代わりいらないかもしれないじゃん」
思わず笑う。
「あなた、強いね」
「ママの娘だもん」
川面に、紙雛の色はもう見えない。
溶けた和紙は、流れの中に消えていく。
幸せな家族という形。
緋色の段の、整った並び。
あれは、きれいだった。
でも、わたしは、そこから降りる。
「帰ろうか」
娘が立ち上がる。
「うん」
川辺の砂利を踏む。
ざく、ざく、と音がする。
足は、自分で動いている。
流されていない。
身代わりではなく。
自分の足で。
春の風が、髪を揺らす。
流し雛は、もう見えない。
でも、胸の中に、
小さな空白ができた。
痛いけれど、
そこに、新しい風が通っている。
川は、思っていたよりも静かだった。
三月の風が、水面をなぞる。
冷たい匂い。湿った土の匂い。
遠くで子どもの笑い声がかすかに聞こえる。
「ほんとにやるの?」
娘が隣で言う。
「うん」
小さな紙雛を、掌にのせる。
和紙は薄く、指の体温でやわらかくなる。
淡い桃色の着物が、風にふるえる。
「流し雛ってさ、厄を流すんでしょ?」
娘がしゃがみ込む。
「そうね」
「なに流すの?」
少し考える。
喉の奥が乾く。
「……幸せな家族、かな」
娘が顔を上げる。
「え?」
「返します、って」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
川の水に指をひたす。
氷みたいに冷たい。
「ママ、パパと本当に別れるの?」
娘の声は、震えていない。
まっすぐだ。
「うん」
「ケンカ?」
「違う」
風が吹く。
紙雛がかさりと鳴る。
「音が、合わなくなったの」
娘が首をかしげる。
「音?」
「前はね、不協和音でも、合わせようって思えた」
五人囃子の笛の音を思い出す。
不器用で、まっすぐだった音。
「でもね」
川面を見る。
自分の顔が、揺れている。
「もう、合わせなくてもいいかなって思ったの」
「パパは?」
「まだ、合わせたいって言ってる」
胸がきゅっと締まる。
「じゃあ、なんで」
娘の声が、少しだけ高くなる。
「わたしが、合わせるのやめたから」
沈黙。
川の流れる音。
紙雛をそっと水に置く。
「幸せな家族、返します」
小さく言う。
和紙が、水を吸う。
ゆっくりと、滲む。
「身代わりになってもらうの?」
娘が聞く。
「ううん」
首を振る。
「もう、身代わりはいらない」
水に溶ける桃色。
「わたしの不満も、我慢も、誰かのせいにしない」
和紙が、くしゃりと形を変える。
「わたしが、選ぶ」
娘が黙って見つめる。
「怖くないの?」
「怖いよ」
正直に言う。
足が、震えている。
「でもね」
川の流れを見つめる。
「怖いからって、流されるのはやめる」
紙雛が、ゆっくりと下流へ流れていく。
「ママ、泣いてる?」
頬が、ひやりとする。
「あ、ほんとだ」
涙が、風に乾く。
「ごめんね」
娘が、そっと手を握る。
「なんで謝るの」
「ちゃんとした家族、守れなかった」
娘が、ぎゅっと手を握り返す。
「ちゃんとしてなくても、家族だよ」
その言葉が、胸に刺さる。
川は、何も言わない。
ただ、流れる。
「ママさ」
娘が言う。
「前より、顔、楽そう」
「そう?」
「うん」
深く息を吸う。
冷たい空気が肺に入る。
確かに、軽い。
痛いのに、軽い。
「ねえ」
娘が笑う。
「次はさ、三人で流し雛やろうよ」
「三人?」
「ママと、わたしと、パパ」
驚く。
「なんで」
「パパも、身代わりいらないかもしれないじゃん」
思わず笑う。
「あなた、強いね」
「ママの娘だもん」
川面に、紙雛の色はもう見えない。
溶けた和紙は、流れの中に消えていく。
幸せな家族という形。
緋色の段の、整った並び。
あれは、きれいだった。
でも、わたしは、そこから降りる。
「帰ろうか」
娘が立ち上がる。
「うん」
川辺の砂利を踏む。
ざく、ざく、と音がする。
足は、自分で動いている。
流されていない。
身代わりではなく。
自分の足で。
春の風が、髪を揺らす。
流し雛は、もう見えない。
でも、胸の中に、
小さな空白ができた。
痛いけれど、
そこに、新しい風が通っている。
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