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エピローグ「春のあと」
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エピローグ「春のあと」
「ねえ、今年は出さないの?」
娘の声が、玄関先で弾んだ。
「どうしよっか」
母は少し笑う。
三月は、もう半ばを過ぎている。
窓から入る光はやわらかく、冬の硬さを失っている。
納戸の前に、箱が積まれている。
樟脳の甘く冷たい匂い。
木の箱の乾いた匂い。
指先に触れる、ざらりとした木目。
「出してもいいし、出さなくてもいい」
祖父が言う。
「選べるようになったな」
「うん」
誰かが答える。
あの年、
緋色の絨毯の上に、ぽっかりと空白が残った。
誰も指摘しなかった。
でも、みんな、どこかで気づいていた。
「ねえ」
植物園の彼が、桃の枝を持ってきた。
「咲いたよ」
淡い花弁が、光を透かす。
「今年も早いね」
「うん。狂い咲き」
笑いが、部屋に溶ける。
「不在ってさ」
浪人生だった弟が、ぽつりと言う。
「悪いことばっかりじゃないよな」
「どういう意味?」
姉が首をかしげる。
「空いてると、風が通る」
祖父が、ふっと笑う。
「詩人か」
「やめてくれ」
みんなが笑う。
離婚を決めた妻は、娘の肩に手を置く。
「流し雛、またやろうか」
「やる!」
娘が声を上げる。
「でも、今度は願い事にしよ」
「どんな?」
「身代わりじゃなくて、自分で叶えるやつ」
静かな沈黙が、あたたかく落ちる。
箱を開ける。
かさり、と和紙が鳴る。
「やっぱり出す?」
「うん」
「でも、並べ方は自由ね」
三人官女の位置を、少し変える。
五人囃子の笛を、ほんの少し前へ。
右大臣と左大臣の距離を、わずかに縮める。
「それ、正しい並び?」
「知らない」
母が笑う。
「でも、今の私たちの並び」
緋色の毛氈が広がる。
ざらり、と手のひらに伝わる。
あの空白は、もうない。
けれど、何かが違う。
「軽いね」
娘が言う。
「うん」
祖父がうなずく。
「昔は、もっと重たかった」
「なにが?」
「“こうでなきゃ”ってやつが」
植物園の彼が、桃の枝を親王のそばに添える。
「性別、関係なし」
「堂々と言うな」
弟が笑う。
「いいじゃん」
風が吹く。
花弁が、ひらりと落ちる。
「ねえ」
姉が言う。
「もし来年、誰かがいなくなっても」
「うん」
「また並べればいいよね」
母が答える。
「並べ直せばいい」
箱は、もう重くない。
閉じ込めるためじゃない。
しまって、また出すためのもの。
「写真撮ろうよ」
娘がスマホを構える。
「はい、笑って」
親王の前に、家族が並ぶ。
完璧じゃない。
離れた人もいる。
形を変えた家族もいる。
でも、ここにいる。
「いくよ」
シャッターの音。
ぱしゃり。
緋色の絨毯が、光を受けて輝く。
沈黙は、もう重くない。
不在は、恐れじゃない。
役割を降りても、
人は消えない。
「来年はどうなるかな」
娘が言う。
「どうだろうね」
母が答える。
「そのときの私たちで、並べよう」
桃の花が、そっと揺れる。
祝祭のあとに残るのは、
整列でも、完璧でもない。
選んだ跡。
歩いた跡。
緋色の上に、
それぞれの足跡が、見えないまま残っている。
「ねえ」
娘がもう一度言う。
「十五人囃子って、ほんとは何人なの?」
みんなが顔を見合わせる。
「さあ」
祖父が笑う。
「数えるの、やめたからな」
笑い声が、春の光に溶ける。
緋色の絨毯は、
もう誰かを縛らない。
ただ、そこに敷かれている。
その上で、
それぞれが、自分の場所に立つ。
箱は、開いている。
春は、続いていく。
「ねえ、今年は出さないの?」
娘の声が、玄関先で弾んだ。
「どうしよっか」
母は少し笑う。
三月は、もう半ばを過ぎている。
窓から入る光はやわらかく、冬の硬さを失っている。
納戸の前に、箱が積まれている。
樟脳の甘く冷たい匂い。
木の箱の乾いた匂い。
指先に触れる、ざらりとした木目。
「出してもいいし、出さなくてもいい」
祖父が言う。
「選べるようになったな」
「うん」
誰かが答える。
あの年、
緋色の絨毯の上に、ぽっかりと空白が残った。
誰も指摘しなかった。
でも、みんな、どこかで気づいていた。
「ねえ」
植物園の彼が、桃の枝を持ってきた。
「咲いたよ」
淡い花弁が、光を透かす。
「今年も早いね」
「うん。狂い咲き」
笑いが、部屋に溶ける。
「不在ってさ」
浪人生だった弟が、ぽつりと言う。
「悪いことばっかりじゃないよな」
「どういう意味?」
姉が首をかしげる。
「空いてると、風が通る」
祖父が、ふっと笑う。
「詩人か」
「やめてくれ」
みんなが笑う。
離婚を決めた妻は、娘の肩に手を置く。
「流し雛、またやろうか」
「やる!」
娘が声を上げる。
「でも、今度は願い事にしよ」
「どんな?」
「身代わりじゃなくて、自分で叶えるやつ」
静かな沈黙が、あたたかく落ちる。
箱を開ける。
かさり、と和紙が鳴る。
「やっぱり出す?」
「うん」
「でも、並べ方は自由ね」
三人官女の位置を、少し変える。
五人囃子の笛を、ほんの少し前へ。
右大臣と左大臣の距離を、わずかに縮める。
「それ、正しい並び?」
「知らない」
母が笑う。
「でも、今の私たちの並び」
緋色の毛氈が広がる。
ざらり、と手のひらに伝わる。
あの空白は、もうない。
けれど、何かが違う。
「軽いね」
娘が言う。
「うん」
祖父がうなずく。
「昔は、もっと重たかった」
「なにが?」
「“こうでなきゃ”ってやつが」
植物園の彼が、桃の枝を親王のそばに添える。
「性別、関係なし」
「堂々と言うな」
弟が笑う。
「いいじゃん」
風が吹く。
花弁が、ひらりと落ちる。
「ねえ」
姉が言う。
「もし来年、誰かがいなくなっても」
「うん」
「また並べればいいよね」
母が答える。
「並べ直せばいい」
箱は、もう重くない。
閉じ込めるためじゃない。
しまって、また出すためのもの。
「写真撮ろうよ」
娘がスマホを構える。
「はい、笑って」
親王の前に、家族が並ぶ。
完璧じゃない。
離れた人もいる。
形を変えた家族もいる。
でも、ここにいる。
「いくよ」
シャッターの音。
ぱしゃり。
緋色の絨毯が、光を受けて輝く。
沈黙は、もう重くない。
不在は、恐れじゃない。
役割を降りても、
人は消えない。
「来年はどうなるかな」
娘が言う。
「どうだろうね」
母が答える。
「そのときの私たちで、並べよう」
桃の花が、そっと揺れる。
祝祭のあとに残るのは、
整列でも、完璧でもない。
選んだ跡。
歩いた跡。
緋色の上に、
それぞれの足跡が、見えないまま残っている。
「ねえ」
娘がもう一度言う。
「十五人囃子って、ほんとは何人なの?」
みんなが顔を見合わせる。
「さあ」
祖父が笑う。
「数えるの、やめたからな」
笑い声が、春の光に溶ける。
緋色の絨毯は、
もう誰かを縛らない。
ただ、そこに敷かれている。
その上で、
それぞれが、自分の場所に立つ。
箱は、開いている。
春は、続いていく。
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