『沈黙のキング —— 執事が教えた「聞く」という最強の武器』

かおるこ

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【第1話】王の帰還、あるいは静寂の始まり

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磨き上げられた黒塗りのセンチュリーが、私立聖華学園の校門前に音もなく滑り込んだ。

車内には、微かに漂う白檀の香りと、冷房が肌を刺すような静寂が満ちている。後部座席に深く腰を下ろした一条蓮は、窓の外に群がる「有象無象」を、ひび割れた石ころを見るような冷ややかな目で見つめていた。

「坊ちゃま。一点、よろしいでしょうか」

助手席から振り返ったのは、白髪を隙なく整え、鉄のような無表情を崩さない執事、佐藤だった。その手には、不吉なほど真っ白な革装のノートが握られている。

「なんだ。昨日言ったフェラーリの納車時期なら、もういい。飽きた」

「いいえ。坊ちゃまの『品格』についてでございます」

蓮の眉がわずかに跳ねた。カースト頂点。資産、容姿、血筋、そのすべてを手にしている自分に、この老執事は何を抜かすのか。

「品格? 俺が? 冗談だろ。この学校で俺に意見できる奴がどこにいる」

「左様でございます。誰も意見をいたしません。なぜなら、坊ちゃまが他者の言葉を、塵芥のように掃き捨てておられるからです」

佐藤の眼鏡が、朝日に鋭く反射した。

「本日から一週間、アクティブリスニング……『積極的傾聴』の特訓を開始いたします。ルールは三つ。第一に、相手の言葉を遮らない。第二に、深く、優雅に頷く。第三に、相手の感情に共鳴するフリをすること。さあ、降りなさい。王の帰還でございますよ」

「……チッ、勝手にしろ」

蓮は吐き捨て、ドアを開けた。アスファルトの熱気と、百合の植え込みから放たれる噎せ返るような香りが、鼻腔を突く。

登校風景はいつも通りだった。蓮が歩みを進めるだけで、波が割れるように道ができる。囁き声、羨望の眼差し、そして隠しきれない畏怖。それが蓮の栄養だった。

「蓮様! おはようございます!」

校舎に入ると同時に、取り巻きの筆頭格、高木が駆け寄ってきた。いつもなら、蓮は「ああ」と短く一蹴するか、自分のしたい話――昨晩のパーティや、手に入れた時計の自慢――を被せるところだ。

だが、背後数メートルの距離を、影のように佐藤が歩いている。その視線が「約束をお忘れなく」と蓮の背中に突き刺さっていた。

「蓮様、聞いてくださいよ。昨日、また親父がうるさくて。成績がどうとか、次期社長の自覚がどうとか……もう、マジでやってられないっすよ。あ、そういえば蓮様の新しいバイク……」

高木がいつものように、自分の愚痴を適当に切り上げて蓮の機嫌取りに移行しようとした、その時だった。

(……遮るな、だったか。反吐が出る)

蓮は、言葉を飲み込んだ。そして、佐藤の指導通り、ゆっくりと、深い湖の底を覗き込むような動作で、頷いた。

「……親父さんに、そう言われたのか」

蓮の口から出たのは、自慢話ではなく、相手の言葉の反復だった。
高木が、目に見えて硬直した。

「えっ……あ、はい。そうなんです。親父、昔から僕のやりたいことなんて全否定で。昨日なんて、僕が描いたデザイン画を『遊びだ』って破りやがって……」

高木の声が、いつもより半オクターブ低くなる。蓮は、鼻を突く高木の安っぽい香水の匂いと、廊下を駆ける生徒たちの喧騒を遠くに感じながら、ただ黙って高木の目を見つめた。

(次はなんだ、感情の共鳴? くだらん。……だが、こいつの目は、怯えているな)

蓮は、普段なら絶対に使わない言葉を、わざと重々しく紡ぎ出した。

「それは……苦しかったな、高木」

その瞬間、廊下の空気が凍りついた。通りがかった生徒たちが足を止め、信じられないものを見る目で蓮を注視している。

高木は、口をパクパクと金魚のように動かしたあと、その場に崩れ落ちそうになるのを堪えるように膝を震わせた。彼の瞳に、じわりと熱いものが膜を張る。

「蓮様……。分かって、くださるんですか。……僕、ずっと、蓮様なら『甘えるな』って一蹴されると思ってて。でも、あぁ、そうか……。蓮様は、孤独を知っていらっしゃるんだ」

(孤独? 何を言っている。俺はただ、佐藤の顔を立てて黙っているだけだ)

だが、周囲の反応は蓮の予想を遥かに超えていた。

「おい、見たか……? 一条様が、あんなに慈愛に満ちた表情で……」
「今までの冷徹さは、僕たちを試していたのか?」
「あの深く静かな頷き……まるですべてを赦す神のようだ……」

ざわめきが、波紋のように広がっていく。蓮は、ただ静かに立っているだけだ。しかし、彼が「話を聞く」という姿勢を取っただけで、周囲の人間は勝手に彼の沈黙を「深淵な思慮」や「圧倒的な包容力」として解釈し始めた。

放課後。屋上のフェンスに寄りかかり、蓮は眼下の街を見下ろしていた。
夕焼けのオレンジ色が、彼の端正な顔立ちを赤く染め上げている。

「お見事でございました、坊ちゃま」

佐藤がいつの間にか傍らに立ち、紅茶の入ったタンブラーを差し出した。

「何がだ。適当に相槌を打っただけだ。気持ち悪い連中だよ、勝手に感動して」

「それが『聞く』という行為の魔力でございます。人は、自分の話を聞いてくれる存在に、絶対的な権威と信頼を投影する。恐怖で支配する王はいつか刺されますが、耳を持つ王は魂を支配する」

蓮は紅茶を一口啜った。アールグレイのベルガモットの香りが、昂ぶった神経を鎮めていく。

「……高木の奴、あいつ、あんなに絵を描くのが好きだなんて、知らなかった」

ポツリと漏らした言葉に、佐藤の口角がわずかに、本当にわずかに上がった。

「左様でございますか。……さて、坊ちゃま。明日の特訓は『沈黙の維持』。相手が話し出すまで三秒待つ、という地獄のメニューをご用意しております」

「……三秒だと? 佐藤、貴様、俺を黙らせて楽しんでるだけだろう」

「滅相もございません」

蓮は鼻で笑い、黄金色の空を仰いだ。
言葉を捨てたはずの放課後。なぜか、いつもより世界が饒舌に、蓮の耳に流れ込んできていた。

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