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【第2話】「オウム返し」の衝撃
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一条家の書斎は、朝から張り詰めた沈黙に包まれていた。磨き上げられたマホガニーの机に反射する朝日が、蓮の目を射る。
「坊ちゃま、本日の教えは『鏡(ミラーリング)』でございます」
佐藤が銀のトレイに載せて差し出したのは、いつものアッサムティーではなく、一枚の手鏡だった。蓮は忌々しげに自分の端正な顔をそこに映し出す。
「鏡だと? 自分の顔なら見飽きている。これ以上、何をしろと言うんだ」
「ご自身の顔ではなく、相手の心を映すのです。相手が放った言葉の『語尾』、あるいは『感情の核』を、そのまま鸚鵡(おうむ)返しになさいませ。余計な助言も、批判も、貴方の高慢な意見も、一切不要でございます」
「……ただ繰り返すだけか。馬鹿馬鹿しい。そんな子供騙しで、何が変わる」
蓮は鼻で笑い、立ち上がった。上質なウールの制服が、微かに擦れる音を立てる。佐藤は無表情のまま、蓮の背中に言葉を投げた。
「人は、自分を映し出す鏡に出会った時、初めて自分の醜さと向き合うことになるのです。……行ってらっしゃいませ、坊ちゃま。今日は面白い『獲物』が校門で待っておりますよ」
校門前には、不穏な空気が渦巻いていた。
聖華学園のネイビーの制服とは対照的な、毒々しい真紅のネクタイ。隣接する進学校、鳳凰工業のトップ・**荒木 剛(あらき ごう)**が、取り巻きを引き連れて道を塞いでいた。
荒木は、蓮が近づくのを見るやいなや、地面に唾を吐き捨て、野卑な笑みを浮かべた。
「よう、一条。今日も取り巻きを引き連れて、お上品な登校か? 鼻につくんだよ、お前のその、すべてを見下したようなツラがよ」
周囲の生徒たちが息を呑み、遠巻きに事態を見守る。蓮の脳裏に、佐藤の「余計な意見は不要」という声が響いた。いつもなら「身の程を知れ、野良犬が」と一蹴するところだ。だが、蓮は足を止め、荒木の目をじっと見つめた。
「……僕の顔が、鼻につくんだね?」
蓮の声は、驚くほど静かだった。荒木は一瞬、拍子抜けしたように目を見開いたが、すぐにさらに語気を強める。
「ああ、そうだ! 金持ちのボンボンが、努力もせずにふんぞり返ってやがるのが許せねえんだよ。お前さえいなけりゃ、この界隈の序列も変わる。今日ここで、お前を完膚なきまでに叩き潰してやるよ!」
荒木の拳が、怒りに震えている。安っぽい煙草の匂いと、荒い鼻息が蓮のパーソナルスペースを侵食する。蓮は、その怒りの波をまともに受け止めず、ただ言葉の核を拾い上げた。
「……僕を叩き潰して、序列を変えたいと考えているんだね?」
「……あ? ああ、そうだ。変えてやるよ。俺たちがどれだけ苦労してのし上がってきたか、お前みたいな奴には分からねえだろうが。俺は、認めさせてえんだよ。力こそがすべてだってことをよ!」
荒木の声が、わずかに裏返った。蓮は、彼の言葉の裏にある「焦燥」を鏡のように映し出す。
「力こそがすべてだと、周囲に認めさせたいんだね」
「……当たり前だ。そうしなきゃ、誰も俺を見ねえ。俺の親父も、中学の時の教師も、みんな俺を『ゴミ』扱いしやがった。だから、俺は……俺は力を手に入れて、誰も俺を無視できないように……っ」
荒木の声から、攻撃的な響きが消え、代わりに湿った「嘆き」が混じり始めた。
蓮は、ただ静かに頷く。鏡は、感情の泥沼をそのまま映し出す。
「無視されるのが、怖かったんだね」
その瞬間、荒木の動きが止まった。
振り上げようとしていた拳が、力なく下がる。周囲を取り囲んでいた鳳凰工業の生徒たちも、動揺したように顔を見合わせた。
「……怖い? 俺が? 笑わせるな、俺は……」
荒木は言いかけ、言葉を詰まらせた。蓮の瞳には、軽蔑も、怒りも、憐れみすらもない。ただ、自分の言葉が、そのままの形でそこに置かれている。
荒木は、蓮の瞳という名の鏡の中に、怯えた一人の少年――誰かに認めてもらいたくて、必死に牙を剥いている自分自身を見つけてしまった。
「……俺は、何を言ってるんだ。一条、お前に……こんな話を……」
荒木の顔から血の気が引いていく。彼は、自分が振りかざしていた暴力が、単なる「寂しさの裏返し」であったことを、蓮のオウム返しによって突きつけられてしまったのだ。
「……悪かったな。今日は、もういい。帰るぞ」
荒木は力なく背を向け、フラフラとした足取りで歩き出した。取り巻きたちも、毒気を抜かれたようにその後を追う。
嵐が去った後のような静寂の中、聖華学園の生徒たちが、感嘆の声を漏らした。
「すごい……一条様、一歩も動かずに相手を追い返したわ」
「あんなに荒れていた荒木が、最後は泣きそうになっていたぞ」
「なんて慈悲深いんだ。相手の心の闇を、言葉だけで浄化してしまった……」
(……浄化? 違う。俺はただ、あいつの言葉を繰り返しただけだ)
蓮は、制服の襟を正しながら、校舎の陰に立つ佐藤の姿を認めた。佐藤は、満足げに懐中時計を仕舞い、深々と一礼する。
「お見事でございました、坊ちゃま。相手の言葉を繰り返すことは、相手を肯定することではありません。相手に『自分自身の姿』を直視させる、残酷なまでの内省を強いる儀式なのです」
蓮は、まだ手のひらに残る微かな震えを見つめた。
言葉を繰り返す。それだけで、猛獣が牙を折り、膝を屈する。力による支配よりも、はるかに鋭く、深い一撃。
「……佐藤。あいつ、最後になんて言おうとしたんだろうな」
「それは、坊ちゃまが次回の『要約(サマライズ)』の特訓で解き明かすべき謎でございます」
蓮は、フンと鼻を鳴らした。
教室へ向かう廊下、すれ違う生徒たちが今まで以上に畏敬の念を込めて道を開ける。
「沈黙の王」という二つ名が、校内に静かに、しかし確実に浸透し始めていた。
「坊ちゃま、本日の教えは『鏡(ミラーリング)』でございます」
佐藤が銀のトレイに載せて差し出したのは、いつものアッサムティーではなく、一枚の手鏡だった。蓮は忌々しげに自分の端正な顔をそこに映し出す。
「鏡だと? 自分の顔なら見飽きている。これ以上、何をしろと言うんだ」
「ご自身の顔ではなく、相手の心を映すのです。相手が放った言葉の『語尾』、あるいは『感情の核』を、そのまま鸚鵡(おうむ)返しになさいませ。余計な助言も、批判も、貴方の高慢な意見も、一切不要でございます」
「……ただ繰り返すだけか。馬鹿馬鹿しい。そんな子供騙しで、何が変わる」
蓮は鼻で笑い、立ち上がった。上質なウールの制服が、微かに擦れる音を立てる。佐藤は無表情のまま、蓮の背中に言葉を投げた。
「人は、自分を映し出す鏡に出会った時、初めて自分の醜さと向き合うことになるのです。……行ってらっしゃいませ、坊ちゃま。今日は面白い『獲物』が校門で待っておりますよ」
校門前には、不穏な空気が渦巻いていた。
聖華学園のネイビーの制服とは対照的な、毒々しい真紅のネクタイ。隣接する進学校、鳳凰工業のトップ・**荒木 剛(あらき ごう)**が、取り巻きを引き連れて道を塞いでいた。
荒木は、蓮が近づくのを見るやいなや、地面に唾を吐き捨て、野卑な笑みを浮かべた。
「よう、一条。今日も取り巻きを引き連れて、お上品な登校か? 鼻につくんだよ、お前のその、すべてを見下したようなツラがよ」
周囲の生徒たちが息を呑み、遠巻きに事態を見守る。蓮の脳裏に、佐藤の「余計な意見は不要」という声が響いた。いつもなら「身の程を知れ、野良犬が」と一蹴するところだ。だが、蓮は足を止め、荒木の目をじっと見つめた。
「……僕の顔が、鼻につくんだね?」
蓮の声は、驚くほど静かだった。荒木は一瞬、拍子抜けしたように目を見開いたが、すぐにさらに語気を強める。
「ああ、そうだ! 金持ちのボンボンが、努力もせずにふんぞり返ってやがるのが許せねえんだよ。お前さえいなけりゃ、この界隈の序列も変わる。今日ここで、お前を完膚なきまでに叩き潰してやるよ!」
荒木の拳が、怒りに震えている。安っぽい煙草の匂いと、荒い鼻息が蓮のパーソナルスペースを侵食する。蓮は、その怒りの波をまともに受け止めず、ただ言葉の核を拾い上げた。
「……僕を叩き潰して、序列を変えたいと考えているんだね?」
「……あ? ああ、そうだ。変えてやるよ。俺たちがどれだけ苦労してのし上がってきたか、お前みたいな奴には分からねえだろうが。俺は、認めさせてえんだよ。力こそがすべてだってことをよ!」
荒木の声が、わずかに裏返った。蓮は、彼の言葉の裏にある「焦燥」を鏡のように映し出す。
「力こそがすべてだと、周囲に認めさせたいんだね」
「……当たり前だ。そうしなきゃ、誰も俺を見ねえ。俺の親父も、中学の時の教師も、みんな俺を『ゴミ』扱いしやがった。だから、俺は……俺は力を手に入れて、誰も俺を無視できないように……っ」
荒木の声から、攻撃的な響きが消え、代わりに湿った「嘆き」が混じり始めた。
蓮は、ただ静かに頷く。鏡は、感情の泥沼をそのまま映し出す。
「無視されるのが、怖かったんだね」
その瞬間、荒木の動きが止まった。
振り上げようとしていた拳が、力なく下がる。周囲を取り囲んでいた鳳凰工業の生徒たちも、動揺したように顔を見合わせた。
「……怖い? 俺が? 笑わせるな、俺は……」
荒木は言いかけ、言葉を詰まらせた。蓮の瞳には、軽蔑も、怒りも、憐れみすらもない。ただ、自分の言葉が、そのままの形でそこに置かれている。
荒木は、蓮の瞳という名の鏡の中に、怯えた一人の少年――誰かに認めてもらいたくて、必死に牙を剥いている自分自身を見つけてしまった。
「……俺は、何を言ってるんだ。一条、お前に……こんな話を……」
荒木の顔から血の気が引いていく。彼は、自分が振りかざしていた暴力が、単なる「寂しさの裏返し」であったことを、蓮のオウム返しによって突きつけられてしまったのだ。
「……悪かったな。今日は、もういい。帰るぞ」
荒木は力なく背を向け、フラフラとした足取りで歩き出した。取り巻きたちも、毒気を抜かれたようにその後を追う。
嵐が去った後のような静寂の中、聖華学園の生徒たちが、感嘆の声を漏らした。
「すごい……一条様、一歩も動かずに相手を追い返したわ」
「あんなに荒れていた荒木が、最後は泣きそうになっていたぞ」
「なんて慈悲深いんだ。相手の心の闇を、言葉だけで浄化してしまった……」
(……浄化? 違う。俺はただ、あいつの言葉を繰り返しただけだ)
蓮は、制服の襟を正しながら、校舎の陰に立つ佐藤の姿を認めた。佐藤は、満足げに懐中時計を仕舞い、深々と一礼する。
「お見事でございました、坊ちゃま。相手の言葉を繰り返すことは、相手を肯定することではありません。相手に『自分自身の姿』を直視させる、残酷なまでの内省を強いる儀式なのです」
蓮は、まだ手のひらに残る微かな震えを見つめた。
言葉を繰り返す。それだけで、猛獣が牙を折り、膝を屈する。力による支配よりも、はるかに鋭く、深い一撃。
「……佐藤。あいつ、最後になんて言おうとしたんだろうな」
「それは、坊ちゃまが次回の『要約(サマライズ)』の特訓で解き明かすべき謎でございます」
蓮は、フンと鼻を鳴らした。
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