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【第3話】カースト底辺からのSOS
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放課後の旧校舎。埃っぽく、湿ったインクの匂いが漂う廊下を、一条蓮は苛立ちとともに歩いていた。
「……なぜ俺が、こんな場所の備品確認をしなければならないんだ」
すべては佐藤の差し金だった。『王たるもの、領土の隅々にまで耳を傾けねえればなりません』。そんな屁理屈を並べられ、生徒会活動という名目で、普段なら足を踏み入れることすらない「カースト圏外」の掃き溜め――部室棟の最果てへと追いやられたのだ。
重い鉄の扉を開けるたびに、蝶番が悲鳴のような音を立てる。
最後の部室、文芸部の札が掲げられた部屋の前で、一人の女子生徒が立ち尽くしていた。
乱れた前髪に、分厚い眼鏡。制服はサイズが合っていないのか、肩が落ちている。名は……確か、**野原 紬(のはら つむぎ)**。存在感が希薄すぎて、同じクラスであることさえ今の今まで忘れていた。
「あ……あ、あの……一条、くん」
消え入りそうな声。蓮は心の中で舌打ちした。
(面倒だな。適当にあしらって帰るか……)
だが、廊下の突き当たりの影から、佐藤の冷徹な視線を感じる。
「……なんだ。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
蓮は意識して、佐藤から叩き込まれた「開かれた質問(オープン・クエスチョン)」を脳内に呼び起こした。はい、いいえで終わらせない問いかけ。相手の物語を引き出す、禁断の鍵。
「あの……この部室、来月から閉鎖されるって、本当ですか? 私、まだ……書きたいものがあって」
「閉鎖の噂か。……君にとって、この場所がなくなることは、どういう意味を持つんだ?」
紬が、弾かれたように顔を上げた。
「どういう、意味……」
彼女は困惑したように指を絡ませ、視線を彷徨わせる。これまでの蓮なら「決定事項だ、諦めろ」と切り捨てていただろう。だが、蓮は黙って彼女の言葉を待った。
「ここは……私の、唯一の呼吸ができる場所なんです。教室だと、みんなの笑い声が、鋭い針みたいに刺さって……自分が透明人間になったみたいで。でも、ここでペンを持っている時だけは、私は私でいられるんです」
「透明人間、か」
蓮は、窓から差し込む西日に目を細めた。埃の粒子が、光の柱の中で踊っている。
「……具体的に、どんな物語を書いている時に、自分が自分であると感じるんだ?」
「え……?」
紬の瞳が、驚きに揺れる。カースト頂点の男が、地べたを這うような自分の「作品の中身」に興味を示すはずがない。そう思い込んでいた彼女の防衛本能が、蓮の問いによって優しく解体されていく。
「あの、……誰も救われないような、暗い迷路の話です。でも、最後に一筋だけ、自分の手足が見えるくらいの光が差す……そんな話を。……変、ですよね。一条くんみたいな、光の中にいる人には」
「光の中にいる、か。……君の目には、僕がそう映っているんだね。では、君がその『一筋の光』を書く時に、一番大切にしている感情は何だ?」
蓮の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
紬は、堰を切ったように話し始めた。
自分の孤独、言葉にできない焦燥、深夜の静寂だけが味方だった日々。彼女がこれまで誰にも話せず、ノートの隅に埋めていた言葉たちが、蓮の「開かれた問い」に導かれ、濁流となって溢れ出す。
「……私、初めてです。こんなに、自分の話を聞いてもらえたの。みんな、私が話し出すと、すぐにスマホを見たり、話を逸らしたりするから……」
紬の頬を、一筋の涙が伝った。
それは悲しみの涙ではなかった。自分の存在が、誰かの意識の中に確かに「着地」したことへの、震えるような安堵だった。
「私……この場所がなくなっても、書き続けます。一条くんが、聞いてくれたから」
彼女は、不器用な手つきで眼鏡を拭い、小さく微笑んだ。その笑顔は、教室で見せる卑屈なものではなく、表現者としての矜持が宿った、確かな美しさを持っていた。
(……なんだ、この感覚は)
蓮の胸の奥で、小さな、しかし無視できないさざ波が立った。
これまで、他人を従わせることでしか得られなかった充足感とは、全く質の異なる温かさ。
誰かの心の扉を開け、その奥にある魂に触れるということが、これほどまでに重く、瑞々しいものだとは知らなかった。
「……ふん。勝手にするがいい。だが、書き終えたら、その『一筋の光』とやらを僕に見せろ。確認してやる」
蓮は背を向け、足早に廊下を歩き出した。
背後で、紬の「はい!」という明るい声が響く。
「坊ちゃま。耳が少し、赤うございますよ」
角を曲がったところで待ち構えていた佐藤が、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「黙れ。……佐藤、あの女子は、透明人間なんかじゃないぞ」
「左様でございますか。……『開かれた質問』は、相手に自分を発見させる魔法でございます。坊ちゃまも、少しは魔法使いらしくなってこられましたな」
蓮は答えず、ポケットの中で拳を握った。
カーストの頂点から見下ろす景色は、確かに絶景だった。だが、泥の中から咲く花の香りを教えたのは、他でもない、執事の余計なお節介だった。
「……なぜ俺が、こんな場所の備品確認をしなければならないんだ」
すべては佐藤の差し金だった。『王たるもの、領土の隅々にまで耳を傾けねえればなりません』。そんな屁理屈を並べられ、生徒会活動という名目で、普段なら足を踏み入れることすらない「カースト圏外」の掃き溜め――部室棟の最果てへと追いやられたのだ。
重い鉄の扉を開けるたびに、蝶番が悲鳴のような音を立てる。
最後の部室、文芸部の札が掲げられた部屋の前で、一人の女子生徒が立ち尽くしていた。
乱れた前髪に、分厚い眼鏡。制服はサイズが合っていないのか、肩が落ちている。名は……確か、**野原 紬(のはら つむぎ)**。存在感が希薄すぎて、同じクラスであることさえ今の今まで忘れていた。
「あ……あ、あの……一条、くん」
消え入りそうな声。蓮は心の中で舌打ちした。
(面倒だな。適当にあしらって帰るか……)
だが、廊下の突き当たりの影から、佐藤の冷徹な視線を感じる。
「……なんだ。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
蓮は意識して、佐藤から叩き込まれた「開かれた質問(オープン・クエスチョン)」を脳内に呼び起こした。はい、いいえで終わらせない問いかけ。相手の物語を引き出す、禁断の鍵。
「あの……この部室、来月から閉鎖されるって、本当ですか? 私、まだ……書きたいものがあって」
「閉鎖の噂か。……君にとって、この場所がなくなることは、どういう意味を持つんだ?」
紬が、弾かれたように顔を上げた。
「どういう、意味……」
彼女は困惑したように指を絡ませ、視線を彷徨わせる。これまでの蓮なら「決定事項だ、諦めろ」と切り捨てていただろう。だが、蓮は黙って彼女の言葉を待った。
「ここは……私の、唯一の呼吸ができる場所なんです。教室だと、みんなの笑い声が、鋭い針みたいに刺さって……自分が透明人間になったみたいで。でも、ここでペンを持っている時だけは、私は私でいられるんです」
「透明人間、か」
蓮は、窓から差し込む西日に目を細めた。埃の粒子が、光の柱の中で踊っている。
「……具体的に、どんな物語を書いている時に、自分が自分であると感じるんだ?」
「え……?」
紬の瞳が、驚きに揺れる。カースト頂点の男が、地べたを這うような自分の「作品の中身」に興味を示すはずがない。そう思い込んでいた彼女の防衛本能が、蓮の問いによって優しく解体されていく。
「あの、……誰も救われないような、暗い迷路の話です。でも、最後に一筋だけ、自分の手足が見えるくらいの光が差す……そんな話を。……変、ですよね。一条くんみたいな、光の中にいる人には」
「光の中にいる、か。……君の目には、僕がそう映っているんだね。では、君がその『一筋の光』を書く時に、一番大切にしている感情は何だ?」
蓮の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
紬は、堰を切ったように話し始めた。
自分の孤独、言葉にできない焦燥、深夜の静寂だけが味方だった日々。彼女がこれまで誰にも話せず、ノートの隅に埋めていた言葉たちが、蓮の「開かれた問い」に導かれ、濁流となって溢れ出す。
「……私、初めてです。こんなに、自分の話を聞いてもらえたの。みんな、私が話し出すと、すぐにスマホを見たり、話を逸らしたりするから……」
紬の頬を、一筋の涙が伝った。
それは悲しみの涙ではなかった。自分の存在が、誰かの意識の中に確かに「着地」したことへの、震えるような安堵だった。
「私……この場所がなくなっても、書き続けます。一条くんが、聞いてくれたから」
彼女は、不器用な手つきで眼鏡を拭い、小さく微笑んだ。その笑顔は、教室で見せる卑屈なものではなく、表現者としての矜持が宿った、確かな美しさを持っていた。
(……なんだ、この感覚は)
蓮の胸の奥で、小さな、しかし無視できないさざ波が立った。
これまで、他人を従わせることでしか得られなかった充足感とは、全く質の異なる温かさ。
誰かの心の扉を開け、その奥にある魂に触れるということが、これほどまでに重く、瑞々しいものだとは知らなかった。
「……ふん。勝手にするがいい。だが、書き終えたら、その『一筋の光』とやらを僕に見せろ。確認してやる」
蓮は背を向け、足早に廊下を歩き出した。
背後で、紬の「はい!」という明るい声が響く。
「坊ちゃま。耳が少し、赤うございますよ」
角を曲がったところで待ち構えていた佐藤が、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「黙れ。……佐藤、あの女子は、透明人間なんかじゃないぞ」
「左様でございますか。……『開かれた質問』は、相手に自分を発見させる魔法でございます。坊ちゃまも、少しは魔法使いらしくなってこられましたな」
蓮は答えず、ポケットの中で拳を握った。
カーストの頂点から見下ろす景色は、確かに絶景だった。だが、泥の中から咲く花の香りを教えたのは、他でもない、執事の余計なお節介だった。
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