『沈黙のキング —— 執事が教えた「聞く」という最強の武器』

かおるこ

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【第5話】執事・佐藤の過去

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深夜の一条邸。月光が青白く差し込む図書室は、数千冊の蔵書が放つ古い紙と革の匂いに満ちていた。蓮は、マホガニーの机に置かれた一脚のティーカップを見つめていた。注がれたハーブティーから立ち上る蒸気が、揺らめいては消えていく。

「佐藤。なぜお前は、これほどまでに『聞くこと』を俺に強いるんだ」

蓮の問いに、傍らで控えていた佐藤の手が、わずかに止まった。いつもなら「それが王の品格でございます」と即答するはずの老執事が、今夜は深い沈黙を選んだ。

「……坊ちゃま。私はかつて、執事ではなく、一人の野心的な若者でございました」

佐藤が語り始めた声は、枯れ葉が擦れ合うように低く、どこか遠い。

「三十年前。私はある名家に仕え、若くして家令の座を狙っておりました。有能であること。正論を吐くこと。そして主人の過ちを即座に正すこと。それこそが忠義だと信じて疑わなかった」

佐藤の視線は、遠い過去の情景をなぞるように虚空を彷徨った。

「その家の令息……今の坊ちゃまほどの年齢だったお方は、ひどく繊細な方でした。ある夜、彼は私に話しかけてこられたのです。『佐藤、僕はもう、この家を背負っていく自信がないんだ』と。……私は、彼の言葉を最後まで聞きませんでした」

蓮は、ハーブティーを飲むのを忘れ、佐藤の横顔を凝視した。

「私は即座に、彼を叱咤しました。『何を甘えたことを。貴方は選ばれた人間なのです。期待に応える義務がある』と。数々の成功哲学や、歴史上の偉人の言葉を引用し、彼の『弱音』がいかに非合理的であるかを証明して見せたのです。……私の正論は、完璧でした。一分の隙もない、素晴らしいアドバイスだったのです」

佐藤の拳が、背中の後ろで固く握られた。

「翌朝、彼は屋敷から姿を消しました。……一週間後、冷たくなった彼が見つかったのは、彼がかつて『ここに来ると心が落ち着くんだ』と私に話そうとして、私が『そんな暇があるなら勉強なさい』と遮った、あの裏山の湖でした」

図書室の空気が、一瞬で凍りついたような気がした。窓の外で、夜鳥が不吉な声を上げて飛び去る。

「私は、彼を救えたはずでした。彼が欲しかったのは、解決策でも、正論でも、偉人の名言でもなかった。ただ、自分の内側にある暗闇を、誰かにそのまま見つめてほしかっただけなのです。私は彼の話を聞いたつもりで、自分の言葉を押し付けていただけだった」

佐藤は深く、深く頭を下げた。その背中は、いつもより小さく、脆く見えた。

「『聞く』とは、自分の価値観を脇に置き、相手の世界をそのまま受け入れるという、最も贅沢で、最も過酷な敬意の形なのです。私は坊ちゃまに、私のような……『正論という名の凶器』で人を殺める怪物になってほしくなかった」

蓮は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
これまで習得してきた「相槌」「オウム返し」「ラベリング」。それらは単なる人心掌握のテクニックだと思っていた。だが、その裏には、一人の男が一生をかけて背負い続ける、血の混じった後悔があった。

「……佐藤。お前、その令息の名前を、今でも覚えているのか」

「一刻たりとも、忘れたことはございません。彼は、私に『聞く』ことの重さを教えてくれた、最後で最高の主君でしたから」

蓮はゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。ガラスに映る自分の顔を見る。カーストの頂点。力、金、血筋。そんなものは、誰かの一言を最後まで聞くという行為に比べれば、あまりにも軽薄で、空虚な飾りに過ぎない。

「……分かった。明日からまた、特訓を続けろ」

蓮の声は、夜の静寂に溶け込むほど穏やかだった。

「坊ちゃま……」

「俺は、お前のようにはならない。……だが、お前が救いたかったその男の分まで、俺は誰かの声を、最後まで受け止めてやる」

佐藤は眼鏡の奥の目元を拭い、再びいつもの無表情な執事へと戻った。

「畏まりました。……では、明朝は五時。第6話、言葉の裏にある『本音』を聴く特訓から開始いたします。覚悟なさいませ、坊ちゃま」

「……五時か。相変わらず、情け容赦ないな」

蓮は自嘲気味に笑い、冷めきった茶を飲み干した。
苦味の中に、ほんの少しだけ、他者の痛みを知る者だけが感じる清涼感があった。

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