8 / 13
【第7話】沈黙という名の信頼
しおりを挟む
放課後の旧校舎、屋上へと続く階段の踊り場。西日がコンクリートの壁を赤黒く焼き、熱を帯びた空気が澱んでいる。
そこには、刺すような沈黙が横たわっていた。
一条蓮の目の前には、かつての親友であり、今は疎遠になった**氷室 瑛(ひむろ あきら)**が立っている。氷室家の跡取りとして、常に蓮の隣で競い合い、笑い合っていた男だ。だが、二年前のある些細なすれ違いから、二人の間には、南極の氷山よりも厚く冷たい壁が築かれていた。
「……何の用だ、一条。わざわざ呼び出して、皮肉でも言いに来たのか」
瑛の声は低く、喉の奥で礫を転がすような響きがある。彼は蓮の目を見ようとせず、フェンスの向こうに広がる街並みを凝視していた。
以前の蓮なら、この気まずさに耐えきれず、「お前のその態度は、一条家に対する無礼だ」と高圧的な言葉で沈黙を埋め、相手を屈服させていただろう。
だが、背後の踊り場の影。そこに潜む佐藤が、今朝放った言葉が蓮の鼓動に重なる。
(『坊ちゃま、沈黙は「敵」ではありません。それは、魂が言葉を探すための「聖域」でございます。相手の沈黙を奪ってはなりません。ただ、共に座り、待ち続けなさい』)
蓮は、何も答えなかった。
ただ、瑛から数歩離れた位置で、同じようにフェンスに手をかけた。
錆びた鉄の匂いが掌にこびりつき、遠くで聞こえる運動部の掛け声が、静寂の深さを際立たせる。
一分。二分。
時計の針が刻む音が聞こえそうなほど、濃密な時間が流れる。
瑛が苛立ったように、何度もスニーカーの先で地面を叩いた。彼は蓮が何か言い出すのを待っている。反論か、罵倒か、あるいは冷笑か。しかし、蓮はただ、隣で静かに息を吸い、吐いているだけだった。
「……黙ってろよ。何か言えよ。お前、いつもそうやって、黙って人を見下すだろ」
瑛の声に、焦りが混じる。
それでも、蓮は口を開かない。焦燥感に駆られて適当な言葉を放てば、この繊細な沈黙の膜が破れてしまう。蓮は、瑛の隣にある「気まずさ」という名の空気を、否定も肯定もせずに、ただそこにあるものとして受け入れた。
五分が経過した。
風が吹き抜け、瑛の短髪を揺らした。
ふと、瑛の肩から力が抜けるのが分かった。彼は深い、溜息とも嗚咽ともつかない息を吐き出した。
「……悪かったよ」
消え入りそうな、掠れた声。
蓮は視線を動かさず、ただ、その一言が空気に馴染むのを待った。
「二年前のことだ。お前がコンクールで優勝した時……俺、本当は分かってたんだ。お前の努力も、才能も。でも、俺の親父が『一条の影で満足するな』ってうるさくて……。俺、お前に嫉妬して、わざとあんな酷い嘘を……」
瑛の言葉が、堰を切ったように溢れ出した。
沈黙という「待ち時間」が、瑛の中に溜まっていた言葉の澱(おり)を、外へと押し出したのだ。
「お前を傷つけて、それでせいせいすると思ったのに、実際はお前の隣にいられないことが、何よりも苦しかった。……ごめん。本当に、ごめん、蓮」
瑛が初めて、蓮の方を向いた。その瞳には、夕日の反射ではない、本物の涙が光っていた。
蓮は、ゆっくりと彼に向き直った。
佐藤に教わったテクニックではない。心からの、そして沈黙を共にした戦友としての言葉が、自然と口をついて出た。
「……長かったな、瑛。お前のその言葉を聞くまでに」
「……え?」
「お前が黙っていた二年間、俺もずっと、沈黙の使い方を間違えていた。沈黙でお前を拒絶していた。……だが、今、その沈黙を終わらせてくれて、ありがとう」
蓮は、瑛の肩を強く掴んだ。
フェンス越しに伝わる瑛の体温と、微かな震え。
二人の間にあった壁が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。それは、力による和解ではなく、互いの「弱さ」を沈黙の中で共有したからこそ得られた、本物の絆の修復だった。
「お見事でございました。沈黙の王、ここに完成ですな」
階段の下から、いつの間にか現れた佐藤が、影のように静かに拍手をした。
「……佐藤。沈黙ってのは、意外と騒がしいもんだな。あいつの心の声が、うるさいくらい聞こえてきたよ」
「左様でございます。言葉にならない声を聴く。それこそが、究極のリスニングでございますから」
蓮と瑛は、顔を見合わせて苦笑した。
沈黙を恐れなくなった王の横顔は、もはやカーストの頂点に君臨する少年ではなく、一人の友を愛する青年のそれであった。
そこには、刺すような沈黙が横たわっていた。
一条蓮の目の前には、かつての親友であり、今は疎遠になった**氷室 瑛(ひむろ あきら)**が立っている。氷室家の跡取りとして、常に蓮の隣で競い合い、笑い合っていた男だ。だが、二年前のある些細なすれ違いから、二人の間には、南極の氷山よりも厚く冷たい壁が築かれていた。
「……何の用だ、一条。わざわざ呼び出して、皮肉でも言いに来たのか」
瑛の声は低く、喉の奥で礫を転がすような響きがある。彼は蓮の目を見ようとせず、フェンスの向こうに広がる街並みを凝視していた。
以前の蓮なら、この気まずさに耐えきれず、「お前のその態度は、一条家に対する無礼だ」と高圧的な言葉で沈黙を埋め、相手を屈服させていただろう。
だが、背後の踊り場の影。そこに潜む佐藤が、今朝放った言葉が蓮の鼓動に重なる。
(『坊ちゃま、沈黙は「敵」ではありません。それは、魂が言葉を探すための「聖域」でございます。相手の沈黙を奪ってはなりません。ただ、共に座り、待ち続けなさい』)
蓮は、何も答えなかった。
ただ、瑛から数歩離れた位置で、同じようにフェンスに手をかけた。
錆びた鉄の匂いが掌にこびりつき、遠くで聞こえる運動部の掛け声が、静寂の深さを際立たせる。
一分。二分。
時計の針が刻む音が聞こえそうなほど、濃密な時間が流れる。
瑛が苛立ったように、何度もスニーカーの先で地面を叩いた。彼は蓮が何か言い出すのを待っている。反論か、罵倒か、あるいは冷笑か。しかし、蓮はただ、隣で静かに息を吸い、吐いているだけだった。
「……黙ってろよ。何か言えよ。お前、いつもそうやって、黙って人を見下すだろ」
瑛の声に、焦りが混じる。
それでも、蓮は口を開かない。焦燥感に駆られて適当な言葉を放てば、この繊細な沈黙の膜が破れてしまう。蓮は、瑛の隣にある「気まずさ」という名の空気を、否定も肯定もせずに、ただそこにあるものとして受け入れた。
五分が経過した。
風が吹き抜け、瑛の短髪を揺らした。
ふと、瑛の肩から力が抜けるのが分かった。彼は深い、溜息とも嗚咽ともつかない息を吐き出した。
「……悪かったよ」
消え入りそうな、掠れた声。
蓮は視線を動かさず、ただ、その一言が空気に馴染むのを待った。
「二年前のことだ。お前がコンクールで優勝した時……俺、本当は分かってたんだ。お前の努力も、才能も。でも、俺の親父が『一条の影で満足するな』ってうるさくて……。俺、お前に嫉妬して、わざとあんな酷い嘘を……」
瑛の言葉が、堰を切ったように溢れ出した。
沈黙という「待ち時間」が、瑛の中に溜まっていた言葉の澱(おり)を、外へと押し出したのだ。
「お前を傷つけて、それでせいせいすると思ったのに、実際はお前の隣にいられないことが、何よりも苦しかった。……ごめん。本当に、ごめん、蓮」
瑛が初めて、蓮の方を向いた。その瞳には、夕日の反射ではない、本物の涙が光っていた。
蓮は、ゆっくりと彼に向き直った。
佐藤に教わったテクニックではない。心からの、そして沈黙を共にした戦友としての言葉が、自然と口をついて出た。
「……長かったな、瑛。お前のその言葉を聞くまでに」
「……え?」
「お前が黙っていた二年間、俺もずっと、沈黙の使い方を間違えていた。沈黙でお前を拒絶していた。……だが、今、その沈黙を終わらせてくれて、ありがとう」
蓮は、瑛の肩を強く掴んだ。
フェンス越しに伝わる瑛の体温と、微かな震え。
二人の間にあった壁が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。それは、力による和解ではなく、互いの「弱さ」を沈黙の中で共有したからこそ得られた、本物の絆の修復だった。
「お見事でございました。沈黙の王、ここに完成ですな」
階段の下から、いつの間にか現れた佐藤が、影のように静かに拍手をした。
「……佐藤。沈黙ってのは、意外と騒がしいもんだな。あいつの心の声が、うるさいくらい聞こえてきたよ」
「左様でございます。言葉にならない声を聴く。それこそが、究極のリスニングでございますから」
蓮と瑛は、顔を見合わせて苦笑した。
沈黙を恐れなくなった王の横顔は、もはやカーストの頂点に君臨する少年ではなく、一人の友を愛する青年のそれであった。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる