『沈黙のキング —— 執事が教えた「聞く」という最強の武器』

かおるこ

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**――王は、もう命令しない**

春の朝は、やけに静かだった。

一条家の庭では、剪定された薔薇が風に揺れている。露が光を反射して、宝石みたいにきらめいた。

「坊ちゃま。本日は大学の入学式でございます」

執事・佐藤の声は、いつも通り低く、寸分の狂いもない。

蓮はネクタイを整えながら鏡を見る。
完璧に仕立てられたスーツ。磨かれた靴。背筋は真っ直ぐ。

だが、昔と違うのは、目だ。

「佐藤」

「はい」

「今日、少し緊張している」

佐藤の眉が、ほんのわずかに動く。

「ほう。理由をお聞かせ願えますか」

蓮は一瞬考え、そして答える。

「誰も僕を“知っている前提”で話しかけてくれない場所だからだ」

沈黙。

佐藤は、頷いた。

「なるほど。未知の環境に身を置く不安、でございますな」

蓮は小さく笑う。

「オウム返しが板についてきたな」

「坊ちゃまの影響でございます」

玄関の扉が開く。外の空気が流れ込む。少し冷たい。

車に乗り込む直前、蓮は立ち止まる。

「佐藤」

「はい」

「僕は、もう王ではないな」

佐藤は首を横に振った。

「いいえ。ようやく“王”になられました」

「どういう意味だ」

「命令しなくとも、人が集まる者を、真の王と申します」

蓮は黙る。

風が吹く。
薔薇の香りがわずかに漂う。

大学のキャンパスは、ざわめいていた。
知らない顔。知らない声。肩がぶつかる感触。香水の匂い。春の湿った空気。

「あ、すみません!」

ぶつかった女子学生が慌てて謝る。

昔の蓮なら、軽く顎を引いて去っただろう。

だが今は違う。

「こちらこそ。急いでいた?」

「え、あ……はい、教室が分からなくて」

「どの学部?」

「経済学部です」

蓮は地図を見る。

「同じ方向だ。よければ一緒に行こう」

女子学生は少し驚き、それから頷く。

歩きながら、彼女はぽつぽつと話し始める。地方から出てきたこと。不安なこと。友達ができるか心配なこと。

蓮は頷く。

「初日って、みんな同じ気持ちかもしれない」

「……そう、ですよね」

彼女の肩の力が、少し抜ける。

教室の前で別れるとき、彼女は言った。

「ありがとう。話してたら、少し落ち着きました」

蓮は小さく笑う。

「それは良かった」

彼女が去ったあと、蓮は教室の窓際に立つ。
キャンパスを見下ろす。

誰も、自分を恐れていない。
誰も、取り巻きでもない。

それでも、孤独ではなかった。

スマートフォンが震える。

――佐藤

「どうされました」

「坊ちゃま、0.5秒、頷くのが遅かったように見受けられました」

蓮は吹き出す。

「見ていたのか」

「当然でございます」

「厳しいな」

「一流は、細部に宿ります」

蓮は窓の外を見つめる。

「佐藤」

「はい」

「聞くことは、強いな」

「はい」

「だが、それ以上に――楽だ」

「楽、でございますか」

「誰かを押さえつけなくていい。勝たなくていい。……ただ、そこにいるだけでいい」

沈黙。

佐藤の声が、少しだけ柔らぐ。

「坊ちゃま。それを“品格”と申します」

蓮は目を閉じる。

高校時代。
煽り。対立。視線の奪い合い。

あの頂点は、今思えば、随分と不安定な椅子だった。

だが今は違う。

自分が中心にいる必要はない。
ただ、誰かの声の隣に立てばいい。

教室のドアが開く。

「席、ここ空いてますか?」

男子学生が声をかける。

蓮は椅子を引く。

「どうぞ」

「ありがとう」

男は少し緊張しながら言う。

「俺、知り合いいなくてさ」

蓮は頷く。

「僕もだ」

その一言で、距離が縮む。

講義が始まる。教授の声。ペンの走る音。春の風。

蓮は静かに息を吸う。

もう、誰かの上に立つ必要はない。

“沈黙のキング”は、終わった。

代わりに――

聞く者として、ここにいる。

放課後。

屋敷に戻ると、佐藤が待っていた。

「いかがでしたか」

「悪くない」

「それは重畳」

蓮はコートを脱ぎながら言う。

「佐藤」

「はい」

「ありがとう」

佐藤はわずかに目を見開き、それから深く一礼する。

「お言葉、光栄に存じます」

庭の薔薇が、夕日に染まる。

蓮は思う。

王でなくていい。
頂点でなくていい。

誰かの声を受け止める場所になれれば、それでいい。

佐藤が静かに呟く。

「坊ちゃま。ようやく、沈黙が“武器”ではなく“器”になりましたな」

蓮は微笑む。

「器か。悪くない」

夜風が吹く。

そして沈黙は、もう孤独ではなかった。

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