『行かなければ、壊れなかった』 ~74歳、四十年の友情が終わった日~

かおるこ

文字の大きさ
2 / 11

第1話「久しぶりに会うか」

しおりを挟む
第1話「久しぶりに会うか」

昼下がりの部屋は、静かすぎる。

冷蔵庫の低い唸りだけが、壁に反響している。
カーテン越しの光は白く、埃がその中をゆっくり漂っている。

湯のみの中の緑茶は、もうぬるい。

「……暇だな」

口に出すと、言葉が床に落ちたみたいに乾いた。

六十五歳。
独り暮らし。
定年から十年。

最初の数年は「やっと自由だ」と思っていた。
目覚ましをかけなくていい朝。
満員電車に揺られない日々。

だが、自由はやがて“空白”になる。

テレビの音が、やけに大きく感じる。
消すと、今度は静けさが耳に刺さる。

そのときだった。

電話が鳴る。

突然の音に、肩が跳ねる。

「……誰だ」

固定電話だ。
この番号を知っている人間は、もうほとんどいない。

受話器を取る。

「もしもし」

一瞬の沈黙。

それから、懐かしい笑い声。

『おい、佐藤か?』

その声に、胸の奥がぴくりと動く。

「……森か?」

『おう。久しぶりだな』

森。

高校からの付き合いだ。
四十年以上になる。

文化祭で一緒にサボり、
バイクで海まで走り、
社会人になっても年に一度は飲んだ。

『元気か?』

「まあな。そっちは?」

『死んじゃいねえよ』

はは、と笑う声。
少しだけ、昔より低くなっている。

その笑い声を聞くだけで、校舎の匂いが蘇る。
古い木の机、チョークの粉、夏の汗。

「どうした、急に」

『いやな、思い出したんだよ。お前の顔』

「俺の顔かよ」

『夢に出てきた』

「ろくな夢じゃねえな」

二人で笑う。

受話器越しなのに、距離が縮む。

森が言った。

『久しぶりに家に来ないか?』

一瞬、言葉が止まる。

家に、来ないか。

飲み屋じゃなく、外じゃなく、森の家。

「家か?」

『ああ。引っ越してな。ちょっと広くなった』

少し誇らしげな声。

『嫁も、孫も来るからさ。にぎやかだぞ』

その言葉に、胸の奥がちくりとする。

嫁。
孫。

自分にはない響きだ。

「そうか……」

『たまには顔見せろよ。四十年の付き合いだろ』

四十年。

その重さが、受話器を通して伝わる。

部屋を見渡す。

団地の六畳間。
古びたソファ。
積み上がった新聞。

ここにいる自分と、
森の“にぎやかな家”。

頭の中で、ざらりとした感触が生まれる。

だが、口から出たのは軽い言葉だった。

「まあ、顔くらい見せるか」

自分でも驚くほど、あっさり。

森が笑う。

『おう、それでいい。今度の日曜どうだ?』

「日曜な……」

予定はない。
何もない。

「空いてる」

『よし、決まりだ』

電話の向こうで、何かが動く音。
食器の触れ合う音。
誰かの笑い声。

その生活音が、妙に遠く感じる。

『待ってるぞ』

「おう」

受話器を置く。

カチリ、と乾いた音。

部屋がまた静かになる。

さっきまでより、少しだけ空気が重い。

「……森か」

呟く。

懐かしさと、ざらつきが同時に胸にある。

立ち上がり、窓の外を見る。

団地の中庭。
子どもの声はもう聞こえない。
高齢者のゆっくりした足音だけが、砂利を踏む。

「四十年な」

高校時代の森を思い出す。

背が高く、声が大きく、
いつも前を歩いていた。

自分は、その後ろで笑っていた。

対等だったはずだ。

少なくとも、あの頃は。

キッチンへ行き、水を飲む。

コップの冷たさが手に伝わる。

「広くなった、か」

森の家を想像する。

明るいリビング。
家族の写真。
きれいな床。

胸の奥で、何かが小さく軋む。

「何考えてんだ」

頭を振る。

ただ会うだけだ。

昔話をして、笑って、帰る。

それだけ。

「まあ、顔くらい見せるか」

もう一度、言ってみる。

さっきよりも少し、声が硬い。

日曜までの数日。

部屋を片付ける必要はない。
呼ばれたのは自分だ。

なのに、なぜか机の上を整え始める。

古い雑誌をまとめる。
灰皿を洗う。

「別に、関係ないだろ」

自分に言う。

それでも、手は止まらない。

森に会う。

その事実が、胸の奥でゆっくり波紋を広げる。

嬉しいのか。
緊張しているのか。
それとも。

窓から入る夕方の光が、部屋を橙色に染める。

電話はもう鳴らない。

だが、耳の奥で森の声が残っている。

『四十年の付き合いだろ』

「……ああ」

小さく答える。

まだ、この時は思ってもいなかった。

その“久しぶり”が、
友情の形を変えることになるなんて。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

処理中です...